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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】7・8巻「真相編」  作者: セキユズル
第十章「エリオット・レオパードを殺したいなら……まず、俺を殺せッ!!」
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第十章② 屋上にて

 ブレスト城の屋上。空と最も近いこの場所では、もはや風が死んでいた。ラド・ド・ブレストの海原は夜の色をまだ残しながら、東の端が薄く白く滲み始めている。波は遠く嫋やかにうねり、光を細く浮かばせる。


 エリオットは屋上の縁に立って海を見ていた。肩の線はまっすぐで、揺れない。やがて彼の背後で扉が軋み、石と金属が擦れる乾いた響きに続いて、軽やかな足音が一定の間隔で石床を打つたび冷たく反響して次第に増幅してくる。

 エリオットが振り返った先、マクシムが立っていた。異国の服——血を吸った布は、夜に溶け込みながらも輪郭を浮かび上がらせている。マクシムの立ち姿は、復讐者と呼ぶにはあまりに整いすぎている。涼やかな目元、整った呼吸。だが、瞳の奥に宿る炎は松明と比べ物にならないほど強く燃えている。二人の間で風が笛の音を短く奏で、紺色のコートと深緑の衣が小さく揺れる。


「……奇襲とは、卑怯だ」


 マクシムの冷ややかな目つきに、エリオットは首を横に振る。


「あれは私の指示ではない。私は……二人きりで会うと言った」


 マクシムが一歩前へ出てエリオットを見据える。


「言い訳を聞きに来たんじゃありません。——あれから二十年ですよ。……僕は、あなたが親友を殺した理由を、あなたの口から聞きたいんです。最期に」


 エリオットは目を細めて俯くと掠れた声で語り出す。


「……家族が殺された、あの日。ゼフィールは私の息子と秘密裏に会っていた。だから、あいつが家族の命を奪ったものだと思っていた。妻と息子を失って、私は我を忘れて憎悪に呑まれ、大した証拠もないのにゼフィールを犯人だと決めつけ……」


 エリオットの言葉が途切れたところで、マクシムは瞳の奥に火を強めて言う。


「……だから、自分の手で殺したと? あなたのせいで島の仲間は英雄を失った。家族の死を嘆いて、怒りに燃えて……あなたのしたことは、親友殺しだけじゃない。誰かの家族を殺した罪がある。家族を殺されて黙っていられないのは、あなただけじゃないんですよ。ご自分はさも例外だと思っているようですが」


 風が音を待ち、エリオットは額に悲痛な曇りを帯びてマクシムに目を向けた。


「……ずっと君たちに詫びを言いたかった。……申し訳ない」


 マクシムの瞬きが一瞬止まるも、冷たい目つきの無表情を湛えた。


「……今さら? 手段はいくらでもあったはずなのに、あなたはおれたちに目を向けず、国の英雄として鎮座していた。二十年も!」


 二十年の一言で空気が裂けて風が巻き、マクシムの瞳の奥の炎が鮮明に露わになり、心の片隅で抑えていたものが溢れる。


「おれがこうして現れるまで、詫びの一言もなく! 国家の正義を謳ってばかりいたくせに……おれたちには目を向けなかった!!」


 エリオットは頭を垂れて言葉を受け止め、マクシムは低く冷たい声色で刃のように言葉を重ねる。


「親友を歴史の敗者として、悪として決めつけた。お前たち国家を、おれは赦さない。……ここへ来たのは島の皆のためだけじゃないぞ。悪とされた全ての同胞たちのために、おれはここまで来た」


 その瞬間、マクシムの手が動いて双剣の柄を掴み、引き抜くと鋼の音が夜明け前の空気を裂き、刃が光を受けて切っ先がエリオットへ向く。


「——皆のために死んでくれ」


 エリオットの手が腰のサーベルを握って引き抜き、マクシムは双剣を構えて重心を落とした。潮風が二人の衣を引き裂くように吹き抜け、マクシムが先に動いた。マクシムの左の剣が最短距離で喉元を狙い、右の剣を握る手首を翻してはらう。エリオットが二振りとも受け止めると金属音と火花が散った。想像以上に重い。エリオットが押し返すと、マクシムは一瞬距離を取って双剣の連撃で間合いを奪う。エリオットは捌いて受け流し、いなしていく。マクシムは斬りに来ていない、削っている。エリオットの体勢を、呼吸を、重心を崩すために。次の瞬間、マクシムの蹴りが低く入ってエリオットの脛を払った。エリオットの体勢が揺れる一瞬の隙を突いて、マクシムの右の剣がエリオットの肩口を掠めて布が裂け、浅い切創の血が滲む。エリオットは即座に交代して呼吸を整えるが、マクシムは踏み込んで再び間合いに入る。エリオットはサーベルを振るって迎え撃ち、鋼がぶつかった。マクシムが強引に押し切り、鈍い音と共にエリオットの胸部に拳を叩き込んだ。


