第5話 帳簿の空白
救療院での日々は、驚くほど穏やかに過ぎた。
着任から三週間。手洗い台の設置が終わり、入院棟の看護師たちが手洗いの習慣を身につけ始めた。水場の動線を変えただけで、院内感染が目に見えて減った。
数字は嘘をつかない。
入院患者の回復率を帳簿に記録していると、それがはっきりわかる。先週の退院数は前月の同時期より四人多い。感染症の再発件数は半分以下。
朝、入院棟を回って包帯の交換を確認する。昼、薬品庫の在庫表を照らし合わせる。夕方、その日の患者記録を閉じる。やっていることは、フォーリス領でやっていたこととほとんど同じだ。ただひとつ違うのは、ここでは私の記録を誰かが読んでくれるということ。
「ラヴィエール先生、また記録ですか。好きですねえ」
同じ医局の若い医師が、通りがかりに声をかけてきた。嫌味ではなく、感心している口調だった。
「記録がなければ改善はできませんから」
「かないませんよ。先生が来てから、院内の空気が変わった気がします」
そう言って去っていく背中を見送って、少し不思議な気持ちになった。
(変わった気がします、と言ってくれるのか。私は記録をつけて、水場を動かしただけなのに)
フォーリス領では五年間、こういう言葉をもらったことがなかった。帳簿をつけても。防疫体制を整えても。税制を見直しても。成果が出ても、それは「リリアーヌの助言」で、私の名前は——
……やめよう。ここは、あの屋敷ではない。
◇
父からの手紙は、昼休みに届いた。
官舎の小さな机の上に、マルトが置いてくれていた。ラヴィエール子爵家の封蝋。父の角張った字。
『ノエルへ。先日、フォーリス伯爵より書状が届いた。お前が管理していた帳簿の控えを返還せよ、との要求だ。「領地の公文書であり、持ち出しは不当」と主張している。
俺は書面にて拒否した。帳簿はお前が個人として作成したものであり、控えはお前の私物だ。法的にも慣習上も、返還の義務はない。伯爵が不服とするなら、王家の裁定を仰ぐがよい。
案ずるな。この件は俺が引き受ける。お前は自分の仕事に集中しなさい。
——父より』
手紙を読み終えて、しばらく膝の上に置いていた。
帳簿の控えを返せ、か。
あの帳簿は確かに領地のために書いたものだ。けれど記帳方式を考案したのは私で、仕訳の基準を組んだのも私で、五年かけて整備したのも私だ。控えは写しであって、原本はあの執務室にある。原本があるのに控えを求めてくるということは——原本が、使えないのだろう。
(あの人は帳簿を開いたことがなかった。引き継ぎ書も三頁で投げ出しただろう。そう思ったから、あの記帳方式の解説は書かなかった。教える相手がいなかったから。意地悪ではない。——本当に、いなかったのだ)
父の手紙を畳んで、封筒に戻した。
……ありがとう、父上。でも、もう少しだけ、自分で立ちたいのだ。あなたに守ってもらうのではなく。
机の端に、もう一通の手紙があった。
フォーリス伯爵家の封蝋。
セドリックからだ。宛名は「ノエル・ラヴィエール殿」。旧姓に戻った名前を、この人が書いている。それだけで、少し奇妙な気持ちになった。
封を——切らなかった。
何が書いてあるのか、想像はつく。帳簿を返せ。あるいは、戻ってこい。あるいは、婚姻無効を取り下げろ。
どれであっても、私の答えは変わらない。読んでも読まなくても結果は同じなら、読まない方を選んだ。
引き出しを開けて、手紙をしまった。インクの匂いが少しした。封蝋の赤が、引き出しの暗がりに沈んでいった。
◇
その日の夕刻、医局に戻ると、レナード先生が机に向かっていた。
腕を組んでいる。いつもの姿勢だ。書類の前で腕を組んで、眉間にしわを寄せている。考え込んでいるのか、書き方に迷っているのか。
「レナード先生。お疲れさまです」
「……ああ」
短い返事。振り向かない。
私は自分の机について、薬品の管理台帳を開いた。夕方の光が窓から入ってきて、紙の上を橙色に染めている。書き仕事をするには少し暗い。蝋燭を出そうとして——
「……おい」
レナード先生が声をかけてきた。まだこちらを見ていない。書類に目を落としたまま。
「四半期の報告書だ。目を通してくれ」
渡された書類に目を通した。王宮衛生局への報告書。救療院の改善実績を数値でまとめたもの。
一頁目の筆頭に、名前が書いてあった。
『衛生改善担当主任医師 ノエル・ラヴィエール』
私の名前だ。
筆頭に。一番上に。一番目立つ場所に。
「……レナード先生。これは」
「何だ」
「筆頭に私の名前がありますが」
「君がやったことだ。当然だろう」
レナード先生はこちらを向いた。腕組みが——少しだけ、ほんの少しだけ緩んだような気がした。気のせいかもしれない。
「数字も確認した。入院患者の回復率、感染症の再発件数、いずれも改善している。報告書に書く名前は、成果を出した人間のものだ。……それだけの話だ」
それだけの話。
それだけの、話。
——ああ。
(この人にとっては、これが当然のことなのだ。仕事をした人間の名前を書く。成果を出した人間を評価する。それだけのこと。それだけのことが——あの人には、五年かけてもできなかった)
あの人は一度も、報告書に私の名前を書いてくれなかった。社交の場で「リリアーヌの助言で」と笑っていた。私の名前は、領民と帳簿の中にしかなかった。
喉が、詰まった。泣いているのではない。怒っているのでもない。ただ、体が勝手に反応している。五年分の——何だろう、これは。渇きに、水が触れた時の感覚。乾ききった土に、最初の一滴が落ちたような。
「……ありがとうございます」
声が少し掠れた。それを隠すために、報告書に目を落とした。数字を追っているふりをした。文字がにじんでいるのは——蝋燭の揺れのせいだ。そういうことにした。
レナード先生は何も言わなかった。自分の机に戻って、また腕を組んだ。
窓の外が暗くなっていく。蝋燭を灯さなければ。
立ち上がろうとしたら、いつの間にか、レナード先生の机の蝋燭がこちら側に寄せてあった。私の手元まで光が届く位置に。
……いつ動かしたのだろう。気づかなかった。
(この人は、いつもこうなのだろう。全員に対してこうなのだろう。蝋燭を寄せるくらいのことは、主任として当然の気配りなのだ。——きっと)
官舎に戻ったのは、夜も遅い時間だった。
机の引き出しを開けた。セドリックの手紙が、夕方と同じ場所にある。赤い封蝋がこちらを見ていた。
閉じた。
開封は、しなかった。




