三
少女と少年は、こうして出会った。言葉を交わすようになった。月のない夜だけ、湖のそばで、それはほんのひと時の休息のような時間だった。
いつの間にか、少女の背が少年を追い越していた。少女を取り巻く環境は何も変わらないまま、少年も変わらず少年のままであった。
少年は、少しずつ呪いのことを話した。少女はそれを黙って聞いていた。決して気味悪がることはなく、それが少年にとって救いだった。少女にとっても、傷の手当をしてくれたり心配そうに声をかけてくれる彼の存在がありがたかった。あくまで気持ちを言葉や表情で表すことはなかったが。
お互いのことや、ほんの些細なこと――例えば花が咲いたこと、珍しい綺麗な鳥を見たことなんかをぽつりぽつりと伝え合った。
そんな、いつもと変わらない夜のはずであった。
少女が突然言い出した。
「その呪い、どうにかしてもらえないか神様に言ってみよう」
「神様……? どういうこと?」
少女は、この間思い出した、という前置きののち語りだした。
少女の一族は、代々この湖に住む神に仕える巫女であった。少女の母も、祖母も、曾祖母もそうであった。だが、彼女らは極めて短命な運命を辿っていた。子供を産んですぐに亡くなることが多かったという。
少女の母は、それを巫女になることの代償だと考えた。そして、少女にはそのように生きてほしくない、と思った。まだ物心がついたばかりの幼い少女に、母は儚げな笑顔でそう言った。
これから、神様や巫女なんてものに頼らない時代が来る。だから、血筋や運命に苦しむのは自分で最後にするべきなのだと、少女に巫女の在り方を教えなかった。
少女が覚えているのは、母が湖の前に跪く、その背中だけだ。
「……神様なんて、本当にいるのかな」
ぼそりと呟く。少年は、遠くの昔に聞いた声のようなものを思い出そうとする。あれは、果たして神の声とやらだったのだろうか、と。
「さあ。でも、その呪いの説明くらいにはなるだろう」
淡々とそう答える。神がいようがいまいがどうでもいい、そうとすら言っていた。
少年は無邪気そうに尋ねる。どうやって神様と話をするのか、と。
少女は表情の乏しい顔を傾け、知らないと短く返答した。
「知らないけど、同じことをしてみたらどうにかなる気がする」
「同じこと……?」
「湖に飛び込む」
その端的な回答を聞いて、少年は顔を引き攣らせる。
「いや、ちょっと待って――」
「いいからやる。大丈夫、この季節だから凍え死んだりしない」
「そういう問題じゃないよ!」
少女に手を引っ張られ、気付けば目の前に水面が迫ってきていた。体を包み込む浮遊感。ただただ恐怖が浮かんでくる。思わず目を瞑った。
水に包まれる。咄嗟のことで、上手く息を吸えなくて苦しい。閉塞感が押し寄せてきて、もしかしたらこのまま死ねるのでは、なんてことが漠然と浮かんでくる。そして今更のように、死ぬことが怖い、だなんて思う。いつも心のどこかで、終わりを切望していたというのに。
ずっと昔に見た、深い藍の色を思い出していた。
あの時はただただ、悲しさや苦しさに浸っているのが心地よかった。今は、繋いだままの少女の手のひらから伝う温もりが安心をくれる。陽だまりみたいな、月明かりのような心に触れている気がする。
そして――
目を開けたそこは、水の上だった。どこまでも果てしなく続く、青の世界。雲ひとつなく、昼間でも真夜中であるように思われた。あるのは静寂のみ。無音が痛いと、初めて少年はそう思った。
どうして、という声が聞こえた気がした。
「この人の呪いを解いて。代わりに私をどうしてもいいから」
少女は、毅然とした態度でそう言った。その目は何かを捉えているらしく、じっと前を見つめている。少年には、水と空の青さしか映らない。
――どうして。今度ははっきりと聞こえた。
「あなたが何者なのかとか、どうでもいいけど。もし神様ってやつなんだったら、もっと心が広くてもいいと思う」
ぼやけた意識が鮮明になっていく。なんとなく、少年にも気配がわかるようになって来た。多分、今、目の前にいるのだ。姿は見えないけれど。
少女は、訥々と語りかける。声を荒げる訳でも、弱々しく同情を誘う訳でもなく。ただただ、自分の気持ちを言葉にする。そこに、言葉以上の感情はわからない。
対照的に、神様なる者は、言葉はほとんどない。だが、それ以上の感情が空気を通じて伝わってくる。焦燥、恐れ、罪悪感。少年が同じような存在となったせいだろうか、不思議と心が繋がっている気がした。