「——ッ!」


 エリオットの口から息が抜け、肺が潰れる。エリオットの足がもつれるが、踏み留まると剣を振るい、横なぎで反撃する。マクシムは低く屈んで躱し、踏み込みに体重を乗せ、今度はエリオットの肩に拳を叩き込む。鈍い衝撃が骨に響き、エリオットの肩が下がって腕の力が抜け、サーベルの軌道がぶれる。マクシムはサーベルのブレを見逃さず、双剣をエリオットの胸部へ走らせて連続で切り裂く。エリオットはサーベルを構え直して後退し、再び踏み込むもマクシムの方が速い踏み込みでエリオットの刃を弾き、今度は彼の胸部に拳を三発叩き込んで、鈍い音を響かせる。エリオットのサーベルが手から溢れて、身体が耐えきれずに片膝をついた肩と胸の切創から血が滴って石に落ち、細い線を引きながら広がり、全身に打撲の衝撃と痕が残る。マクシムはエリオットに影を落として見下ろした。


「……英雄も、もはやここまで」


 マクシムは双剣のうち一本を鞘へ納め、金属の収まる音が小さく響く。彼は残る一本を両手で握ると、柄に指を食い込ませた。血と汗で滑るはずの柄を掌で押さえつけ、胸を上下させてエリオットを睨みつける。


「悪く思うなよ。——これで、やっと終わるんだから」


 マクシムの胸の奥で何かが弾ける。言葉とは裏腹に、胸の奥が熱い。使命、義務、正しさ。……それだけではない。高揚だ、ここまで辿り着いた実感が血の中で脈打ち、握る手に更に力が入る。マクシムの刃がゆっくりと持ち上がり、水平線から顔を出した小さな光を受けて白く光る。


 一方、螺旋階段ではキフェルは息絶え絶えに駆けていた。足元が揺れ、石の段が遠くなる。近づいているのか、離れているのか分からない。ただひたすらに上へ、上へ。肺が焼け、喉が裂ける。手すりを掴み、身体を引き上げる。視界の先に扉、屋上へ続く最後の境界が見えた。


 屋上ではマクシムの腕がさらに上がった。剣が天を切り、振り下ろす軌道に入る。エリオットは目を閉じて深呼吸した。その瞬間を受け入れるように。風が強く吹き抜けて音が死ぬ。


 ルキフェルが最後の段を踏み切って扉の前に辿り着いた。急ぎ手を伸ばして掴むも開かない。力を込めて押して引くも、軋む音が続くばかりで開かない。


「……っ!」


 ルキフェルの中で焦りが爆発し、今度は両手で再び掴み、全身の力を込めた。腕が震え、歯を食いしばって思わず叫ぶ。


「開け……ッ!」


 扉を押すと小さな隙間が生まれ、風が吹き込んでこじ開け、扉が激しく軋む音を立てて外へと弾けた。


 マクシムの剣が頂点に達して振り下ろす直前、ルキフェルは屋上に飛び込むと空気を裂くような声で発した。


「待てッ!!」


 マクシムの動きがピタリと止まって振り返ると、ルキフェルは息を荒げて肩を上下させながら射抜いていた。マクシムは掲げた剣を落とさずルキフェルを流し目で捉える。


「……君も往生際が悪い」


 マクシムの声音は低く冷たいが、語尾に苛立ちが混じっていた。ルキフェルは息を荒げながら一歩踏み出し、焼けた喉が掠れた声を絞り出す。


「今すぐ、その人から離れろ。まず、お前の相手はその人じゃない。……俺だ」


 マクシムの眉が寄って、膝をついたエリオットに目を向けた。血に濡れた肩、乱れた呼吸。エリオットの視線がルキフェルに向いて掠れた声で呟く。


「……まさか、ルキフェル……」


 マクシムがルキフェルに視線を戻し、息を吐くと思考が冷たく整って口角が上がり、瞳に火が灯った。


 ……まあ、いい。英雄を殺す前に、英雄の子を殺す。今日こそ——この男を超える。


 マクシムが剣を下ろすと横へ退き、エリオットの前から距離を外して屋上の縁へ歩き、背を預けて道を開けた。ルキフェルは石床を蹴ってエリオットのもとへ駆け寄り、膝をついて顔を上げた。エリオットの茶色い瞳と目が合って、ルキフェルは思わず息を止めた。視界の奥で何かが引っかかる。知らないはずの顔、なのにどこか胸の奥が騒ついて、言葉にならない感覚が心を掻き乱す。エリオットも目の前のルキフェルを見据えていた。傷だらけの顔だが、翡翠の瞳の奥にあるものが妙に引っかかる。


