第8話 十年前から
魔導筆跡鑑定の結果は、たった一行だった。──「一致」。
◇◇◇
クラウスが出張から戻った翌日、鑑定結果が届いた。
王宮監察院が独自に依頼した、独立鑑定士による魔導筆跡鑑定。対象──ヴァイス伯爵名義の処方箋五年分と、セレスティア・ルーヴェン名義でギルドから新たに提出された処方箋。
結果:筆跡は完全に一致。同一人物の手によるものと断定。
「これにより、王宮監察院が正式に公聴会の開催を要請してきた」
クラウスの声は静かだった。ギルド長室の机の上に、鑑定結果の写しと公聴会の開催通知が並んでいる。
「ヴァイス伯爵名義の処方箋に対する不正の疑い──というのが、監察院の見解だ」
私は結果の紙面を見つめていた。
「一致」。
一行。これだけで、五年間の真実が公的に確定した。私の薬は私の薬だったと。あの処方箋は全て私が書いたと。
「……公聴会」
「ああ。二週間後だ」
公の場に出なければならない。五年間の沈黙を、衆人の前で──
「怖いか」
クラウスが訊いた。私の顔を見ていたのだろう。声は相変わらず短いが、問いかけの温度が──いつもより、少しだけ柔らかかった。
「いいえ」
嘘だった。怖い。五年間黙っていたことを、公の場で告げなければならない。黙っていたのは──私自身の選択でもあったからだ。
「お前の薬がどれだけの命を救ったか」
クラウスが立ち上がった。窓際に歩いて、振り返った。銀灰色の髪が午後の光を受けて──
「俺は全て知っている」
「……え?」
「十年前から」
十年前。
──資格試験の日。
「お前の答案は、今でも俺の机にある」
声が震えた。──いや、震えたのは私の方だ。
十年前の答案。十年間保管していた。資格を休止にした時も、失効にしなかった。書類を事前に揃えていた。カタリーナの前で私の名前を名乗った。暖炉の火を──
全てが一本の線に繋がった。
「十年前の──あの日から?」
「ああ。お前の答案を読んだ時に分かった。薬草の配合に対する感覚が──本物だった。それが結婚であの家に埋もれた時は、歯がゆかった」
クラウスは窓の外を見ていた。私を見ていなかった。──この人は、こういう話を面と向かってするのが苦手なのだ。
「資格を休止にした時──俺は『いつか戻る』と思って、記録を休止のまま残した。十年待った」
十年。
涙が出た。
五年間、泣かなかった。離縁状を書いた夜も。帳簿の最終ページに「なし」と書いた時も。父の手紙を読んだ時も。レナートに「ございません」と言った時も。一度も泣かなかった。
でも──「十年待った」で、決壊した。
五年間の抑制が壊れたのではない。十年間誰にも知られていなかった──いや、一人だけが知っていた事実が、今、私の名前を呼んだのだ。
「すみません──」
謝る必要はない。でも声が出なくて、それしか言えなかった。
クラウスは何も言わなかった。ただ、窓際に立ったまま──ポケットからハンカチを出して、調合台の上に置いた。手渡すのではなく。置くだけ。
この人らしい、と思った。
泣き止むまで、時間がかかった。
泣き止んだ後──ハンカチを返そうとしたら、クラウスはもう廊下に出ていた。
◇◇◇
その夜。
エルヴィンがギルド長室の前を通りかかった時、ドアが少し開いていた。
中を覗くつもりはなかった。ただ──机の引き出しが開いている。クラウスがいつも施錠している引き出し。
中に、一枚の紙が見えた。古い紙。十年前の日付。
資格試験の答案用紙。右上の欄に、試験官の印──クラウスの印。そして答案の余白に、鉛筆で小さく書かれた走り書き。
「本物。」
二文字。
エルヴィンは静かにドアを閉めた。
「……知ってた」
誰にも聞こえない声で、そう呟いて──微笑んだ。
◇◇◇
翌朝。
鏡の前で、自分の顔を確かめた。目が少し腫れている。泣いたから。
──泣いたのは、これが最後だ。
公聴会まで二週間。それまでに、五年分の証拠を整理しなければならない。処方箋の控え、調合記録、配合の草案──全てが私の筆跡で、私の手で書かれたもの。
「今は──公聴会に集中しなければ」
クラウスの言葉が胸に残っている。十年前から知っていた。十年待った。
──でも、その意味を考えるのは、後にする。
公聴会の扉を開ける時、私は笑っていよう。今度は──泣くためではなく。




