第七十三夜 保存番号のある祈り
第七十三夜 保存番号のある祈り
翌朝、学院長府から届いた通知には、保存番号が付いていた。
リシアは、端末に表示された文字を見て、少しだけ息を止めた。
保存番号。
それは、ただの連絡ではないという印だった。
誰が、いつ、何を求め、どの部署が受け取り、どの手続きに載せたのか。
後から辿れる形で置かれた言葉。
昨日まで廊下で薄く揺れていた気配が、紙の上に足を置いたのだと分かった。
「来ましたね」
ステファニアが言った。
声は落ち着いている。
けれど、指先は少しだけ硬い。
リシアは、それに気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
自分の指先も、同じように硬くなっていたからだ。
アリシアは、朝食後の茶器を置き、通知の写しへ目を通した。
扇は開いていない。
白い指が、文面の上を一度だけなぞる。
「丁寧ですわね」
「丁寧、ですか」
リシアは聞き返した。
「ええ。とても丁寧です」
アリシアは微笑んだ。
「丁寧に、踏み込んでいます」
リシアは、もう一度文面を見る。
提出者。
メシア教会系学生会。
照会種別。
講義内容確認および史料解釈に関する意見提出。
照会対象。
聖女像寄進要求事件、または聖女隠匿事件と呼称される歴史事象について。
求める回答。
ファーランド大公家が提出した史料保全協力申出の範囲確認。
当該史料に含まれる「聖女像」呼称の妥当性。
信仰対象として扱われてきた像への敬意確保。
講義内でメシア教会系記録の根拠が薄いとされた点についての補足説明。
言葉は柔らかい。
どこにも攻撃的な表現はない。
けれど、読むほどに、リシアの胸の奥が冷えていく。
聖女像。
信仰対象。
敬意。
そのどれもが、祈りの言葉のように見える。
だが、同時に、アリシアとメイが眠っていた場所へ手を伸ばす言葉でもあった。
「これは、抗議ではないのですね」
リシアが言う。
「抗議に見せないための照会ですわ」
アリシアが答えた。
「抗議と書けば、相手も抗議として受けます。確認と書けば、受けない理由が少なくなります」
ステファニアが、通知を見つめたまま頷く。
「それでも、求めていることは重いですね」
「ええ」
アリシアは、そこで初めて扇を開いた。
音はしない。
静かに、白い骨が広がる。
「祈りの形をした、権限確認です」
リシアは、胸の奥でその言葉を繰り返した。
祈りの形をした、権限確認。
言葉が美しいほど、そこに混じる手の動きが見えにくくなる。
だからこそ、作法がいる。
記録がいる。
根拠がいる。
「学院長府は、面談形式での確認を提案しています」
クラウディアが言った。
彼女は朝から貸与邸に来ていた。
昨日の通知が入った時点で、同席が必要だと判断したのだろう。
「参加者は、学院長府書記官一名、歴史資料読解担当講師一名、メシア教会系学生会代表二名、ファーランド大公家側三名まで。記録魔石板あり。公開ではありませんが、学院保存記録になります」
「こちらの三名は」
リシアが尋ねる。
「リシア様、アリシア様、ステファニア様が妥当です」
クラウディアは即答した。
セラが少しだけ目を上げる。
「私は」
「護衛として室外待機が妥当です」
クラウディアが言う。
「廊下の流れを見る者が必要です」
セラは頷いた。
「承知しました」
リシアは、自分の名前が最初に置かれたことを、少し遅れて理解した。
リシア様。
アリシア様。
ステファニア様。
ファーランド大公家側。
その三名の最初に、自分がいる。
「私が、前に立つのですね」
声に出してから、思ったより小さく響いたことに気づいた。
アリシアが、こちらを見る。
「ええ」
短い返事だった。
優しくも、甘くもない。
ただ、それが当然であるという声だった。
「あなたは、現ファーランド大公家の公女です。わたくしは旧ファーランドの者であり、当事者でもありますが、今の家門を代表する者ではありません」
リシアは、唇を結んだ。
分かっている。
分かっていたはずだった。
けれど、言葉として置かれると、重さが違う。
アリシアは続ける。
「ただし、全部を背負う必要はありません」
「全部を」
「あなたは、現ファーランドの公女として、学院手続きに応じる。わたくしは、当事者として、史料の扱いと呼称に関わる線を引く。ステファニアは、第三者として、記録と問いの形を読む」
ステファニアが、静かに目を伏せた。
「第三者、ですか」
「ええ。レーヴェンハイトの者であり、ファーランドの友人であり、学院の学生でもある。あなたの位置は、今とても使い勝手がよろしいですわ」
「使い勝手」
ステファニアが、少しだけ困った顔をする。
アリシアは涼しい顔で微笑んだ。