「……一体、なぜ」


 エリオットの問いが零れ、ルキフェルは一瞬迷うも腕を伸ばしてエリオットの肩を担いだ。


「話は、あと」

「っ……」


 ルキフェルはエリオットを立たせて身体を支え、屋上の塀に背を預けさせて座らせた。エリオットが肩で息をしていると、ルキフェルは彼に跪いて真正面から見つめた。


「ここは、俺に任せてほしい」


 エリオットはルキフェルの目にすっかり釘付けになっていた。翡翠の瞳が異様なほどに強く光って、エリオットの胸の奥が騒つく。理由は分からないが、不思議と否定できない。


「……わかった」


 エリオットが呟くと、ルキフェルは立ち上がって振り返った。マクシムが塀から身体を離し、一歩前へ出ながら剣を構える。ルキフェルも距離を詰め、やがて緩やかに足を止めた。屋上の中央、夜明けの光の中で二人が向かい合う。


「……約束を破って、ここまで来た理由はなんですか」


 ルキフェルの喉がひくりと鳴るも、押し殺した怒りを混じえて吐き出す。


「とぼけるな。ぜんぶ、知ってたくせに」


 マクシムの眉が跳ね上がった。ルキフェルは苛立ちと痛みと、言いようのない寂しさを混ぜて声を震わせる。


「なんで、今まで黙っていたんだ。……アントワーヌ」


 マクシム——アントワーヌの呼吸が途切れ、瞳が揺れると困ったように眉を顰めた。笑っているのか呆れているのか、どちらともつかない表情が顔に浮かぶ。


「……やっと、かよ。気づくのが遅い」


 ルキフェルは思わず目つきを鋭くさせた。


「何も言わないお前が悪い。正直に言え。俺が……本当は誰かってことも知っていたのか?」


 アントワーヌは喉に何か詰まった感じがして口を閉ざしていると、ルキフェルは押し殺した声で語る。


「思い出したんだ。……俺が、ラウルって呼ばれていた時を」


 アントワーヌの瞳が見開かれて声を漏らし、エリオットもまた息を呑んでルキフェルの背に釘付けになった。ルキフェルは記憶を辿るように続ける。


「暗い部屋だった。男に襲われて、女が……俺を庇って、死んだ。その女が、俺をラウルって呼んでいた」

 屋上に沈黙が落ち、アントワーヌは目を見開いたまま掠れた声を漏らす。


「……それだけ?」


 ルキフェルは眉間に皺を寄せて俯き、瞼を閉じて暫し暗闇を見つめると、アントワーヌに再び目を向けた。


「ああ、そうだ」


 アントワーヌの喉がひくりと動き、視線がブレまくった。目の前にいる男は、確かにラウルだ。だが、違う。あの頃のすべてを持っていない。自分が知っているラウルは、そこにいない。それでも、同じ顔で同じ声で立っている。アントワーヌの胸の奥が軋んだ。ずっと、見てきた。ずっとラウルとして見ていた前提が今、崩れて言葉が出なかった。夜明けの光が強くなり、アントワーヌが震える声で問いかける。


