幕間十四 捕虜とは
幕間十四 捕虜とは
捕虜区画は、清潔だった。
それが最初の問題だった。
ディートハルト・ヴァイスは、与えられた寝台に腰を下ろし、しばらく黙っていた。
壁は白い。
床に埃はない。
空気は澄んでいる。
室温は高すぎず低すぎず、湿り気もない。
見張りはいる。
拘束具もある。
扉は一つで、こちらからは開かない。
だから、ここは間違いなく捕虜区画だった。
そのはずだった。
「隊長」
部下の一人が、低い声で言った。
「何だ」
「寝台が柔らかいです」
「そうだな」
「毛布もあります」
「あるな」
「湯まで出ました」
「出たな」
「……これは本当に捕虜の扱いなのでしょうか」
ヴァイスは腕を組んだ。
そして、真剣に考えた。
捕虜とは何か。
武装解除され、逃走を制限され、相手の管理下に置かれた者である。
その定義で言えば、自分たちは間違いなく捕虜だった。
ただし。
「帝国軍の野営より快適だな」
「言ってしまわれましたね」
「事実だ」
別の部下が、寝台の端に座ったままぼそりと言う。
「帝国軍の北方演習では、雨漏りする天幕で三日過ごしました」
「南部補給路では、泥水を濾して飲みました」
「工廠区警備の夜勤では、食事が冷えた豆粥だけでした」
「それも、豆が少なかった」
「あれは粥というより、粥の記憶でした」
沈黙。
誰も否定しなかった。
ヴァイスは深く頷いた。
「よし」
「何がよろしいので」
「我々は捕虜である」
「はい」
「だが、待遇は帝国軍勤務時代より良い」
「はい」
「ならば、無駄に騒ぐ理由はない」
部下たちは、妙に納得した顔で頷いた。
見張りに立っていた調整体が、わずかに視線を動かした。
表情は変わらない。
だが、記録はしている。
ヴァイスには分かった。
あれは、戦場で敵の肩の揺れを読む目ではない。
任務中に妙なものを見てしまった者の目だ。
◇
捕虜区画の監視室で、クラウディアは記録を確認していた。
壁面に、ヴァイス隊五名の状態が並ぶ。
生命反応。
拘束具状態。
会話記録。
食事摂取量。
睡眠時間。
敵性反応。
逃走兆候。
どれも安定している。
安定しすぎている。
「捕虜の心理状態としては、かなり異例です」
管制担当の調整体が言った。
「拘束状態への反発が少ない。食事への警戒も初回以降、急速に低下しています」
「理由は」
「帝国軍勤務時代の待遇との比較によるものと思われます」
クラウディアは一拍だけ黙った。
「比較対象が悪すぎます」
「同意します」
表示の一つで、ヴァイス隊の部下が温かい汁を飲んでいる。
その顔は、緊張している。
緊張しているが、同時に少し救われた顔でもあった。
捕虜飯に救われる敵兵。
分類が難しい。
クラウディアは記録区分を一つ追加した。
捕虜待遇適応。
その下に、補足を入れる。
帝国軍標準待遇との落差により、心理的抵抗が低減している可能性あり。
あまり見たくない文字列だった。
その時、扉が開いた。
マキナが入ってくる。
白衣の裾を揺らし、片手に端末を持っている。
「やあ、クラウ。捕虜の人たち、思ったより大人しいね」
「観察対象ではありません」
「捕虜って観察対象じゃないの?」
「尋問対象、管理対象、安全確保対象です」
「似たようなものじゃないかな」
「違います」
マキナは肩をすくめた。
「でも、あの隊長さん、面白いよ。帝国飯よりここの捕虜飯が美味しいって真顔で言ってた」
「記録済みです」
「帝国軍、何を食べさせてるのさ」
「それも調査対象です」
「技術部の管轄?」
「違います」
「残念」
まったく残念そうではなかった。
クラウディアは表示を切り替える。
捕虜区画内部の音声が流れた。
「隊長」
「何だ」
「このままでは、体が鈍ります」
「そうだな」
「捕虜が鍛錬を求めるのは、問題でしょうか」
「問題だろう」
「では諦めますか」
「諦める理由にはならん」
クラウディアは目を細めた。
マキナが楽しそうに笑う。
「ほら、面白くなってきた」
「面白がらないでください」
「でも、クラウも少し興味あるでしょ」
「ありません」
「表示、拡大してるよ」
クラウディアは何も言わず、表示倍率を戻した。
◇
翌日、ヴァイスは正式に申し出た。
捕虜区画の面談室。
机を挟んで、クラウディアが座っている。
左右には調整体の警備が二名。
ヴァイス側は本人一人。
拘束具はついている。