「褒めています」
「そうは聞こえませんでした」
「褒めていますわ」
リシアは、少しだけ笑いそうになった。
そのわずかな緩みで、息が戻る。
怖い。
けれど、怖いだけではない。
隣に立つ人がいる。
後ろで廊下を見る人がいる。
作法を知る人がいる。
それなら、立てる。
「分かりました」
リシアは、通知を閉じた。
「現ファーランド大公家の公女として、出席します」
アリシアの扇が、ほんの少し傾いた。
それは、礼に近い動きだった。
◇
面談は、午後の二限後に設定された。
場所は、学院長府の第三記録室。
公開貸室よりも重く、正式会議室ほど遠くはない。
扉の横には、使用目的が表示されている。
史料照会。
保存番号。
参加者区分。
責任部署。
どれも、きちんと残る。
リシアは、扉の前で一度だけ息を整えた。
七十夜のステファニアも、公開貸室の前で同じように息を整えていた。
今になって、その意味が分かる。
これは戦場ではない。
けれど、息を整えずに入る場所でもない。
「リシア様」
ステファニアが小さく呼んだ。
「はい」
「最初の言葉だけ、決めておきましょう」
「最初の言葉」
「相手が祈りの言葉で入ってきた場合、こちらも敬意を否定しないこと。けれど、敬意の名で権限を混ぜないこと」
ステファニアは、落ち着いた声で言う。
「ですから、最初はこうです。信仰への敬意は尊重します。ただし、本日の照会は史料と学院手続きに関するものとして受けます、と」
リシアは、その言葉を心の中で繰り返した。
信仰への敬意は尊重する。
ただし、本日の照会は史料と学院手続きに関するものとして受ける。
祈りを拒まない。
だが、祈りに席を奪わせない。
「ありがとうございます」
「いえ」
ステファニアは少しだけ笑った。
「見えたものを、材料としてお渡ししただけです」
アリシアが、満足そうに目を細める。
「よろしいですわ」
その一言で、ステファニアの肩がわずかに落ちた。
緊張が解けたのではない。
役割が、手の中に収まったのだ。
セラは扉の横から廊下を見ている。
視線は柔らかいが、立ち方は護衛のものだった。
「廊下は」
リシアが尋ねる。
「少し多いです」
セラは答えた。
「見ていないふりをしている方が、いつもより多いです」
「分かりました」
リシアは頷く。
それから、扉を開けた。
◇
第三記録室の中には、すでに人がいた。
学院長府の書記官。
昨日の歴史資料読解の講師。
メシア教会系学生会の代表二名。
一人は、淡い灰色の髪を肩で揃えた女子学生だった。
胸元には、小さな銀の聖印。
もう一人は、年上の男子学生で、記録用の文書筒を持っている。
二人とも、礼は正確だった。
敵意は見えない。
少なくとも、表には出していない。
それがかえって、リシアの背筋を伸ばした。
「ファーランド大公家、公女リシア・ファーランドです」
リシアは名乗った。
「本日は、学院長府の照会手続きに従い、出席いたします」
続いて、アリシアとステファニアが名乗る。
アリシアは、ファーランド大公家縁者として。
ステファニアは、レーヴェンハイト侯爵家令嬢および学院学生として。
当事者。
縁者。
第三者。
その線が、最初の名乗りで置かれる。
書記官が記録魔石板を確認した。
「保存番号、七二一三。史料照会面談を開始します。発言は学院保存記録として残ります。発言者は、発言前に所属または氏名を明確にしてください」
魔石板が淡く光る。
場が、記録の中へ入った。
灰色の髪の女子学生が、静かに頭を下げた。
「メシア教会系学生会、エレナ・ヴァイスベルと申します」
柔らかい声だった。
「まず、ファーランド大公家の皆様が、長きにわたり聖女像に敬意を払い、守ってこられたことへ、学生会として敬意を表します」
リシアは、ステファニアに教えられた言葉を思い出した。
信仰への敬意は尊重する。
ただし。
「ファーランド大公家として、そのお言葉は受け取ります」
リシアは答えた。
「信仰への敬意は尊重します。ただし、本日の照会は史料と学院手続きに関するものとして受けます」
エレナの表情は変わらなかった。
だが、隣の男子学生の指が、文書筒の上でわずかに動いた。
ステファニアが、それを見ている。
アリシアは、ただ微笑んでいる。
「承知しました」
エレナは言った。
「では、史料に関する確認として申し上げます。昨日の講義において、メシア教会系記録には像の由来と保管権限について根拠が薄い、との説明がありました」
講師が頷いた。
「発言は私の講義内説明です。史料批判上の観点として述べました」
「はい」
エレナは講師へ礼を返す。
「学生会としては、信仰対象として伝えられてきた像について、根拠が薄いという表現が、信仰そのものを軽んじるものとして受け取られる可能性を懸念しています」
