二
ある少年の話をしよう。
湖の近くに位置するある村、ある小さな家で、少年は生まれた。貧しい暮らしではあったが家族は優しく温かく、とても幸せだった。
だが、十年と少し過ぎた頃のこと。平和だった村に、賊がやってきた。村のすぐそばに根城を築いたらしいと、大人たちがそう話しているのを聞いた。
それからは、誰もが常に怯えながら生活するようになった。いつ、どんな理不尽が襲いかかるかもわからない。少ない畑の実りを搾取され、家を荒らされ、時には若い娘を慰み者にされ。しかし、反抗する力などあるはずもない。彼らは大人数で、何より人一倍腕っぷしが強かった。
全てが変わってしまった。あんなに明るく穏やかだった家の中は暗く淀んで、両親や村の大人たちはいつも難しい顔をして話し込むようになった。
それでも、いつかは前のようになると少年は思っていた。常々両親が説くように、真面目に善良に生きていれば、必ずそれは報われるのだと。
だが、世の中はそういう風にはできていない。そう悟ったのは、両親が死んだ時だった。
見ていた大人たちが言うには、作物の徴収を少なくしてほしい、このままだと皆飢えて死んでしまう、と願い出たらしい。栄養不足から、生まれたばかりの赤子が亡くなったのを見て、正義感に駆られたという。そして、その願いは聞き届けられることなく命を散らした。
少年はその場にいなかったことを後悔し、安堵もした。しかし、両親がいなくなったという事実は変わらない。少年のことを励まし慰める者はいれど、世話をしようと名乗りを上げる者はいない。これから先、どうしたらいいのか教えてくれる者はいない。
天涯孤独の身となった少年は、たったひとりで生きていく術を知らない。
気付くと夜になっていた。少年は湖の前に立っていた。月のない夜だった。
ある言い伝えがある。湖に住まう神を怒らせると、村が滅ぶ。それは例えば湖を汚すこと、戯れに水の中へ入ること。
神様なんて、本当に信じているわけではなかった。ただもう、全部がどうでもいいと思った。何もかも、村の人も賊の者も皆いなくなってしまえばいい。そうしたら、こんなに苦しまなくて済む。
少年は、湖に身を投げた。
恐怖はなかった。思っていたよりずっと冷たい水の感触も、息苦しさも、どこか遠くにあるみたいだった。
どうしてか、とても心地よかった。底へゆっくり沈んでいく、その感覚に安らぎすら覚えた。
藍一色の世界に、郷愁のようなものさえ感じていた。
このまま、溶けるように消えてしまいたかった。
一度目を閉じたが、何か強い光を感じて目を開ける。
上も下もわからないほど真っ暗な水の中、何か光るものが見えた。黄金色の、とても美しい何かだった。
薄れゆく意識の中で、体は輝きのほうへ向かっていた。知らず、手を伸ばす。
指先が、何かに触れる。
そして、少年は暗闇に包まれた。
途切れ途切れに声が聞こえた気がした。
よく聞き取れないが、声色から怒っているような、悲しんでいるような、憂いているような感情が伝わってきた。
――可哀想……ひとり…………――……呪い……存在を……――――
少年の意識が途絶えた。声は続いている。
――新月の日……
目が覚めたとき、ただ空だけを見上げていた。夜明け前の白み始めた空。しばらくそのまま眺めて、やっと夢や幻ではないと理解する。
少年はゆっくりと体を起こす。そこは湖のすぐそばで、記憶の中のそれと一つも違わない。体に異常は見受けられなかった。痛みなどもない。水の中に飛び込んだというのになぜか着物も髪も乾いていたが、そんなことはさして大きな問題ではないように思えた。
どうして生きているのか。いや、そもそも本当に生きているのか。もしや常世に迷い込んだのではとさえ思える。意味もなく自問自答を繰り返すが、答えは出ない。
静かに揺れる水面は、何も教えてくれはしない。
どのくらい、ここでぼうとしていただろう。いつの間にか太陽がすっかり顔を出していた。
このままここでひとり頭を悩ませていても仕方がない。とにかく動かなくてはと立ち上がる。
村の中心へ行けば、人に会えば、どうにかなるはず。とにかく、これからのことを考えよう。これから、どうしたらいいのか。
ひとりでも生きていく術を、知らなければ。もし何者かによって生かされたのだとしたら、何か理由があるはずだ。
運命、という言葉が少年の頭をよぎる。そうだ、これは運命なのだろう。何か為すべきことがあるはずだ。そう何度も心の中で呟く。自身を納得させるように、これ以上考え込まないために。
歩みを進めて、聞きなれた人々の声が聞こえてきたときはほっとした。そして近づいて、違和感に気付く。
誰も、ひとりとして少年に目を向けることはなかった。いつもの朝、いつもの人達なのに、世界がまったく違ってしまったみたいだ。
いや、きっとそうではない。変わったのは、少年のほうだ。彼は、誰にも存在を認知されなくなった。見知った顔ぶれに話しかけても、肩を叩いても、大声で叫んでみても何も変わらない。誰とも目が、合わない。
これは一体なんなのだろう、少し考えて、呪いをかけられたのだという結論に達する。誰にも気付かれなくなる呪い。かけたのはもちろん、湖にいるという神様だろう。こうなると、神の存在を信じないわけにはいかなかった。
