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白い結婚の終わり  作者: 秋月 もみじ


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第2話 引き継ぎ書


 荷物は、木箱ひとつに収まった。


 五年間暮らした部屋だというのに、持ち出すものがこれだけしかない。着替えの数枚と、母の形見の髪飾りと、薬草学の参考書が三冊。それから——帳簿の控え。


 帳簿は嵩張った。領地の歳入歳出、薬草園の管理記録、防疫体制の運用手順書、税制の改定履歴。全て私の手で書いたものの写しだ。原本は執務室にある。控えだけ手元に置いておく。

 私物だから、持ち出しても問題はないはずだ。……問題がないと思いたかった、のかもしれない。


 木箱の蓋を閉じ、荷札を書いた。宛先はラヴィエール子爵邸。実家に送っておけば、少なくとも散逸はしない。


「奥方様。お荷物、これだけでよろしいのですか」


 マルトが部屋の入り口に立っていた。大きな旅行鞄を両手に抱えている。私の衣裳を詰めるつもりで持ってきたのだろう。


「足りるわ」

「五年分が木箱ひとつでは、いくらなんでも」

「衣裳はほとんど伯爵家の経費で仕立てたものだもの。持ち出すわけにはいかない」


 マルトが何か言いたげに口を開きかけて、閉じた。

 ……わかっている。この人は、「そんなものでなくて、もっと大事なものがあるでしょう」と言いたいのだ。


 大事なもの。


 窓の外に目をやった。秋の朝の光が、裏庭の薬草園に落ちている。



 五年前の春、この屋敷に嫁いできた日のことを覚えている。


 薬草園は荒れていた。前の管理者が亡くなってから二年、誰も手を入れていなかったのだ。雑草に埋もれた畝と、枯れかけた薬草の根株。それを見た時、私は——嬉しかった。

 おかしな話だけれど、嬉しかったのだ。私にできることがある、と思ったから。


 子爵家の娘が嫁ぐ先としては、伯爵家は格上だった。政略結婚。家同士の利害で決まった婚姻に、期待はしていなかった。

 けれど、せめて役に立ちたかった。父から習った薬草学と、領地経営の基礎。伯爵夫人として、領民のためにできることがあるはずだと。


 薬草園を整えた。一年目の冬、感染症が流行した時は、夜通し患者の家を回った。蝋燭の灯りの下で薬草を擂り、煎じて飲ませ、額を冷やし、記録をつけた。


 二年目には防疫の手順書を書いた。隔離の基準、消毒の方法、薬草の備蓄量の算出。全て自分の手で。伯爵邸の使用人は協力してくれた——初めのうちは。


 三年目には税制を見直した。帳簿を一から組み直して、歳入の漏れを洗い出した。


(……あの頃、王都から軍医が赴任してきた時期があった。半年ほどの短い赴任。寡黙な人で、ほとんど口をきかなかった。けれど薬の処方について質問をした時だけ、目の色が変わった。「その調合比率で合っている。むしろ——いや、よく考えられている」と。あの短い会話が、五年のうちでいちばん対等なものだったかもしれない。名前は——思い出せない。赤みがかった髪の、背の高い人だった)


 四年目には、社交の場で夫の隣に立つことにも慣れた。にこやかに笑い、領地の話題を振られれば控えめに答え、目立たず、けれど欠けない。伯爵夫人としての「役目」を、体が覚えた。


 そしてその年の冬、社交の晩餐会の後で、私はセドリックの声を聞いた。


 回廊の柱の影。足を止めたのは偶然だった。


「——今期の防疫の成果は、リリアーヌの助言が大きくてね。彼女がいなければ、とてもここまでは」


 笑い声。相手は隣領の伯爵だった。「いやあ、フォーリス伯は若いのに優秀な助言者をお持ちだ」と。


 セドリックは否定しなかった。


 廊下の石の冷たさが、靴の底から上がってきた。

 ……あの夜、部屋に戻ってから何をしたか、よく覚えていない。たぶん、帳簿を開いた。それしかすることがなかったから。



 回想を振り払うように、私は部屋を出た。


 執務室はこの屋敷の東棟にある。セドリックは三日前の夜から——あの夜から、この部屋に籠もったり社交に出かけたりを繰り返しているらしい。今は不在だった。使用人に確認はとっている。顔を合わせるつもりはなかった。


