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白い結婚の終わり  作者: 秋月 もみじ


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第7話 二年前の冬


 陳情書は、もう執務机に収まらなくなっていた。


 床に積み上げた分も含めて、三十通を超えた。全て領民からだ。「冬の薬をください」「巡回の先生が来ません」「前の奥方様はこうしてくださった」。

 ——前の奥方様。前の奥方様。前の奥方様。


 リリアーヌが「私が薬草園を見てまいります」と申し出た。俺は安堵した。彼女なら何とかしてくれる。


 結果は惨憺たるものだった。カモミールとヨモギの区別がつかなかった。使用人に「それは雑草です」と言われ、泣きそうな顔で戻ってきた。


 ……ノエルは一体、何をしていたのだ。


 防疫の手順書を引っ張り出した。文字は読める。だが内容がわからない。薬草名、投与量、隔離基準——知識のない人間には暗号だ。


(いや——あんな地味な作業だ。誰かが代わりをできる。リリアーヌに慣れてもらえばいい)


 ……ただ、領民の陳情が止まらない。このままでは春の領主会議に間に合わない。


 俺はペンを取った。王都行きの馬車を手配する。帳簿を取り返す。できれば——あの女自身を連れ戻す。



 夜間診療が終わらない。


 冬の王都は感染症の患者が多い。救療院には毎晩、熱を出した子供や咳の止まらない老人が運ばれてくる。今夜だけで八人。廊下の端まで待合の列が伸びていた。


 最後の患者——五歳くらいの男の子の額に手を当てた。まだ熱が高い。薬草の煎じ薬を処方して、付き添いの母親に飲ませ方を説明した。「二刻ごとに一匙。朝まで様子を見てください。明日、熱が下がらなければまた来てください」


 母親が何度も頭を下げて帰っていく。小さな手が母親の裾を掴んでいる。フォーリス領にもいた。こういう子供が。冬になるたびに。

 その背中を見送って、壁にもたれた。


 ……足が重い。


 最近、この感覚を思い出す。フォーリス領にいた頃の、あの重さ。夜通し患者を看て、朝に帳簿を開いて、昼に薬草園を回って。体が限界を訴えているのに、止まる理由がないから動き続ける。


「……おい」


 レナード先生の声が、廊下の向こうから聞こえた。


 白衣のまま歩いてくる。腕を組んでいない。珍しい。両手が体の脇に下がっている。


「まだ患者がいます。次の——」

「いない。最後の患者は今、帰った」

「では記録を——」

「休め」


 短い。いつもの一言だ。


「記録は明日でいい。お前は二日連続の夜勤だろう。限界を超えてからでは遅い」

「……大丈夫です」

「大丈夫じゃない顔だ」


 言い返そうとして、立ちくらみがした。


 壁に手をついた。視界が暗くなって、一瞬だけ膝が折れかけた。


 ——肩に、何かがかかった。


 重い。温かい。レナード先生の上着だった。消毒薬と、少しだけ煙草の匂い。無言で肩にかけられた。


「先に休め。残りは俺がやる」


 その声は、命令でも、お願いでもなかった。ただの事実の通告。この人はいつもそうだ。必要なことだけを、必要な言葉で言う。


「……なぜ」


 口をついて出た。


「なぜ、そこまで」


 レナード先生は、少しの間、黙った。


 廊下の魔法灯が、ちりちりと音を立てていた。夜明け前の救療院は、患者の寝息と、遠くの水滴の音しか聞こえない。


「……二年前の冬」


 レナード先生が口を開いた。こちらを見ていない。壁の向こうを見ている。


「フォーリス領に赴任していた時——夜中に、入院棟を見回ったことがある」


 知っている。いや、知らなかった。この人が夜中に見回りをしていたことは、知らなかった。


「お前がいた」


 短い文が、一つずつ落ちてくる。


「一人で。真夜中に。患者の枕元で、薬草を擂っていた」


 ……覚えている。あの冬は感染症がひどかった。三人の重症者が出て、私は一週間ほど、ほとんど眠らなかった。


「手が荒れていた。擂り鉢を握る指が赤くなっていた。……貴族の妻がやることじゃない。使用人に任せればいい仕事だ」


 レナード先生の声が、少しだけ低くなった。


「だが——お前はやっていた。自分の手で。誰にも頼まれていないのに」


 この人が、こんなに長く話すのを初めて聞いた。いつもは一言か二言で済ませる人が、今、言葉を選びながら、ゆっくりと——


「あの時、俺は一介の軍医だった。伯爵夫人に——声をかける立場じゃなかった」


 間。


「何もできなかった。処方を書き写すことしか。……それが、ずっと」


 言葉が途切れた。


 この人の横顔を見た。いつもの無表情とは違う。眉間の力が抜けている。目が伏せられている。不器用な人だ。言葉を探している。自分の感情を、どう口に出していいかわからなくて、苦しんでいる。


 廊下の魔法灯が、また、ちりちりと鳴った。


 ——五年間。


 五年間、誰にも見られていないと思っていた。

 帳簿を書いても。薬草を擂っても。夜通し患者の熱を測っても。

 あの人は一度も、診療所に来なかった。薬草園にも。私の仕事を見たことがなかった。


(でも——この人は、見ていた)


(二年前の、あの冬の夜に。私の手が荒れていたことを。薬草を擂っていたことを。覚えて、いた)


「……見ていて、くださったのですか」


 声が。震えた。


 ——だめだ。こんなところで。こんな、一言で。


 五年分の。五年分の何かが、喉の奥からせり上がってきて、目の縁から溢れた。


 涙だった。


 泣くつもりはなかった。泣く理由も、わからない。悲しいのではない。嬉しいのかもわからない。ただ——見ていてくれた人がいた。それだけのことが、こんなにも。


 上着を握りしめた。指が白くなるほど。


 レナード先生は、何も言わなかった。


 背を向けた。そのまま、医局のほうへ歩いていった。足音が遠ざかる。振り返らなかった。


 ……この人は、いつもそうだ。言葉を置いて、去っていく。余計なことを言わない。泣いている人間の前に突っ立って、慰めの言葉を探したりしない。


 それが——今は、ありがたかった。


 一人で泣きたかった。五年分の涙は、人に見せるものではないから。


 廊下の隅に座り込んだ。膝を抱えた。伯爵夫人だった頃なら、こんな姿は見せられなかった。こんな場所で、こんな格好で。でもここは救療院の廊下で、深夜で、誰もいない。


 上着は、温かかった。消毒薬の匂い。煙草の匂い。それから——手帳のインクの匂いが、少しだけした。


 ……二年前のあの冬。


 この人が、書き写していた処方。私の処方を。覚えて。記録して。


(あの人は五年間、一度も見に来なかった。——この人は、半年で全部見ていた)


 涙が止まるまで、少しかかった。

 上着は、返さなければ。明日。明日、返そう。


 ……でも、もう少しだけ。もう少しだけ、このまま。

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