リシアは、すぐに答えなかった。
懸念。
可能性。
信仰そのもの。
言葉が、やわらかく広がる。
広がりすぎて、どこを掴めばよいか分かりにくい。
ステファニアが、机の下で指を一度だけ動かした。
合図ではない。
ただ、自分の中で問いを分けている動きだった。
アリシアが口を開く。
「アリシア・ファーランドです」
記録魔石板が光る。
「信仰そのものと、特定史料の根拠評価は分けて扱うべきですわ」
エレナが、アリシアを見る。
「はい。ですので、その線引きを確認したく存じます」
「では、確認しましょう」
アリシアは穏やかに言った。
「昨日の講義で根拠が薄いとされたのは、メシア教会系記録における像の由来と保管権限の主張です。信仰者が像へ祈りを捧げてきた事実ではありません」
室内が静かになる。
言葉が、綺麗に切り分けられた。
エレナは、ゆっくり頷いた。
「そのように記録されるのであれば、学生会としても一部安心できます」
一部。
まだ残りがある。
リシアにも分かった。
男子学生が、文書筒から一枚の紙を取り出した。
エレナがそれを受け取り、机へ置く。
「次に、呼称についてです」
来た。
リシアは、息を整えた。
「聖女像、という呼称は、長い信仰と慣習の中で用いられてきました。一方、ファーランド大公家の提出文書では、聖女像寄進要求事件という名称を採用しつつ、史料保全対象として扱っています」
エレナは、そこで一度言葉を切った。
「学生会としては、聖女像という呼称を史料上用いる場合、その像が信仰対象として尊重されてきた事実も併記されるべきではないかと考えます」
リシアは、その言葉を聞きながら、胸の奥が少しざわめくのを感じた。
尊重。
祈り。
信仰。
それらを否定するつもりはない。
否定したいわけでもない。
だが、その像は、アリシアだった。
メイだった。
祈られるためにそこにいたのではない。
待つために、眠っていた。
ガルフが守らせたのは、像ではなく、人だった。
リシアは、ようやくその言葉を見つけた。
「リシア・ファーランドです」
魔石板が光る。
「信仰対象として尊重されてきた事実があるなら、その事実を史料上確認することは否定しません」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「ですが、ファーランド大公家が保全する史料においては、まず保管対象が何であったかを確認します。信仰対象としてどう扱われたかは、その後に発生した歴史的事実です」
エレナは、リシアを見た。
初めて、少しだけ表情が動いた。
「つまり、信仰より前に、保管の事実があると」
「はい」
リシアは頷いた。
「そして、その保管権限はファーランド大公家側にあったと、当家は記録しています」
言い切った。
言い切ってから、心臓が強く鳴った。
だが、言葉は戻らない。
戻す必要もない。
アリシアが、隣で静かに扇を閉じた。
ぱちり、とは鳴らない。
ただ、骨が重なる小さな音だけがした。
ステファニアは、少しだけ目を伏せている。
記録を聞いている顔だった。
◇
エレナは、すぐには反論しなかった。
その沈黙は、怒りではない。
調整だった。
どの言葉なら、記録に残してもよいかを選んでいる。
その点で、彼女は廊下の学生たちとは違った。
軽い足ではない。
少なくとも、自分が歩いている場所を知っている。
「では」
エレナは、やがて言った。
「学生会としては、当該像が信仰対象として扱われてきた事実を、講義内および照会記録上、否定しないことを確認したいと考えます」
ステファニアが顔を上げた。
「ステファニア・レーヴェンハイトです」
魔石板が光る。
「今のご発言について、確認いたします」
エレナの視線が、ステファニアへ移る。
「学生会が求めているのは、信仰対象として扱われてきた事実の否定回避ですか。それとも、聖女像という呼称の正当性承認ですか」
室内の空気が、少しだけ硬くなった。
リシアは、思わずステファニアを見た。
問いが、鋭い。
だが、乱暴ではない。
二つを混ぜたまま進めば、相手は「否定しない」を「認めた」に変えられる。
ステファニアは、それを先に切ったのだ。
エレナは、微笑みを保った。
「まずは、否定回避です」
「まずは」
ステファニアが繰り返す。
「はい。呼称の正当性については、今後の史料確認の中で扱うべきものと考えます」
「では、本日の記録では、信仰対象として扱われてきた事実を否定しない、という確認に留める。その理解でよろしいでしょうか」
エレナは、一瞬だけ黙った。
男子学生が、文書筒の上に置いた手を止める。
書記官が、淡々と記録を見ている。
講師は、表情を変えない。