だが、姿勢は崩れていない。
捕虜でありながら、相手への礼を失っていない。
その一点については、クラウディアも評価していた。
「要望を確認します」
「鍛錬場をお借りしたい」
「捕虜が、ですか」
「捕虜が、です」
「理由は」
「体が鈍る」
「逃走準備と判断される可能性があります」
「承知している。逃げぬ」
「その言葉だけでは保証になりません」
「ならば条件を付けていただきたい」
ヴァイスは即答した。
「武器は不要。棒でよい。人数はそちらが決めてよい。場所も時間も監視も、すべてそちらに従う」
「そこまでして鍛錬が必要ですか」
「必要です」
迷いのない答えだった。
「剣を忘れるわけにはいかん」
クラウディアは、しばらく彼を見ていた。
敵兵。
捕虜。
帝国軍の別働隊隊長。
鼻つまみ者。
けれど、その前に、この男は剣士だった。
アインの剣を見て、自分から捕虜になることを選んだ男。
敗北を屈辱ではなく、学ぶべきものとして受け取った男。
危険ではある。
だが、危険だからと切り捨てるには惜しい。
「条件を提示します」
「拝聴する」
「監視付き。拘束具は鍛錬用制限モードへ変更。武器は訓練用の棒。使用者登録済みの物のみ。相手はこちらで指定します。場所は第三訓練区画の副室。外部通路との接続は遮断。終了後、即時医療確認と拘束具再設定」
「十分だ」
「まだあります」
「伺おう」
「指導行為は許可していません。勝手にこちらの人員へ技術を教えないでください」
ヴァイスは、そこで少しだけ困った顔をした。
「剣を交えれば、教えることになる」
「意図的な技術移転は禁止です」
「では、こちらは勝つつもりで打つ。そちらが勝手に学ぶ分には、私の責ではない」
クラウディアは無言で記録した。
詭弁。
ただし、剣士としては正論。
「承認は保留します。殿下に確認します」
「感謝する」
ヴァイスは頭を下げた。
捕虜の礼ではない。
剣士の礼だった。
◇
アインの返答は短かった。
「いい」
クラウディアは、予想通りの答えに少しだけ息を吐いた。
「よろしいのですか」
「監視するんだろ」
「はい」
「逃げたら止める」
「はい」
「役に立つならいい」
言葉はそれだけだった。
マキナが横から覗き込む。
「殿下、捕虜に鍛錬場を貸すの、けっこう大胆だよ」
「剣を腐らせる方が無駄だ」
「うわあ」
マキナは、なぜか楽しそうに笑った。
「クラウ、聞いた? 捕虜の剣も資源扱いだよ」
「聞いています」
「ベルカらしいねえ」
「マキナ」
「はいはい。余計な記録名は付けないよ」
クラウディアは信じなかった。
実際、その日のうちに技術部の非公式記録には、捕虜剣術資源化事案という仮名がついていた。
即時削除させた。
◇
第三訓練区画の副室は、白い床と灰色の壁でできた簡素な空間だった。
装飾はない。
床には衝撃吸収層が入り、壁面には医療監視と危険判定の装置が埋め込まれている。
訓練用の棒は、長さも重さも登録されていた。
使用者が規定以上の力で打ち込めば、棒そのものが硬度を落とす。
逃走用に使おうとすれば、握りの部分が解除される。
それでも、ヴァイスは棒を受け取ると、満足そうに頷いた。
「よい重さだ」
「制限付きです」
警備担当の調整体が言う。
「構わん」
ヴァイスは棒を軽く振った。
音が変わる。
ただの棒が、少しだけ剣に近いものになった。
向かいに立ったのは、調整体第三班の一人だった。
身体能力は高い。
反応速度も速い。
任務遂行能力も安定している。
だが、地上の剣士が持つ、泥くさい間合いは知らない。
クラウディアは監視室からそれを見ていた。
アインも隣にいる。
マキナもいる。
なぜかいる。
「始め」
合図と同時に、調整体が動いた。
速い。
直線的で、無駄がない。
ヴァイスは動かなかった。
半歩だけ、右足を引く。
それだけで、調整体の棒は空を切った。
次の瞬間、ヴァイスの棒が相手の手首の内側を軽く叩く。
硬度制限が働くほどの打撃ではない。
だが、十分だった。
握りが甘くなる。
調整体が即座に修正しようとする。
その修正先へ、ヴァイスはもう入っていた。
肩。
膝。
視線。
踏み替え。
全部が、少しずつ遅らされる。
速さで負けているわけではない。
速さを使う場所を、先に奪われている。
三合目で、調整体の首元に棒が止まった。
「勝負あり」
判定音が鳴る。