「……おれのこと、誰から聞いた?」

「レオンだ。あの戦争のあと、エル・イエロ島に行った。」

「レオン……」


 アントワーヌはレオンの名を噛みしめるように繰り返し、声を柔らげて問う。


「……元気だったか? おれ、勝手に出ていったから」


 ルキフェルは間を置かず告げる。


「お前のこと、会いたがっている。……彼も、ここに来てるんだ」


 その瞬間、アントワーヌの表情が強張って呼吸が浅くなる。


「嘘だ。レオンが島を出るわけない」

「嘘じゃない! お前のために、俺たちについてきたんだ」


 ルキフェルの声が強くなって突き刺さり、アントワーヌの呼吸が乱れる。信じたい、信じたくない。ルキフェルはとても静かな神経を慰撫するような声で告げる。


「レオンが言ってた。レオンも、島の連中も……憎んでいないって」


 ルキフェルの言葉が落ちた瞬間、アントワーヌの中で長い時間をかけて固めてきたものに亀裂が走った。


「もう、自分たちのために戦わなくていいって。今のお前を見たいとも……」


 ルキフェルがそこまで言った時、アントワーヌの剣を握る手が震えた。力が入らない、何かを支えていた芯が崩れる。


 レオンの顔、島の風景、笑っていた声が一気に押し寄せると同時に、自分がやってきたことと積み上げたもの、犠牲にしたもの、全部が浮かび上がる。——噛み合わない、どこにも辻褄が合わない。


 アントワーヌは眩暈がして足元がぐらついた。立っていることすら怪しい、それでも倒れない。崩れ落ちるのを止められないまま。ルキフェルはアントワーヌの異変に気づいて近づこうとする。


「アントワーヌ……? どうした」

「下がれッ!!」


 ルキフェルが一歩踏み出すと、アントワーヌは鋭い叫びを上げてルキフェルに切先を向けた。アントワーヌが噛み付くような目でルキフェルを見つめ、興奮して叱るような激しい声を出す。


「じゃあ、なんだよ……おれがやってきたこと、無駄だったのか? 間違っていたのかよ!!」


 アントワーヌの剣がぶれる。ルキフェルが目を細めて視線を落とすと、アントワーヌは方を震わせて歯を食いしばった。


「……っ、おれはな……! 穏やかに生きることも、かつての友も、愛おしい相手すら……ぜんぶ突き放してでも、この道に賭けてきた!!」


 アントワーヌの剣を握る手に筋が走り、ルキフェルを射抜いて悲痛に声を漏らす。


「それを……おれから取り上げるのか。そんな言葉、信じない……! 信じなければ、全部無駄だ! おれの人生の意味が……なくなる!!」


 屋上に痛々しいほどの静寂が落ちる。ルキフェルは視線を彷徨わせて言葉を探すが、見つからなかった。


「……訳が分からないよ。なんで……そこまでして、復讐に燃えるんだ」


 アントワーヌはゆっくりと首を振って声を落とす。


「……ただの復讐じゃない……報復だ。おれが目指して、歩んできたものは——報復なんだ。ここまで来るのに……歩んできた全てを、お前は壊そうとしている。……お前も復讐者のくせに」


 ルキフェルは顔を強張らせるも即座に首を横に振った。


「……違う。今は、違う」


 ルキフェルの掌に爪が食い込み、胸の底で悲鳴が上がる。


「復讐をしても……悲しみは消えない。俺は、お前が悲しんでるのを見たくない。俺がここへ来たのは……お前の悲しみの受け止めるためだ」


 アントワーヌの瞬きが増えるが、すぐに醜く歪んで冷たい声色になる。


「……だとしても、おれは止まらない」


 ルキフェルが唇を噛むと、アントワーヌは刺すような言い回しで言う。


「——ラウル。……そうだよ、おれは最初から知っていた。お前が無邪気に追い越していく姿も、ゼフィランサスが意識のないお前を連れ出して、おれもついていったことも。お前が記憶を失くして、別の名で生き始めたことも、全て見てきた」


 エリオットの身体が強張って塀から身を離し、アントワーヌの立ち姿に目を見張った。


「アントワーヌ……? まさか、ジャンの……」


 アントワーヌはエリオットの言葉を遮るように剣を構え直した。冷たい光が宿る。


「今のおれはマクシミリアン・ブーケ、過去は捨てた。師匠ゼフィランサスの弟子として、お前たちレオパード家の人間の命を貰い受ける」


 ルキフェルの鼓動が早まるも、アントワーヌのギラついた茶色い瞳を前に首を横に振り、泣き出しそうな声で語りかける。


「……違う。——お前はアントワーヌだ」


 アントワーヌが驚愕のため喘ぐような呼吸になり、ルキフェルは瞼を閉じて俯き、声を頼りなく震わせる。


「俺はな……真実を知って、分からなくなった。誰の人生を歩いてきたのか、誰として生きればいいのか。今は、お前だけが頼りだ」


 アントワーヌの呼吸が止まって一瞬何かが戻りかけるが、壊れたような笑いが漏れて肩が揺れる。


「……はは、なるほど。昔の話が聞きたいのか。……いいだろう、特別に聞かせてやるよ。お前が、ラウルがどんな子供だったか」


 アントワーヌが顔を上げてルキフェルを射抜く。彼の目はどこか遠い、笑っているのに何も楽しそうじゃない。声の端にふっと揺れた絶望的な影を引きずり出すような口調で語り出す。