「はい」
エレナは答えた。
「本日の記録としては、その理解で構いません」
ステファニアは頷いた。
「ありがとうございます」
アリシアの目が、ほんの少しだけ細くなった。
褒めている。
リシアには、そう見えた。
◇
面談は、一時間に満たず終わった。
だが、リシアには、半日ほど座っていたように感じられた。
最後に、書記官が記録内容を読み上げる。
信仰対象として扱われてきた事実は否定しない。
ただし、当該保管対象の由来、保管権限、呼称の正当性については、史料確認と根拠提示を要する。
ファーランド大公家側は、限定写しの閲覧準備を進める。
メシア教会系学生会側は、教会系記録における像の由来および保管権限主張の根拠史料について、保存番号付き文書として提示可能か確認する。
口頭での一般化、未確認情報の流布、照会内容の切り取り引用は、学院規則上の注意対象となる。
書記官が読み終える。
「以上で相違ありませんか」
リシアは、アリシアとステファニアを見た。
二人とも、微かに頷く。
「ファーランド大公家側、相違ありません」
リシアは答えた。
エレナも頷く。
「メシア教会系学生会側、相違ありません」
記録魔石板の光が、静かに落ちる。
面談は終わった。
終わったのに、何かが始まったように感じた。
エレナが立ち上がる。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
リシアが礼を返す。
エレナは、アリシアへも礼をした。
「アリシア様」
「はい」
「失礼を承知で申し上げます。あなたは、祈られることを望まれませんか」
室内の空気が止まった。
書記官の手が、記録停止後の確認板の上で止まる。
講師が、わずかに眉を動かす。
リシアは、息を忘れた。
記録は、もう終わっている。
だが、部屋の中で発せられた言葉であることに変わりはない。
アリシアは、ゆっくりとエレナを見た。
怒ってはいない。
少なくとも、表情には出ていない。
「エレナ様」
声は、静かだった。
「祈りは、祈る者のものです」
エレナは、まっすぐアリシアを見ている。
「ですが、祈りの名で、眠る者の名と場所を奪うことはできません」
アリシアは、少しだけ微笑んだ。
「わたくしは、祈られるために眠っていたのではありません」
それだけだった。
エレナは、深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
「ええ」
アリシアは、同じ角度で礼を返す。
「次からは、記録が動いている間にお尋ねくださいませ」
優しい声だった。
優しい声で、最後の線を引いた。
◇
記録室を出ると、セラが壁際から体を起こした。
「終わりましたか」
「終わりました」
リシアが答える。
「廊下は」
「見ていた方が、少し減りました」
「減ったのですか」
「はい」
セラは、廊下の先へ視線を向ける。
「近くで見ても、よく分からないと思ったのかもしれません。少し遠くに移っています」
アリシアが、小さく笑った。
「よく見ていますわ」
「ありがとうございます」
セラは真面目に頷いた。
リシアは、廊下の向こうを見る。
白い壁。
歩く学生。
掲示板。
いつもの学院。
けれど、見えない場所で、今日の保存番号が増えた。
祈りの言葉が、記録の上に置かれた。
そして、アリシアが言った。
祈られるために眠っていたのではない。
その言葉は、リシアの胸の奥で静かに重くなっていた。
ステファニアが、隣で小さく息を吐く。
「リシア様」
「はい」
「お疲れさまでした」
その一言で、リシアはようやく、自分がずっと肩に力を入れていたことに気づいた。
「ありがとうございます」
リシアは、少しだけ笑った。
「ステファニア様も」
「私は、問いを分けただけです」
「その問いがなければ、混ざっていました」
ステファニアは、目を伏せた。
「では、役に立ったということにしておきます」
アリシアが扇を開く。
「役に立った、ではありませんわ」
ステファニアが、そちらを見る。
「よく切れました」
その言い方があまりに自然だったので、リシアは一瞬、褒め言葉なのかどうか迷った。
ステファニアも、少しだけ困った顔をする。
「……ありがとうございます」
「ええ」
アリシアは満足そうに頷いた。
白い廊下の向こうで、夕方の鐘が鳴り始める。
その音を聞きながら、リシアは思った。
今日は、誰も声を荒げなかった。
誰も、廊下で相手を責めなかった。
けれど、祈りの言葉は記録の上で測られた。
それはきっと、剣を抜かない戦いだった。
そして自分は、その場に公女として立った。
まだ十分ではない。
けれど、立った。
その事実だけは、保存番号のある記録の中に残った。




