第9話 以上です
公聴会の扉を開ける時、私は笑っていた。──今度は、泣くためではなく。
◇◇◇
宮廷薬師ギルド大会議室。
長い樫の机が二列に並び、その奥に議長席。議長は王宮監察院の代表──利益相反を避けるため、ギルド長のクラウスは証言者の席に座っている。
出席者の顔を見渡した。
ギルド関係者。王宮監察院の鑑定担当官。カタリーナ侯爵夫人。そして──レナート・ヴァイス伯爵。
レナートと目が合った。
社交界用の柔和な笑みは消えている。代わりに──焦り。怒り。そして、私が見たことのない種類の恐怖。自分の仮面が剥がされる恐怖。
「本公聴会を開廷します」
監察院代表が宣言した。
◇◇◇
私は五年分の処方箋の控えを提出した。
束にして約三百枚。一枚一枚に、私の筆跡。私の配合。私の薬。
「魔導筆跡鑑定の結果を読み上げます」
鑑定担当官が書類を開いた。
「本鑑定は、宮廷の薬品管理記録において配合の類似性に関する注記があったことを端緒として、監察院が独自に調査を開始したものです。対象:ヴァイス伯爵名義で宮廷に提出された処方箋五年分、および、セレスティア・ルーヴェン名義でギルドから新たに提出された処方箋。魔導筆跡鑑定の結果──全ての処方箋の筆跡は、セレスティア・ルーヴェンのものと一致」
会場が静まった。
レナートが立ち上がった。
「──異議があります」
議長が視線を向ける。
「ギルド長は当該薬師を庇護しており、この鑑定は公正とは言えません。ギルド長の恣意が介入している可能性がある」
利益相反の主張。──来ると思っていた。
監察院代表が即座に応じた。
「魔導筆跡鑑定は我々監察院が独自に依頼し、ギルドとは独立した鑑定士が実施したものです。筆記時に残留する魔力痕は個人固有であり、偽造は不可能です。ギルド長の恣意が介入する余地はありません。──反論があれば、鑑定士を証人として呼ぶこともできますが?」
レナートが口を閉じた。
静寂の中、カタリーナ侯爵夫人が席から立った。
「証人として発言する許可をいただけますか」
議長が頷く。
「この方の薬が──私の孫の命を救いました」
カタリーナの声は落ち着いていた。老齢の侯爵夫人の重みが、言葉の一つ一つに乗っている。
「宮廷侍医が匙を投げた夜、この方が──セレスティア・ルーヴェンが、夜通しで薬を調合し、届けてくださった。この薬を作ったのはヴァイス伯爵ではない。この方です」
レナートの顔が白くなっていくのが、向かいの席からでも分かった。
◇◇◇
最後の弁明。
レナートが口を開いた。声が──少し、揺れていた。
「私も調合に関わっていた。妻と共同で──」
「では伯爵」
監察院代表が遮った。丁寧な声だが、鋭い。
「一点だけ確認させてください。現在、最も一般的な解熱薬の基剤となる薬草は何ですか」
レナートが黙った。
「あるいは──疫病予防薬の標準的な配合手順。最初の工程は何ですか」
沈黙が長くなる。
「……それは──」
答えられなかった。
基礎中の基礎。薬師の資格試験であれば、筆記の前に口頭で答えられなければならない程度の知識。それが──出てこない。
監察院代表が、もう一問、静かに加えた。
「では、オルテ領向けの予防薬において、粘膜保護の薬草の増量比率はどの程度でしたか」
一割増し。それが答えだ。私が広い薬草室で、毎月当たり前に行っていた微調整。
レナートは、何も言わなかった。
公聴会の空気が変わった。
「薬学者」の仮面が、公の場で──音もなく崩壊した。
レナートの手が、机の上で強く握られているのが見えた。白くなるほど強く。──この人は、怒っているのか。恥じているのか。それとも──
どちらでもいい。もう、私には関係のない人だ。
「セレスティア・ルーヴェン殿」
議長が私の名を呼んだ。
「何か補足はありますか」
立ち上がった。
会場を見渡す。カタリーナの静かな目。クラウスの──わずかに頷く横顔。エルヴィンが書記席で、心配そうにこちらを見ている。
「五年分の処方箋は、全て私が調合したものです。配合、調剤、品質管理──全工程を一人で行いました。控えは提出済みです」
声は平らだった。泣かなかった。あの日泣いた分──今は、静かに立てる。
「以上です」
席に戻った。
裁定が読み上げられる。
「ヴァイス伯爵名義の処方箋の全てを、セレスティア・ルーヴェンの成果として再登録する。ヴァイス伯爵の宮廷納入契約は即時解除。王宮監察院は爵位降格の審議を国王に上申する」
◇◇◇
公聴会が終わった。
廊下に出ると、足の力が少し抜けた。壁に手をついて──深呼吸。
「セレスティア」
クラウスが後ろに立っていた。
振り返る。
いつもの銀灰色の髪。いつもの寡黙な顔。でも──目の中に、何かがあった。言葉にはならない何か。
「……クラウス」
初めて、役職ではなく名前で呼んだ。
クラウスの目が微かに見開かれた。ほんの一瞬──驚きが走って、すぐに消えた。
「──話がある」
「はい」
「いや。今は──いい」
言いかけて、やめた。この人は、こういう場で感情を出すのが苦手なのだ。
「後で」
「ええ。後で」
それだけのやりとり。でも──廊下の薄い光の中で、二人の距離が確かに変わった。
◇◇◇
研究室に戻って、再登録された書類を手にした。
自分の名前。三百枚全てが──セレスティア・ルーヴェン。
「これは──復讐ではなかった」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「──ただ、返してもらっただけ」
レナートの爵位降格審議が始まるという報告が、翌日には届くだろう。
でも──もう、関係ない。