「見た目は弱々しくて内気で、すぐ黙る。でも、話せば分かるやつだった。人のこと、よく見てた。……おれはな、無邪気に笑ってるお前を見るのが好きだった」


 アントワーヌはルキフェルから目を背けると片手で顔を覆い、次第に口調が熱を帯びてきた。


「けど、お前は全部先に行った。勉強も、剣も、何をやってもおれより上だった。……悔しかった。おれは何しても、満たされなかった。甘えられない、“良き跡取り”でいなきゃいけない。そこに、お前が現れた。学力で勝てない、才能でも勝てない……おれには、何もない。だから、だから、おれは……!!」


 焦燥か嫌悪か得体の知れない不吉な塊が心を押さえつけるも、アントワーヌは顔から手を離してルキフェルを射抜いた。


「——お前が羨ましかったんだよ!! 認められたかった、愛されたかった! でも、そのやり方が分からなかった!!」


 アントワーヌの叫びが屋上を叩き割る。潤んだ目が夜明けの光を借りずとも煌めく。ルキフェルが悲痛な表情で見つめ、アントワーヌは肩で息をしながら声を震わせた。


「だから……見つけたんだ、これなら証明できるって。復讐、報復、それが唯一の答え、これを成し遂げれば、おれは……おれでいられる」


 アントワーヌがすべてを吐き出し、呻きのような呼吸が屋上に木霊した。ルキフェルは唇を噛むもアントワーヌから決して目を離さなかった。目の前の男が何を抱えてきたのか、やっと分かって胸の奥が重く沈む。それでも逃げない、ここで引いたら終わる。空っ風が二人の間を通り抜け、ルキフェルが囁くように声をかける。


「……相談してくれれば」


 アントワーヌは即座に首を振って顔を背ける。


「必要ない。……ゼフィランサスが強さに変えてくれた」


 ルキフェルは目を伏せて靴先で石床をなぞった。


「……そうか。お前の執念が今、やっと分かった」


 アントワーヌの手が動き、鞘に収めていたもう一本の剣を抜くと金属音が朝の空気を裂く。双剣、二刀の構えが変わて重心が落ち、戦うための形に戻る。


「だから、ここで退くわけにはいかない! ここへ呼んだのは、お前を超えるため。報復を果たすと同時に今度こそ、お前を超える!!」


 アントワーヌの揺るぎない声が響き、視線が真っ直ぐに突き刺さる。ルキフェルは彼の宣言に頷いて受け止めると、剣帯に手を伸ばしてカットラスの柄を握りしめた。


「……だったら、俺も退かない」


 ルキフェルがカットラスを引き抜くと、鋭い音と共に刃が光を受ける。


「俺がここに来たのは、守りたいもののため。お前の執念も、復讐心も、全部ぶつけてこい」


 ルキフェルはアントワーヌを見据え、東の技のしなやかな構えを取ると周囲で風が巻いた。


「今の俺は、ルキフェルとラウル。両方を抱えて、ここに立ってる」


 ルキフェルは目を閉じて深呼吸をすると胸の奥の獣と肩を並んだ。次に目を開けた時、景色が鮮明になってアントワーヌただ一人に絞られ、自分の心の奥底を覗き込むような表情と、覚悟の色を浮かべた翡翠の瞳が奥から煌めく。


「エリオット・レオパードを殺したいなら……まず、俺を殺せッ!!」


 その瞬間、風が強く吹き抜けた。夜が終わりきらない光の中で、二人は同時に踏み込んで雄叫びを重ねる。金属がぶつかり、火花が弾ける。初撃は互角、互いに一歩も引かない。刃と刃が噛み合い、押し合い、離れるとすぐに次が来る。マクシムの双剣が左右から挟み込み、ルキフェルは身を捻ってカットラスで一閃だけ受け流す。足が鳴る、踏み替え、間合いが潰れて呼吸がぶつかる。


