第8話 処方箋
王宮から、書状が届いた。
朝の医局会議の後、院長に呼ばれた。応接室の机の上に、王家の封蝋が押された書状が広げてあった。
「ラヴィエール先生。——内示ですので、まだ公にはできませんが」
院長の声が、少し弾んでいる。白髪の痩せた顔に、珍しく笑みが浮かんでいた。
「次の領主会議の席で、あなたに王宮から医療貢献の表彰が授与されます。救療院着任以来の衛生改善と感染率の低下が評価されたものです」
表彰。王宮からの。
「……私に、ですか」
「他に誰がいますか」
院長が笑った。エステルの「当たり前でしょう」とは違う、穏やかな笑い方だった。
「あなたがここに来てから、この救療院は変わりました。数字がそう言っている。王宮もそれを見ている。——胸を張ってくださいな」
応接室を出た後、廊下でしばらく立ち止まった。
表彰。私の名前で。王宮から。
(フォーリス領では——あの五年間では、こういうことは一度も。報告書に載るのはいつも「伯爵の成果」で、社交の場で語られるのは「リリアーヌの助言」で。私の名前が公的な場で呼ばれることは、なかった)
嬉しいのだと思う。たぶん。ただ、喜び方を忘れてしまったのだ。五年間、喜ぶ練習をしていなかった。
◇
医局に戻ると、レナード先生の席は空だった。外来の急患に呼ばれたと、看護師が言っていた。
午後の手洗い台の修繕報告を書こうとして、消毒薬の在庫表が見当たらないことに気づいた。先週、レナード先生に渡したはずだ。机の上にはない。引き出しかもしれない。
少し迷ってから、レナード先生の机の引き出しを開けた。在庫表を探すだけだ。
上段は文房具。中段は書類の束。在庫表は——あった。書類に挟まっていた。取り出そうとした拍子に、下の冊子がずれて表紙が見えた。
革表紙。使い込まれた手帳。
——着任初日の夜に、書棚の奥で見つけたものとは別のノートだった。同じ革の装丁だけれど、こちらのほうが厚い。
開くべきではない。人の手帳を。わかっている。
開いた。
几帳面な字がぎっしり並んでいる。あの夜見たメモと同じ筆跡。薬草の名前、調合手順、煎じ方の温度と時間。
だが——これは、あの夜のメモよりずっと詳しかった。
頁ごとに日付が振ってある。二年前の秋。二年前の冬。二年前の春——赴任の終わりまで。半年分の記録が、丸ごと一冊に収められていた。
全て、私の処方だった。
フォーリス領で私が使っていた薬草の配合、投与の判断基準、季節ごとの調合の変化。レナード先生が直接見たもの、聞いたもの、推測したもの。全てが書き留められていた。
頁の端に、走り書き。
『※伯爵夫人に確認したいが、立場上不可』
手が、止まった。
確認したかったのだ。この人は。私の処方について、質問したかったのだ。二年前の——あの頃。
でも、できなかった。伯爵夫人に、一介の軍医が私的に声をかけることは——立場が、許さなかった。
(この人は、あの頃から。半年間、黙って私の仕事を記録し続けていた。聞きたいことがあったのに。確認したいことがあったのに。立場上不可、と書いて——それでも、書き写すことだけは、やめなかった)
ノートを閉じた。元の場所に戻した。指先が冷たかった。
「——ノエル?」
エステルの声がした。医局の入口に立っている。
「どうしたの。顔色が悪いわよ」
「……何でもない」
「嘘。何でもない人はそんな顔しないわ」
エステルは遠慮なく私の正面に座った。机に肘をついて、こちらを覗き込む。
「ねえ、ノエル。あなたに聞きたいことがあったの」
「……何ですか」
「気づいてる? レナード先生、あなたのことになると目つきが変わるのよ」
目つき。
「他の人と話してる時は腕を組んだまま。ぴくりとも動かない。でもあなたが話しかけると、腕組みが解けるの。毎回よ。毎回」
腕組み。……確かに、レナード先生はいつも腕を組んでいる。それが、私の時だけ——
「あと、声のトーン。他の先生に指示を出す時はもっと素っ気ないわ。あなたには少し——ほんの少しだけ、遅いの。言葉を選んでる感じ」
「……それは、私が新任だから」
「もう二ヶ月よ? いつまで新任なの」
エステルが目を細めた。楽しんでいる顔だ。
「あの人、他の人にはしないのよ。夜食も。蝋燭も。声の速さも。全部、あなたにだけ」
あなたにだけ。
また、この言葉だ。
「……わからない。わからないわ、エステル」
「わからない?」
「わからないのよ。そういうことが——私には」
声が小さくなった。自分でも驚くくらい。
エステルの顔から、からかいの色が消えた。真面目な目でこちらを見ている。
「……ごめんね。急かしたわけじゃないの」
「いえ」
「ただ、あなたに知っておいてほしかっただけ。あの人がどういう目であなたを見てるか。——気づかないのは、もったいないと思って」
エステルはそれだけ言って、自分の机に戻った。
◇
官舎に戻ったのは、日が暮れてからだった。
マルトが夕食を用意してくれていたが、あまり喉を通らなかった。スープを半分飲んで、自室に入った。
寝台に腰を下ろして、天井を見た。
——二年前のノート。「立場上不可」の走り書き。腕組みが解ける。声が遅くなる。夜食。蝋燭。上着。
(……これは、何だろう)
胸の奥に、名前のつかないものがある。温かくて、少し苦しい。フォーリス領では一度も感じなかったもの。
(あの人の——レナード先生のことを考えると、胸の奥が詰まる。あの不器用な声を思い出すと、手のひらが熱くなる。上着の匂いを——まだ、覚えている)
……これは。
(——恋、なのだろうか)
その言葉が浮かんだ瞬間、体が強張った。
恋。私が。離縁もまだ正式に成立していない、元伯爵夫人の私が。
(資格があるのか。こんな感情を持つ資格が、私に。五年間、夫婦の実態すらなかった女に。——あの人に、こんな気持ちを向けていいのか)
膝の上で手を組んだ。七日前、この手はレナード先生の上着を握りしめていた。あの温かさを、まだ覚えている。
——わからない。わからないけれど、今は。
扉を叩く音がした。
「奥方様」
マルトの声に、夜の緊張が混じっていた。
「お手紙です。救療院の事務方から、至急と」
封を切った。事務官の走り書き。
『フォーリス伯爵が本日、王都に到着。明日、救療院への面会を申し入れるとの報あり。院長に報告済み。ご留意ください』
手紙を膝に置いた。
セドリックが、来た。
……まだ終わらないのか。
あの人は、まだ私を——「自分のもの」だと思っているのだろうか。帳簿を。領地を。私自身を。
窓の外は暗かった。冬の王都の夜は長い。
手紙を引き出しにしまった。着任して間もない頃に届いたセドリックの手紙が、まだそこにあった。赤い封蝋が二つ、並んでいる。
……明日のことは、明日考えよう。
今は——今はまだ、胸の奥の名前のつかないものについて、もう少しだけ考えていたかった。




