第9話 あなたの権限はここには及ばない
「ノエル、戻ってきてくれ」
——その声を聞いたのは、救療院の廊下だった。
面会室に通された時点で、嫌な予感はしていた。事務官が「フォーリス伯爵がお見えです」と言った時、指先が冷たくなった。三日前に届いた報せの通りだ。
セドリックは面会室の椅子に座っていた。外套を着たまま。王都まで馬車で三日。旅の疲れが顔に出ている。けれど身なりは整えている。社交の場で培った習慣が、こういう時にも抜けないのだろう。
「領地が持たない。防疫が、帳簿が——お前がいないと回らない」
「婚姻無効の手続きは進行中です。伯爵とお話しすることはございません」
伯爵、と呼んだ。もう「旦那様」ではない。この人は他人だ。
セドリックの目が、一瞬、揺れた。それから、表情が変わった。社交の場で見せる、あの取り繕った笑顔ではない。もっと剥き出しの——焦りだ。
「まだ婚姻は正式には無効になっていない。俺はまだお前の夫だ。夫として、妻を連れ帰る権利がある」
権利。
(権利、と言ったのか。この人が。五年間、一度も結婚記念日に食卓に座らなかったこの人が。私の名前を報告書に書いたことのないこの人が。——権利)
怒りが来た。
腹の底から、熱い塊がせり上がってくる。五年間、一度も感じなかった種類の怒り。悲しみでも諦めでもない。はっきりとした、怒りだ。
——だが、声には出さなかった。
「伯爵。ここは王宮直轄の救療院です。面会はここまでに——」
院長が間に入ろうとした。セドリックが立ち上がった。椅子が鳴った。
「ノエル。俺は——」
「彼女は俺の部下だ」
声は、廊下から来た。
レナード先生が、面会室の扉の前に立っていた。腕を組んでいない。両腕を体の脇に下ろして、まっすぐにセドリックを見ている。
「王宮直轄機関の職員に対して、伯爵の権限はここには及ばない」
低い声だった。感情を押し殺した声。けれどその奥に、剥き出しの意志がある。
セドリックがレナード先生を見た。上から下まで。白衣の軍医。伯爵より身分は低い。
「お前は誰だ」
「二年前、お前の領地で半年間仕事をした軍医だ」
レナード先生は一歩も動かなかった。
「——お前が一度も見に来なかった診療所で、お前の妻が何をしていたか。俺は知っている」
セドリックが、何も言えなかった。
社交の場なら、この人は切り返せただろう。弁舌の巧みさは本物だ。けれどここは社交の場ではない。事実を突きつけられた時に、この人には返す言葉がない。
……いつもそうだった。この人が強いのは、嘘が通じる場所だけだ。
セドリックは外套の襟を直して、面会室を出ていった。すれ違いざまにレナード先生を睨んだが、レナード先生は視線を動かさなかった。
足音が遠ざかる。救療院の門が閉まる音がした。
◇
中庭に出た。冬の空気が、頬を刺した。
「……ありがとうございます、レナード先生」
レナード先生は私の後ろに立っていた。腕を組んでいる。いつもの姿勢に戻っている。
「でも——私は、自分で」
言いかけて、止まった。
自分で、何だ。自分で戦いたかった? 自分で追い返したかった?
(……また、誰かに守られている。フォーリス領では父に。ここではレナード先生に。私は、自分の足で立てないのか)
怒りが、まだ体の奥に残っていた。セドリックへの怒りではない。自分への——
「庇護じゃない」
レナード先生の声が、背中から聞こえた。
「お前が必要だから守るんだ」
振り返った。レナード先生は腕組みを解いていた。両手が下がっている。あの鋭い目が、今は——少しだけ、揺れている。
「——医師としても。それ以外としても」
それ以外。
心臓が、跳ねた。
「……それ以外、とは?」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。震えていなかった。八日前なら——いや、二ヶ月前なら、こんな問いかけはできなかっただろう。
レナード先生が口を開きかけた。
「レナード先生! ラヴィエール先生!」
院長が中庭に駆け込んできた。手に書状を持っている。
「領主会議の招集状だ。来週の会議に、ラヴィエール先生も出席してほしいと——王宮から名指しの指名だ」
レナード先生が、口を閉じた。
……答えは、聞けなかった。
でも——聞けなくても、もう知っている。この人の目が、何を言おうとしていたか。
◇
領主会議は、王宮の大広間で開かれた。
全領主が列席する半期に一度の会議。税収、人口、衛生状況——全てが数値で報告され、比較される。壇上には王宮監査官が立ち、各領の報告書を読み上げていく。
私は来賓席にいた。救療院の代表として。隣にレナード先生がいる。腕を組んでいる。
「——続いて、フォーリス伯爵領」
監査官の声が、大広間に響いた。
「防疫体制の機能停止。冬季感染症の発生件数、前年同期比三倍。税収は前期比三十パーセント減。領民の他領への流出、四十二世帯」
数字が並ぶ。一つ一つが、重い。四十二世帯。あの道で見送ってくれた人たちの中に、この数字の一部がいるのだろうか。
セドリックは領主席にいた。表情を保とうとしている。社交の顔を。けれど、数字の前では仮面は役に立たない。
「同時に、ご報告いたします」
監査官が書類をめくった。
「王都救療院において、元フォーリス伯爵夫人ノエル・ラヴィエール嬢が主導した衛生改善により、院内感染率が四十パーセント低下。本功績は本日、王宮より正式に表彰されます」
大広間が、ざわめいた。
「フォーリス伯爵」
監査官がセドリックを見た。
「あなたの領地の医療改革は——元夫人の手によるものだったのではないですか?」
沈黙。
セドリックが立ち上がりかけた。何か言おうとした。隣にリリアーヌが座っていたが、彼女は——何も言わなかった。言えなかった。薬草の名前ひとつ知らない人間に、ここで語れることはない。
「……監査を提案いたします」
監査官が淡々と告げた。
「フォーリス伯爵領の経営実態について、王家の名において調査を実施することを」
議場から異議は出なかった。
……終わった。
終わったのだと思った。あの五年間の、帳簿と薬草園と眠れない夜の——決着が、数字と制度の言葉で、つけられた。
私は何もしていない。ただ、去っただけだ。自分の人生を生きようとしただけだ。
セドリックの顔は見なかった。見る必要がなかった。
隣で、レナード先生が小さく息を吐いた。腕組みが、ほんの少し緩んでいた。
大広間を出る時、冬の陽が廊下に差し込んでいた。白い光だった。
もう振り返らない。
——ただ、あの人の「それ以外」の答えだけは、ちゃんと聞きたいと思った。




