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白い結婚の終わり  作者: 秋月 もみじ


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第1話 五年目の食卓


 五年目の結婚記念日に、夫の席はまた空だった。


 蝋燭を灯した。料理を並べた。白い花を、夫の席の前に飾った。

 ——夫は、来なかった。


 フォーリス伯爵邸の食堂は、二人用としては広すぎる。天井の高い石造りの部屋に、向かい合わせの椅子が二脚。銀の燭台に揺れる火が、空の皿に影を落としている。

 料理が冷めていく。肉の脂が白く固まりはじめるのを、私はただ眺めていた。


(一年目は、泣いた。二年目は、怒った。三年目は、待った。四年目は——何も感じなくなった)


 五年目は、準備をした。


「奥方様」


 扉の脇に控えていたマルトが、静かに声をかけた。五十を過ぎた侍女の顔には、怒りとも悲しみともつかない皺が刻まれている。この人は、ラヴィエール子爵家から私に付き添って嫁いできた。五年間、ずっと隣にいてくれた人だ。


「もうお片付けいたしましょう」

「ええ」


 私は立ち上がった。

 ただし——片付ける前に、ひとつだけ。


 懐から封筒を取り出し、夫の皿の隣に置いた。白い封筒。教会審査院の紋章が押された、婚姻無効の申請書。

 まるで帳簿を閉じるときのように、迷いのない手つきだったと思う。


「……奥方様」


 マルトが息を呑んだのがわかった。だが、この人はすでに知っている。今日この日のために、私が何を準備してきたかを。


「マルト。長い間、ありがとう」

「……お礼は、まだ早うございます」


 侍女は目を伏せ、それから顔を上げた。その目に涙はなかった。

 泣かない。この人も、私と同じだ。五年間で、そういうことを覚えてしまった。



 深夜。


 廊下に足音が響いた。重くもなく、軽くもない。酒の気配を纏った靴音。

 知っている。この屋敷で五年も暮らせば、足音だけで誰が歩いているかわかるようになる。夫のセドリックが帰ってきたのだ。

 ——どこから帰ってきたのかも、知っている。けれどそれは、もう数える必要のないことだった。


 寝台の上で本を読んでいた私は、頁を閉じた。

 しばらくして、食堂の方角から足音が止まった。長い沈黙。それから——足音が、こちらへ向かってくる。


 早い。


 扉が叩かれた。乱暴ではないが、普段より強い。


「ノエル」


 夫が私の名前を呼ぶのは久しぶりだった。社交の場以外で。


「……開いておりますが」


 扉が開いた。セドリックが立っている。外套を脱いでいない。手に白い封筒を持っている。

 ——その襟元に、甘い花の香りが残っていた。百合。リリアーヌ・ベルトランが好む香水の匂いだ。

 以前なら、胸のどこかが軋んだかもしれない。今はもう、蝋燭の煤のように、気にならなかった。


「何のつもりだ、これは」


 封筒を持ち上げてみせる夫の声には、困惑があった。怒りはまだ追いついていないらしい。

 私は寝台の縁に腰掛けたまま、背筋を伸ばした。寝間着姿だったが、構わなかった。


「お読みになりましたか」

「読んだから聞いている。婚姻無効の申請だと?」


 セドリックは社交の場では弁の立つ人だ。根回しも早い。年若い伯爵としては、十分に有能な——そういう人だった。けれど今、この人の声は上擦っている。想定の外に出たのだろう。五年間黙って従ってきた妻が、突然こんなものを置くとは思わなかったのだ。


(突然、ではないのだけれど)


「お役目は果たしましたので」


 微笑んだ。

 いつもと同じ微笑み。社交の場で伯爵夫人を演じる時の、あの薄い笑み。五年間で身につけた、最も便利な表情。


「……何だと?」

「白い結婚が成立して五年が経ちました。教会審査院の規定により、婚姻無効の申請が可能です」


 声は震えなかった。何度も、何度も頭の中で繰り返した言葉だから。


「急に何だ。五年も黙っていたくせに——」

「急ではございません」


 私はセドリックの目を見た。


「五年です」


 沈黙が落ちた。蝋燭が一本、燃え尽きかけて芯が爆ぜた。


 セドリックの表情が変わった。困惑から、何か別のものへ。怒り——ではない。もっと奥の、形になる前の感情。この人が自分でも名前をつけられていない何かが、瞳の奥で揺れている。


