第4話 再会
王都の救療院は、消毒薬とハーブの匂いがした。
石造りの三階建て。壁は古いが、窓が多い。日の光が廊下の奥まで入る造りになっている。換気を考えた設計だ。それだけで、この施設を建てた人間が医療をわかっていたことがわかる。
門をくぐると、すぐに患者の気配がした。車椅子を押す看護師、包帯を抱えて走る若い医師、待合の長椅子に座った老人。フォーリス領の診療所とは規模が違う。ここには何十人もの患者がいて、何十人もの人間が働いている。
「ラヴィエール嬢。ようこそおいでくださいました」
院長は白髪の痩せた男だった。六十がらみ。背筋は伸びているが、目の下に疲労が溜まっている。
「院長先生。本日よりお世話になります」
「こちらこそ。あなたの噂はかねがね——フォーリス領の防疫体制を一人で構築されたと聞いておりますよ」
一人で。
その言葉が、ほんの少し胸に刺さった。社交辞令かもしれない。あるいは——本当に、誰かが私の仕事をそう伝えたのか。
院長に連れられて施設の中を歩いた。一階が外来と薬局。二階が入院棟。三階が医局と資料室。
二階の入院棟に入った時、足が止まった。
水場が遠い。
患者の寝台が並ぶ大部屋から、手洗いの水場まで廊下をひとつ挟んでいる。看護師が水を汲みに行くたびに、部屋を出なければならない。
「……院長先生」
「何でしょう」
「入院棟の水場の動線ですが——壁際に簡易の手洗い台を設ければ、看護師の移動が半分になります。患者に触れる前と後に手を洗う習慣が定着すれば、院内での感染を大きく減らせるかと」
院長が足を止めた。こちらを見た。
「……着任初日で、それを?」
「フォーリス領でも同じ問題がありました。水場を近づけるだけで、冬の感染率が三割落ちました」
言ってしまってから、少し不安になった。出過ぎただろうか。着任初日の新入りが、施設の構造に口を出すのは生意気と取られるかもしれない。
フォーリス領では、どんな改善案を出しても誰にも聞いてもらえなかった。帳簿と施策書を黙って書いて、黙って実行するしかなかった。
院長が、笑った。
「素晴らしい。提案書にまとめてくれますか。明日の朝、医局会議にかけましょう」
……聞いてくれるのか。
提案を、聞いてくれるのか。たったこれだけのことに、喉の奥が詰まりそうになるのは——たぶん、五年間の癖だ。
◇
医局は三階の突き当たりにあった。
雑然とした部屋だ。机が六つ。書棚が壁を埋めている。薬瓶の匂いとインクの匂いが混じっている。窓際の机だけが、異様に整頓されていた。書類が角を揃えて積まれ、ペン立てにはペンが二本だけ。
その机の前に、男が立っていた。
背が高い。腕を組んでいる。白衣の袖から覗く腕は、書類仕事をする人間のものではなかった。筋張っていて、古い傷が薄く残っている。軍にいた人間の腕だ。
赤みがかった髪。
——知っている。この人を、知っている。
「レナード先生。新任の方を紹介します」
院長の声に、男がこちらを向いた。
目が合った。鋭い目だ。人を値踏みする目ではなく、状況を瞬時に見極めようとする目。戦場で鍛えた目。
その目が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、揺れた。
「……久しぶりだな。フォーリス伯爵夫人」
低い声。ぶっきらぼうだけれど、敵意はない。二年前にフォーリス領で聞いた声と同じだ。あの時、薬草の配合比率について「よく考えられている」と言ってくれた、あの声。
「もうその名前ではありません」
私は答えた。穏やかに。
「……そうか」
短い沈黙。レナード先生は——ヴァイス先生と呼ぶべきだろうか。いや、院長が「レナード先生」と呼んでいた。この施設ではそれが通りなのだろう。
レナード先生は腕組みを解かずに、院長のほうを見た。
「……衛生管理の担当でいいんだな」
「ええ。ラヴィエール嬢には入院棟の衛生改善を主に担当していただきます。レナード先生が主任ですから、連携をお願いしますね」
院長が去った後、レナード先生は机の引き出しから書類の束を出した。
「業務の一覧だ。薬品の管理台帳はここ。入院記録の書式は棚の三段目。わからないことがあれば——」
言葉が、止まった。
「……無理はするな。ここは、前の場所とは違う」
付け足すように。ぼそりと。目はこちらを見ていなかった。書類に落ちている。
——前の場所。フォーリス領のことだろうか。
(……全員に言っているのだろう。新任者への定型の声かけだ。この人はそういう、不器用だけれど面倒見のいい主任なのだ。きっと)
「ありがとうございます、レナード先生。ご迷惑をおかけしないよう努めます」
レナード先生はそれには答えず、窓のほうを向いた。腕を組み直している。
不愛想な人だ。二年前もそうだった。必要なこと以外は話さない。
ただ——あの頃、この人は私の処方を「よく考えられている」と言ってくれた。五年間で唯一、私の仕事を仕事として見てくれた人だった。
◇
夜。
医局に残って、薬品の管理台帳を確認していた。院長から渡された提案書の書式もある。明日の朝までにまとめなければ。
棚の三段目——入院記録の書式を探していた時、手が別の冊子に触れた。
薄い表紙の手帳。革の装丁。使い込まれている。棚の奥に、他の書類に紛れるように挟まっていた。
開いた。
几帳面な筆跡。小さな文字がぎっしり並んでいる。薬草の名前、配合比率、投与量。
「——……フォーリス領?」
頁の端に、走り書きがあった。
『伯爵夫人の処方——カモミールとエルダーフラワーの配合比率、3:1。解熱に対する効果は文献値より高い。独自の調合か』
レナード先生の字だ。さっき業務一覧で見た筆跡と同じ。
頁をめくった。別の記録。
『消毒用の薬草液。煮沸温度と時間の記録。伯爵夫人が定めた手順に準拠。極めて合理的』
これは——二年前のものだ。レナード先生がフォーリス領に赴任していた時に書いたのだろう。
なぜ、他領の伯爵夫人の処方を、軍医がわざわざ書き写していたのだろう。
(……記録好きな人なのかもしれない。軍医は記録が命だと聞いたことがある。戦場では、あらゆる処方を手元に残すのが習慣なのだろう。きっとそういうことだ)
手帳を元の場所に戻した。
窓の外は暗い。王都の夜は、フォーリス領より明るい。通りの向こうに魔法灯が灯っていて、薄い橙色の光が窓硝子に届いている。
提案書に戻った。ペンを取って、手洗い台の設置場所を図面に書き込んだ。
……不思議な夜だった。
着任初日に、提案を聞いてもらえた。二年前の知り合いがいた。その知り合いが、私の処方を記録していた。
何が起きているのか、よくわからない。ただ——手が動く。ペンが進む。書くべきことがある。書きたいことがある。
それだけで、今はいいと思った。
ペンの先に、インクの匂い。消毒薬とハーブの匂いに混じって、ここの匂いになっていく。
……悪くない。悪くない場所だ、ここは。