調整体は、一拍置いて礼をした。
「再戦を希望します」
「よい」
ヴァイスは真顔で頷いた。
「だが、次は最初の踏み込みを少し右へずらせ。お前は速いが、速いことを相手に見せすぎる」
監視室のクラウディアが目を細めた。
「指導行為です」
「勝手に学ばれた範囲じゃない?」
マキナが言う。
「明確に言語化しています」
「でも、もう遅いよ。第三班、全員聞いてる」
表示の中で、調整体第三班の視線がわずかに変わっていた。
ただ見るのではなく、観察する目になっている。
クラウディアは、記録区分を追加した。
捕虜による非公式実戦剣術影響。
ひどい分類名だった。
だが、正確だった。
◇
三日後。
第三訓練区画副室の予約枠は、妙なことになっていた。
ヴァイス隊捕虜鍛錬。
調整体第三班観察。
調整体第五班比較。
ハイランダー補助監視。
医療班事後確認。
技術部訓練棒耐久評価。
研究部身体反応測定。
最後の二つは不要だった。
クラウディアはそう判断した。
しかし、マキナは当然のように言った。
「訓練棒、予想より面白い壊れ方をするんだよ」
「捕虜鍛錬を技術評価に使わないでください」
「使ってないよ。結果的に取れたデータを捨ててないだけ」
「同じです」
「違うよ」
違わない。
クラウディアは表示を戻した。
訓練室では、ヴァイス隊の別の隊員が調整体と打ち合っている。
隊員たちは、逃げようとしていない。
むしろ、妙に真面目に教えている。
いや。
教えているのではない。
勝とうとしている。
そして、勝とうとする過程で、調整体たちが勝手に学んでいる。
ヴァイスの詭弁は、現実になっていた。
「調整体第三班、昨日より踏み込みが深くなっています」
管制担当が報告する。
「第五班は間合いの取り方に変化。第七班は視線誘導への反応が改善」
「原因は」
「ヴァイス隊との鍛錬後です」
クラウディアは黙った。
予測はしていた。
していたが、速度が速い。
調整体は、基礎性能が高い。
欠けていたのは、地上の生身の剣士が持つ嫌な間合いだった。
そこへヴァイス隊が入った。
泥臭い読み。
崩し。
誘い。
相手の癖を一合で掴む目。
それらは、アークライトの標準訓練では得にくいものだった。
「クラウ」
マキナが、記録映像を見ながら首を傾げた。
「何ですか」
「ボク思うんだけどさ」
「言わなくていいです」
「捕虜って何だっけ?」
クラウディアは、表示を見た。
訓練室では、ヴァイスが調整体へ棒を向けている。
その顔は真剣だった。
調整体も真剣だった。
見張りも真剣だった。
医療班も、なぜか真剣に記録を取っている。
捕虜区画から始まったはずのものが、いつの間にか訓練体系の一部になりつつある。
クラウディアは、短く答えた。
「管理対象です」
「今、教官っぽいけど」
「管理対象です」
「実戦剣術教官みたいな動きしてるよ」
「管理対象です」
マキナは楽しそうに笑った。
その時、背後からアインの声がした。
「役に立っているならいい」
クラウディアは振り返った。
アインは表示を見ている。
表情は変わらない。
ただ、その目には少しだけ、昔の戦場を思い出すような色があった。
「殿下」
「逃げないなら、使え」
「捕虜です」
「分かってる」
「相手は帝国軍人です」
「分かってる」
「危険です」
「だから監視する」
短い。
だが、判断は終わっている。
クラウディアは軽く息を吐いた。
「承知しました。捕虜管理規定に、訓練参加時の追加項目を作成します」
「任せた」
アインはそれだけ言って、訓練室の表示へ視線を戻した。
そこでは、ヴァイスがまた一本取っていた。
今度は、調整体がすぐに構えを直す。
ヴァイスが頷く。
部下たちが、壁際で見ている。
敵だった者たち。
捕虜になった者たち。
だが、剣を交える場では、彼らは確かに何かを渡していた。
アークライトの中に、また一つ、予定になかった風が入ってくる。
クラウディアは、その記録に表題を付けた。
捕虜鍛錬観察記録。
少し考えて、補足を入れる。
実戦剣術影響あり。継続観察。
マキナが横から覗き込んだ。
「もっと面白い表題にしようよ」
「却下します」
「捕虜って何だっけ、でいいじゃない」
「却下します」
「えー」
クラウディアは、表情を変えずに記録を保存した。
捕虜とは、管理対象である。
少なくとも、記録上は。
そのはずだった。