 机の上に、引き継ぎ書を置いた。


 領地の帳簿の仕組み、薬草園の管理スケジュール、防疫手順の概要、税制改定の経緯。四十頁ほどの冊子に、五年分をまとめてある。

 正直に言えば、不完全だ。帳簿の記帳方式は私が独自に組んだもので、勘定科目の分類から仕訳の基準まで、この領地専用に作り替えている。その解説を書こうとしたことは何度かあった。けれど——誰に向けて書けばいいのか、わからなかった。セドリックは帳簿を開いたことがない。リリアーヌは数字を見ない。使用人の中に、簿記を理解できる者はいなかった。


 引き継ぎ書の表紙に、短いメモを添えた。


 「引き継ぎ書を置いてまいります。ただし、記帳方式の詳細な解説は作成できませんでした。解説する相手が、見つかりませんでしたので」


 ……皮肉のつもりはなかった。事実だ。五年間、私の仕事について話を聞いてくれる人が、この屋敷にはいなかった。ただ、それだけのこと。


 ペンを置いた。執務室を出て、振り返らなかった。



 屋敷の門を出ると、道の両側に人が並んでいた。


 領民たちだ。


 朝早い。まだ露が草を濡らしている時間だ。それなのに、農夫も、職人も、パン屋の女将も、鍛冶屋の親方も——見覚えのある顔が、ずらりと並んでいた。

 誰がこの出発を伝えたのだろう。マルトではない。マルトは今、私の後ろで鼻を鳴らしている。


 最前列に、小柄な老婆がいた。去年の冬、肺の病で危うかった人だ。三晩、私が枕元に詰めた。煎じ薬の量を変えながら、朝まで呼吸の数を数えた。


 老婆が、私の手を取った。


「奥方様」


 皺だらけの手が震えている。


「あなたがいなくなったら、誰が私たちを診てくれるのですか」


 ……答えられなかった。


(この人たちが、私の名前を呼んでくれた。五年間、この人たちだけが。社交の場でも、屋敷の中でも、「伯爵夫人」は記号でしかなかった。けれどこの道で「奥方様」と呼ぶ声には、ちゃんと私がいた)


 微笑んだ。


 今度の微笑みは——いつもの、あの薄い笑みとは少し違った。うまく作れなかった。口元がほんの少しだけ歪んで、それを直す前に、老婆の手を両手で握った。


 何も言わなかった。言えなかった。「大丈夫」とは言えない。大丈夫かどうか、私にはわからないのだから。


 マルトが背中に手を添えた。馬車のほうへ、促すように。


「……ありがとうございました」


 それだけ言って、馬車に乗った。


 御者が手綱を取る。車輪が砂利を噛んで、馬車が動き出した。


 振り返らなかった。


 窓の向こうで、フォーリス伯爵領の秋の並木が流れていく。黄色く色づいた楡の葉。その向こうに、私が整えた薬草園の屋根が見えた——一瞬だけ。


(私がいなくなっても、誰かがやるだろう。引き継ぎ書は置いてきた。薬草園には管理の手順も貼ってある。あの人にはリリアーヌがいる。彼女が代わりをすればいい)


 ……そう思おうとした。思えたかどうかは、わからない。


 馬車の中は狭くて、木箱がひとつ、膝の前にあった。五年分の帳簿の控えが入った、たったひとつの荷物。


 マルトが向かいの席で黙っている。この人は、何も聞かないでいてくれる。


 目を閉じた。馬車が揺れるたびに、木箱の中で紙が擦れる音がした。


 王都まで、三日。

 実家までは、もう少しだけ近い。

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― 新着の感想 ―
領地経営レベルの帳簿を一人でつけるって不可能だし、特殊な記述方式というのもそれだけで脱税・横領を疑われてしかるべきなので、設定としてあり得ないと帳簿系のお話を読むたびにいつも思います。 監査すらしない…
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