ひとしきり話し終わった少女は、首を傾げる。呪いをかけるなんてどんな酷いやつかと思っていたが、目の前の神様とやらからは悪意を一切感じない。それどころか、とても儚く頼りない存在のように思える。まるで風に舞う花びらみたいだ、などとぼんやり考える。その思いつきは、少女にしては少し叙情的だった。知らずのうちに、時々感傷的なことを言い出す誰かに影響されたのかもしれない。
まあそれにしても、反応があまりにも返ってこなくて少し退屈だ。怒り出すか、もしくは嘲笑うくらいのことはするかと思っていたのに。さっきから二言三言呟くのみで、何もわからない。まったく、呪いをかけるくらいならもっと堂々としていてほしい。本当に神様なら、そんなか弱そうな姿を見せるべきではないと思う。少女は密かに溜め息をつく。
しばらく、沈黙が続いた。ややあって口を開いたのは、少年だった。
「僕に呪いをかけたのは、どうしてなの?」
少年の口調は、何者かを咎めるわけでも自己憐憫に浸っているわけでもない。一種、独白のようなものであった。
気配が揺れた。
「ずっと、考えていたんだ。何かに生かされて、死ぬなって言われている気がして。それでも、孤独になって、何もできなくて。どうして僕は、存在しているんだろう、って」
靄のように、神様の姿が見えてくる。
「僕はあのとき、死ぬはずだった。そうしたら、世の中のすべてに絶望して、自分のことでさえも恨んだままだった。本当に大切なものが見えないままだった。だからこれは、神様の優しさなんだと僕は思う」
――ごめんなさい、
神様の記憶が、感情が、流れ込んでくる。
居場所がなくなって絶望した少年。
助けなければ死んでしまう、でも、生きていても辛い目に遭ってしまう。
自分の未熟な力では、村の状況をよくすることなんてできない。
でも、見捨てることなんて、できるわけがない。
できるのは、自分と同じような存在にさせること。
体の時間を止めて、誰からも、認識されないようにする。
せめて、生きてさえいてくれたら。
いつか、彼が幸せになれるかもしれないから。
その日まで、見守っていよう。
ああ、でも、余計なことをしたって言われてしまうだろうか。
あのまま死なせてくれたら、なんて言われたら。
……なんて、そんなのありえないか。
だって、自分のことが見える人は、いないんだから。
今目の前にいる、神様と呼ばれる者は、優しい心を持ったただの女の子に見えた。
赤くなった目を隠そうともせず、俯きがちで、触れば崩れてしまいそうなほど脆い。
神様、なんて、人間が勝手にそう決めただけなのかもしれないな、と少年は思った。なんでもできると、勝手に期待を寄せてしまっていただけなのだろう。
そっと少女のほうを窺う。彼女にも同じものが伝わったらしく、無表情ながら確かに頷いてみせた。不思議と、同じ気持ちであると実感できた。
神様に向き直る。
「もう、きっと大丈夫だよ。だから、ひとりで背負わなくていいんだ」
――呪いを解いたら、全部元通りにはならないかもしれない。もしかしたら……。
「それでもいいよ。僕は、ちゃんと生きたい」
きちんと目を合わせて、一言一言を、丁寧に紡ぐ。
神様が、微笑んだ気がした。
体から何かが抜けていく。代わりに、全身が強く、脈を打つ。血が巡る。止まっていた時が動き出す。どうしてだろう、涙が出そうになった。
生きていることを、痛いほど強く感じる。長い時間、忘れてしまっていた感覚だ。もう二度と、忘れてはいけないもの。
――そろそろ、向こうに戻らないと。あんまりここにいたら、人にどんな影響が出るかわからないから。
神様がそう促す。どこからともなく霧が出てきた。このまま現実の世界に戻るのだろう、という予感が少年の頭を掠める。きっともう、ここに来ることはないのだろう、ということも。
今日のことは一生忘れないだろう、そう少年は思う。
この光景を目に焼き付けるように、しっかりと前を見据える。神様の姿がぼやけていく。
そして――
「待って」
突然、少女が呼び止めた。驚いたように、神様が目を丸くしたのがなぜかわかった。
少女は静かに問いかける。
「あなたは、ずっとひとりで寂しくないの?」
――それは……。
「たまにでいいなら、お話しよう。なんだか放っておけないから」
――……ありがとう。
笑顔が滲んで見えた。声が拡散していく。少しずつ霧が深くなって、視界を曖昧にさせる。
何も見えない、けれどどこかで見た景色のような気がした。
藍の色に、包まれていた。耳元を気泡が通り過ぎる。脳裏に、今までの記憶が浮かんでは消えていく。
いつの間にか繋いていた少女の小さな手をしっかりと握り返す。この手を離してはいけないと、心の中で誰かが囁いた。わかっている、と口の中だけで呟く。何度も、頭の中で繰り返す。
気付くと、青空が広がっていた。
その群青が、白い雲が、なんだかとても懐かしかった。




