第3話 綻び
実家の寝台は、柔らかかった。
ラヴィエール子爵邸の私の部屋は、嫁ぐ前と同じ場所にあった。二階の東向き。朝日が入る小さな部屋。壁紙も、窓の鎧戸の立てつけの悪さも、五年前のまま。
ただ、寝台の敷布だけが新しかった。父が替えさせたのだろう。
フォーリス伯爵領からここまで、馬車で一日半。伯爵領より王都に近い分、道は整っている。マルトと二人、揺られて着いたのは夕刻だった。
門の前に、父が立っていた。
ギルベール・ラヴィエール。子爵。まだ五十を過ぎたばかりだが、五年前よりずいぶん白髪が増えた。背は高い。私の背丈は父譲りだ。
「ノエル」
父は私の顔を見て、それからゆっくり頭を下げた。
「……すまなかった」
低い声だった。玄関先で、使用人たちの前で。子爵が、自分の娘に頭を下げている。
「父上。顔を上げてください」
「五年も——あんな男のところに」
「父上のせいではありません。あの縁談は、家のために必要だったのでしょう」
父が顔を上げた。目が赤かった。泣いてはいなかったけれど、泣く寸前の顔だった。
この人は、昔からそうだ。泣きたい時に泣かない。私はたぶん、そこも似たのだと思う。
「……今度は、俺が守る。次はもう——させない」
不器用な言葉だった。子爵としての体面も何もない、ただの父親の声。
微笑んだ。いつもの、あの微笑み。大丈夫です、と伝えるための。
「ただいま戻りました、父上」
それだけ言って、屋敷に入った。
自分の部屋に入り、扉を閉め、鍵をかけた。
マルトにも「少し休みます」とだけ伝えた。
——それから、何もできなかった。
寝台に腰を下ろしたら、立てなくなった。
足が、重い。腕が、重い。頭の芯がぼうっとして、瞼が勝手に落ちてくる。
風邪ではない。熱があるわけでもない。ただ、体の奥に溜まっていたものが、一気に出口を見つけたような。
五年間、一度もこうならなかった。フォーリス伯爵邸では、夜中に起こされても、早朝に帳簿を広げても、体が動かないということはなかった。
止まれなかったのだ。止まったら、たぶん壊れると知っていたから。
仰向けに倒れた。天井を見た。見慣れた染みがある。子供の頃から、あの染みを鳥の形だと思っていた。
……まだあった。五年経っても、染みは同じ場所にある。
ここは、私の家だ。
薬草園の管理表もない。帳簿の締め日もない。結婚記念日の食卓を、一人で整える必要もない。
——何もしなくていい部屋。
微笑みが、剥がれた。
誰も見ていない。誰に見せる必要もない。ここでは、笑わなくていい。
顔の筋肉が、ゆるんだ。こわばりを解くと、頬のあたりが少し痛かった。ずっと同じ形に固めていたから、筋が凝っていたのだろう。五年分の凝りだ。
目を閉じた。眠れるかどうかわからなかったけれど、目を閉じた。
◇
翌日から、少しずつ体が戻った。
子爵邸の裏庭に、小さな畑がある。昔、母が薬草を育てていた場所だ。今は使用人が野菜を植えているけれど、隅の一画が空いていた。
そこにラベンダーとカモミールの苗を植えた。近くの薬種商から分けてもらったもの。
土を掘り返す。苗を据える。水をやる。
それだけのことが、おそろしく気持ちよかった。手が汚れる。爪の間に土が入る。伯爵夫人だった頃は、社交の前に必ず爪を磨いていた。今は、磨かなくていい。
フォーリス領の薬草園は広かった。百種を超える薬草を管理し、季節ごとの植え替えと収穫を組み、備蓄量を計算し、防疫の時期には調合まで担っていた。あの五年間は、毎日が段取りと判断の連続だった。
ここには、ラベンダーとカモミールだけ。たった二種類。
何もない日常が、こんなに穏やかだとは知らなかった。
陽だまりの中で土の匂いを嗅いでいると、フォーリス領のことを考えそうになる。薬草園の冬支度は間に合っただろうか。防疫の備蓄は——
(……やめよう。もう私の仕事ではない)
引き継ぎ書は置いてきた。あとは誰かが読んでくれるだろう。リリアーヌがいる。彼女が——
……彼女が何をするのかは、正直、わからない。けれど、それはもう私が考えることではない。
◇
冬支度が進まない。
俺の執務机には、使用人からの報告書が三通溜まっている。全て同じ内容だ。薬草園の管理者が不在。冬季の備蓄準備に着手できない。指示を仰ぎたい。
指示。何を指示すればいい。薬草の備蓄など、今までは勝手に回っていたものだ。
「リリアーヌ。防疫の冬支度の件だが、手配を頼めるか」
「それは……ノエル様がなさっていたことでは? 私は伯爵にご助言を差し上げていただけで、実際の手配は……」
リリアーヌが困った顔をしている。可憐な顔に戸惑いを浮かべて——俺は、その顔を責める気にはなれなかった。彼女は助言者であって、実務者ではない。当然だ。
「引き継ぎ書がございます」
使用人が冊子を持ってきた。ノエルが置いていったものだ。表紙にメモが貼ってある。「解説する相手が、見つかりませんでしたので」。
(……何だ、この嫌味は)
開いた。数字。勘定科目。見たことのない記号と分類。
三頁めで投げ出した。
誰でもできる仕事だろう。あの女がいなくなったくらいで、領地が回らなくなるはずがない。税務官を呼べばいい。別の管理者を雇えばいい。
——ただ、薬草園に詳しい者が領内にいないという報告が、少し引っかかった。少しだけだ。
◇
秋の終わりに、手紙が届いた。
差出人は、王都の救療院。院長の署名と、施設の封蝋が押してある。
マルトが朝の食卓に持ってきた時、私は庭のカモミールに水をやったばかりだった。手についた土を拭いて、封を切った。
「ラヴィエール嬢へ——」
旧姓で呼ばれるのにも、少しずつ慣れてきた。
「あなたがフォーリス伯爵領でなさった医療改革について、かねてより伝え聞いておりました。つきましては、当院の衛生改善にお力をお借りしたく、正式にお招きしたいと存じます」
王都の救療院。王宮直轄の医療施設。貧しい者から貴族まで、身分を問わず受け入れるとされる場所。名前は知っていた。フォーリス領にいた頃、薬草の仕入れ先として何度か取引の書簡を交わしたことがある。
……私の仕事を、知っている人がいる。
この領地の外に。セドリックの言葉が届かない場所に。誰かが、私が何をしていたかを見ていた。
「奥方様。よいお知らせですか」
マルトが覗き込んでいた。
「……どうだろう。わからない」
手紙を膝に置いた。文面をもう一度読んだ。指先が、わずかに熱かった。
(求められている。私の名前で。私の仕事で。——「リリアーヌの助言」ではなく)
庭の向こうで、ラベンダーの苗が風に揺れていた。植えたばかりの、まだ根の浅い苗。
……でも、根は張る。ここでなくても、どこかで。
「父上に、相談しなければ」
立ち上がった。手紙を胸に持ったまま、屋敷の中へ歩いた。足取りは——少しだけ、速かった。