村人たちは、いつもと何も変わらない生活を送っている。昨日までと何も変わらない光景。その中で、自分だけが取り残されたように立ち尽くしている。
――まるで、幽霊にでもなった気分だ。
自嘲気味に笑う。自分がいなくても世界は何も変わらないし、誰も困らない。そう突き付けられたみたいだと少年は思った。
結局自分という存在など、酷くちっぽけなものでしかなかったのだと。大きな流れのほんの一部でしかない、たとえ消えてしまっても支障なんて何も起きないのだと。そう悟った少年は、自身がどこか冷めた目をするようになったことを自覚する。今までとはまるで世界が違って見えた。大人も何もかも、歪んで汚れきって見えた。自分自身でさえも。
とりあえず帰ろう。そう思った。帰りを待つ人は誰もいないけど。帰って、ただ眠りたかった。もう、何もしたくなかった。
元々、村のはずれに建てられた家だ。滅多なことでは人も来ないだろう。来たとしても、自分には関係ない。どうせ、誰にも気付かれないのだから。
温もりの消えた家の中は、やけにがらんとして広く見えた。火が落とされたままの炊事場には淋しさが横たわっているみたいだった。
小さな部屋の真ん中で、布団も敷かず、直に寝転がる。目を閉じるが眠りには落ちない。暗闇の中で、ただ時間だけが過ぎ去っていく残滓を見る。
思考の海に落ちていく。そのずっと奥に、何か、稲妻のようなものがある。
身体の中から研ぎ澄まされた感覚が湧き出して、溢れていく。人間が知覚できる範囲をとうに超えて、外界まで満ちていく。何も見えていなくとも、周囲の様子がまるで手に取るようにわかるようになっていく。風が吹くのも、木の枝から葉が落ちるのも、鳥が羽ばたくのも、子供が石ころを蹴るのでさえも。すべてが意識の中にあった。
少年は、自分の存在が異質なものへと変化していることを理解した。もはや人間とは呼べない、だが、なんと形容していいかもわからない。頭に浮かんだ「化け物」には気付かないふりをした。
数日間そのままの状態で過ごしたのちにわかったが、どうやらこの体は、睡眠も食事もいらないようだ。生理現象もない。
果たしてこれは、生きているということになるのだろうか。人間以外の何者にもなったことがない少年には、わからなかった。
薄く目を開ける。家の中は真っ暗で、いつもならとっくに眠っているはずの時間だ。
外に出てみよう、という気まぐれから体を起こした。
とっくに寝静まった村の中を歩く。聞こえるのは虫や獣の声、それと自身の足音のみ。全然違う場所みたいだな、と少年は思った。普通なら、絶対に見ることがなかった光景。そう考えると、なんだか少し可笑しかった。
自然と足が湖のほうへ向かっていた。静かに揺れる水面を眺めながら、もう一度飛び込んだら死ねるだろうかと不意に考える。試しにそっと水に触れてみると、指先にびりっとした感覚が来た。拒絶されている、ということがなんとなくわかった。誰にかも、どうしてかもわからないけど。
それ以来、不思議と死ぬことは考えなくなった。死ぬことができない、と確認したわけではなかったが、己の身体に刃物を突き立てるのは怖かったし、何より死ぬべきではないと感じたから。
何者かによって生かされているというのなら、そこには何か意味があるはずだ。少年は自身をそう納得させる。でなければ、気が変になりそうだった。
湖のそばにいると、やけに気持ちが安らぐのを感じる。初めからひとりだからだろうか。村人たちは、好んで湖に近付くことはなかった。ましてやこんな真夜中に誰かと出会うこともない。
毎夜のように、ここに来ることが増えた。何をするまでもなくただ座って、水に浮かぶ月を眺めている。少しずつ満ち欠けを繰り返し一度見えなくなる、その日を何度見届けてきただろう。
時間感覚が鈍っていると気付いたのは、村の中に見知った顔が少なくなってきた頃だった。一体何年経っているのか、なんて考えたくなかった。少年の体は幼いまま、髪も伸びなければ背丈も変わらない。
いつか、試しに果実を口にしたこともあったが、味覚は感じるがそれだけだった。空腹感も満腹感もない。ただ虚しさだけが残った。それ以来、何かを食べようとは思わなくなった。
少年は、今日もいつものように月を眺めに来た。静寂に包まれた湖、いつもと何も変わらない。そのはずだった。
少女が、そこに立っていた。こんな時間にこんな場所で何をしているのか、と首を傾げる。と、少女がおもむろに動く。
片足を上げる動作に、嫌な想像が広がった。もしや、この少女は、自ら命を絶とうとしているのではないか。あの日の自分のように。
気付いたら体が勝手に動いていた。人に触ろうと思ったこともしたこともなかったのに、手が、足が、前に出ていた。
温かい。そう思った。生きている証だ。振り返った少女の驚いた顔が、脳裏に焼き付いたように離れなかった。
気付いたら地面に寝転がっていて、気付いたら少女がこちらを見ていた。
目が、合った。
慌てて立ち上がる。そして、もうずいぶん使っていなかったことなんて忘れ去って、表情を作り声を出す。
「君ねえ! ――――」




