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白い結婚の終わり  作者: 秋月 もみじ


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第6話 名前


「ねえ、ノエル。あなた社交界で話題になってるの、知ってる?」


 昼休み、医局に戻ったところでエステルに捕まった。


 エステル・ドランジュ。二十八歳。救療院の内科医で、私より二ヶ月早くここに着任した同僚。栗色の巻き毛を無造作にまとめていて、白衣の胸元にいつもインク染みがある。よく笑い、よく喋り、よく食べる。着任初日に「同じ女医同士、仲良くしましょ」と手を握られた時には少し面食らったけれど、今は昼食を一緒に食べる仲になっている。


「……話題、ですか」

「そうよ。『救療院にすごい女医が来たらしい』って。先月の社交会で、ノーウェン侯爵夫人が話してたって」


 エステルは、自分の机の上に足を組んで座っている。行儀が悪い。院長が見たら眉をひそめるだろう。でもこの人は、誰の目も気にしない。それが少し、眩しかった。


「フォーリス領で医療改革をやったって本当?」

「改革というほどのものでは……」

「入院棟の感染率を半分にしたのは改革でしょう。社交界では『フォーリス伯爵の元奥方が実はとんでもなく有能だった』って盛り上がってるみたいよ」


 元奥方。

 その呼び方に、まだ少しだけ心がざらつく。けれど「とんでもなく有能」という部分に、もっと別の感情が湧いた。


「……私の名前で、ですか」

「え?」


 エステルが首を傾げた。


「私の名前で語られているんですか。それとも——フォーリス伯爵の功績、として」


 聞いてから、自分でも奇妙な質問だと思った。だがエステルは不思議そうに目を丸くして、それからぱちりと瞬きした。


「当たり前でしょう。あなたがやったんだから。なんで伯爵の名前が出てくるのよ」


 当たり前。


 またこの言葉だ。レナード先生の「当然だろう」と同じ響き。ここでは、それが当たり前なのだ。自分の仕事が自分のものとして語られることが。


(五年間、「リリアーヌの助言」として語られていたものが——今は、私の名前で社交界に広がっている。知らない場所で、知らない人が、私の仕事を私のものとして話している)


 不思議な感覚だった。嬉しいのか、怖いのか、まだわからなかった。


 ただ——手柄を取られる、という恐怖が、少しだけ遠のいていた。あの屋敷では、何を成し遂げても自分のものにはならなかった。でもここでは、数字が残る。名前が残る。報告書に書かれ、社交界に伝わり、それが「私」に紐づいている。


「ノエル? 黙り込んでどうしたの」

「……いえ。少し、驚いただけです」

「変な人ね。自分が有能だって知らないの?」


 エステルが笑った。歯を見せて、遠慮なく。こういう笑い方をする人が、フォーリス伯爵邸にはいなかった。



 夜勤が明けたのは、夜明け前だった。


 冬の王都は日が短い。窓の外はまだ暗く、医局には私とあと二人の当直医がいるだけだった。二人とも仮眠室に行ったから、実質、私だけだ。

 蝋燭が一本、机の上で燃えている。前にレナード先生が寄せてくれた位置に、自分で置き直したもの。何となく、その位置が気に入った。


 机に突っ伏して、少し目を閉じた。患者の容態は安定している。薬品の補充も終えた。あと一時間で交代が来る。


 ——匂いで目が覚めた。


 スープの匂い。温かい、野菜と鶏の出汁の匂い。


 顔を上げると、机の端に器が置いてあった。湯気が立っている。隣に、厚切りのパンが一つ。メモはない。


 いつの間に。誰が——


「おはよう、ノエル。顔、すごいわよ。頬に紙の跡ついてる」


 エステルだった。早番の出勤らしい。外套を脱ぎながら医局に入ってきた。


「……このスープ、誰が」

「ああ、それ? レナード先生。さっき廊下ですれ違ったわ。手に器を持ってたから『夜食ですか?』って聞いたら、何も言わずに医局に入っていったの」


 レナード先生が。


「……当直の配給では?」

「配給?」


 エステルが怪訝な顔をした。それから、ゆっくり口の端を持ち上げた。


「ノエル。当直の配給は食堂に出るのよ。机まで持ってきてくれるなんてサービス、聞いたことないわ」

「では——」

「あの人、あなたにだけそうするのよ」


 あなたにだけ。


「……私にだけ?」

「そうよ。私が夜勤の時は置いてくれないもの。他の当直の先生にも。心当たりは?」


 心当たり。ない。ないはずだ。レナード先生は主任として、当直者の健康管理に気を配っているだけだろう。私は着任して日が浅い。体調を気にかけてくれているだけだ。

 ——そうだ。着任初日の「無理はするな」も、きっとそういう意味だったのだ。新任者への配慮。


「……あなたにだけ、と言われても」


 エステルが楽しそうに笑っている。

 ……困る。何がそんなにおかしいのか。


「いいから食べなさいよ。冷めるわよ」


 スープは温かかった。鶏の出汁が胃に沁みた。パンは厚切りで、少し焦げている。食堂のパンよりずっと素朴な味がした。


 メモがなかった。名前もない。ただ、温かいものが置いてあった。


(……主任の気配りだ。きっとそうだ)



 その夜、官舎に戻って机に向かっていると、マルトがお茶を持ってきてくれた。


「奥方様。お手紙が」

「父上から?」

「いいえ。救療院の事務方からです。衛生局の回覧だそうで」


 封を開けた。王都衛生局からの定期報告。各地の感染症の発生状況をまとめた一覧表だ。救療院の医師全員に回覧されるもので、前回も目を通した。


 一覧に目を走らせて——足が止まった。


 フォーリス伯爵領。冬季感染症。発生件数、前年同期比で三倍。


 三倍。


 あの薬草園の備蓄は間に合ったのだろうか。防疫の隔離手順は実行されているだろうか。巡回診療のルートは——


(……私が整えた手順書が、もし読めていなかったら)


 一覧表を閉じた。


 私の仕事ではない。もう、私の仕事ではないのだ。引き継ぎ書は置いてきた。あとは——あとは、あの人たちが何とかするはずだ。


 リリアーヌがいる。使用人がいる。セドリックがいる。


 ……領民は。あの老婆は、元気だろうか。


 窓の外に、冬の星が見えた。フォーリス領の空と同じ星。でもここからは、あの薬草園の屋根は見えない。


 お茶が冷めていた。マルトがいつの間にか新しいのを淹れ直してくれていた。この人も、何も言わずに温かいものを置いてくれる人だ。


 ……温かいものを、黙って置いてくれる人が、二人。


 何でもないことだと思った。思おうとした。

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