「……待て」

「申請書には私の署名と、証人の宣誓書を添えてあります。明日、教会審査院に届ける手筈になっております」

「待てと言っている」


 セドリックが一歩近づいた。そして、私の手を掴んだ。


 ——力が強い。この人に手を握られるのは、社交の場で腕を組む時以来だ。いつだったか。半年前の伯爵主催の晩餐会。あの時は、他の貴族の前で仲睦まじい夫婦を演じるために。


(ああ——そうだ。この人が私に触れるのは、いつも誰かに見せるためだった)


「旦那様」


 私は微笑んだまま、セドリックの指を一本ずつ外した。


 急がず。乱暴にならず。まるで、古い帳簿の留め金を外すように。


「……っ」


 セドリックが、外された自分の手を見つめていた。


「今日が結婚記念日であることは、ご存知でしたか」


 聞くつもりはなかった。口をついて出てしまった。五年分の、最後のひとつだけ。


 セドリックが目を見開いた。答えは——なかった。


 知らなかったのだ。


「……そうですか」


 不思議と、痛くはなかった。もう五年目だ。痛みは三年目のどこかで、底を打っていた。


 廊下から、足音がした。控えめな、しかし確かな足取り。マルトだ。


「失礼いたします、伯爵」


 侍女は部屋の入り口に立ち、まっすぐにセドリックを見た。五十年を生きた女の目は、静かで、揺るぎがなかった。


「侍女マルト・ルノー。ラヴィエール子爵家の名において宣誓いたします」


 マルトの声が、深夜の廊下に響いた。


「この五年間、伯爵と奥方様の間に夫婦の実態はございませんでした。同衾は一度もなく、伯爵が奥方様の部屋をお訪ねになったことも——本日まで、ただの一度もございません」


 セドリックが絶句した。

 反論ができないのだ。マルトが言っていることは全て事実で、この屋敷の使用人は誰もがそれを知っている。知っていて、口にしなかっただけだ。


「……お前たち、最初からこのつもりで——」

「最初からではございません」


 私は答えた。穏やかに。


「最初の一年は、待っておりました」


 それだけ言って、私は扉に手をかけた。


「おやすみなさいませ、旦那様。——明日からは、その呼び方もいたしませんけれど」


 扉を閉めた。

 鍵を回した。


 ……手が震えていた。

 微笑みは、まだ顔に貼りついていた。剥がし方を忘れてしまったのだ、五年もやっていると。


 寝台に腰を下ろして、膝の上で手を組んだ。震えが止まるまで、少しかかった。


 泣かなかった。泣く理由がなかった。

 悲しいのではない。怖いのでもない。

 ただ——五年という時間を、ようやく手放すのだと思った。


(私がいなくなっても、誰も困らないだろう。帳簿の引き継ぎさえ済ませれば、この領地は回る。あの人にはリリアーヌがいる)


 窓の外で、風が鳴った。

 フォーリス領の秋の夜は冷える。明日は薬草園の冬支度を——


 ……いや。明日からは、もう私の仕事ではない。


 蝋燭を吹き消した。闇の中で、ようやく微笑みが剥がれた。


 五年。長かった、と思う。

 ……いや、それも正確ではない。長かったのは、たぶん最初の一年だけだ。残りの四年は、ただ慣れた。


 慣れてしまったことが、いちばん怖い。


 目を閉じた。明日のことを考えた。荷造り。帳簿の控え。引き継ぎ書。領民への挨拶。


 ——振り返るな、と自分に言い聞かせた。


 廊下の向こうで、セドリックがまだ立っている気配がした。

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