 ——強い。また強くなった。


 ルキフェルの脳裏に浮かぶが、同時にアントワーヌの瞳も同じものを見ている。


 ——負けるわけにはいかない。


 思考が重なって再びぶつかり、剣が鳴って斬撃が連なる。上段、下段、逆袈裟、突き。双剣が空間を裂き、カットラスがそれを拾い、流して弾く。足元で瓦礫が砕け、石が跳ねる。間合いは常に近い、互いに距離を取ることを拒否する。刃の届く場所、血の届く場所。一瞬、アントワーヌの右手が浅く入り、ルキフェルの脇腹に走って布が裂け、血が線を走るように描いて滲んだ。ルキフェルは踏み込むとカットラスを返して、アントワーヌの肩口を裂く。アントワーヌの体がわずかに揺れるが、倒れずに攻撃を続ける。打ち合いはすぐに削り合いに変わり、互いに浅い傷が増える。深い一撃には至らないが、確実に体力を奪う。お互い呼吸が荒くなり、視界が狭まるが止めない。


 屋上の端で、エリオットは喉を震わせて祈っていた。その間にも戦いは加速し、アントワーヌの双剣が軌道を変えて崩しに入る。アントワーヌが低く屈んで鋭く足元を払うと、ルキフェルの体勢がわずかに崩れる瞬間に踏み込み、重心を乗せる。彼の右の剣が叩き込まれるとルキフェルの右腕の骨が嫌な音を立てた。


「——ッ!!」


 衝撃と共にルキフェルの手の中でカットラスがズレる。握れない、指が言うことを聞かない。ルキフェルは踏みとどまって歯を食いしばると、空いた左手を振り抜いてアントワーヌの顔面に叩き込んだ。


「……ッ!」


 アントワーヌの視界が衝撃で揺れた隙に、ルキフェルの膝が崩れる。限界だった、体が支えられない。ルキフェルが仰向けに倒れると、視界一杯に空が広がった。息が続かない、視界が白む。アントワーヌはよろめきながらもルキフェルへ近づくと膝をついて彼に跨った。


「……これで……終わる」


 ——やっと、超えられる。


 ルキフェルは嵐のように呼吸を弾ませていた。右腕が熱を持って鈍く痺れている。身体中に焔とピリピリとか細い痛みが駆け巡っていた。身体に重圧がかかって薄く目を開ければ、アントワーヌの高揚した顔が見下ろしている。——野望を叶える、一歩寸前で。


「……上手くなったな」


 ルキフェルの口元に笑みが浮かび、アントワーヌは思わず息を呑んだ。


 ——アントワーヌ、上手くなったね。


 初めて遊びに誘い、初めて剣を握ったあの日が頭の中で駆けていく。


「死を目前に、敵に対して賞賛を送るか。どこまでも余裕な奴め」


 アントワーヌが苛立ちを含ませながら吐き捨てる。ルキフェルは瞼を閉じて息を整えた。


「……死、か。俺、死ぬのか」


 アントワーヌは剣を握って持ち上げると、ルキフェルの喉元に切先を向けた。ルキフェルは笑みを湛え、波が引くような小さい声を漏らす。


「……俺の鎖も切れて、羽が生えて……海の上を飛べるか」


 アントワーヌが意を決して剣を下ろすと、風がルキフェルの囁きを乗せて運んできた。


「——自由に」


 刃が喉元寸前でピタリと止まり、アントワーヌの胸が高鳴った。またしてもあの日の光景が鮮やかに甦る。


 ——いいな、ちょっとした冒険みたいで。


 脱走癖の理由を明かした時、彼は目を輝かせて言った。


 ——ボクもさ、本当は海の上で生きたいんだ。自由になりたい。


 アントワーヌは切先をずらしてルキフェルを見下ろした。傷だらけの顔、呼吸もままならない。それでもそこにラウルがいる。笑っていた顔、追い越していった背中、名前を呼んだ声、一気に蘇る。


 ——海の上か。自由に生きるって、悪くないな。

 ——ねえ。アントワーヌは自由について、どう思う? 家のこととか全部置いといて、ただ自分の好きなことだけできたら。

 ——置いとければな。でも、そう簡単にはいかないんだよ」

 ——うん。それでもさ、考えるだけでも楽しいよね。冒険の計画みたいで。


「……っ」


 アントワーヌは喉を詰まると手が震えた。剣を下ろせない。殺したい、終わらせたい。なのに……殺せない。上手く息を吸えない、胸が焼ける。ルキフェルは辛うじて瞼を持ち上げた。薄く開いた視界の中にアントワーヌの顔がある。表情は歪んでいた。怒りでも憎しみでもない、何かが壊れかけている顔だ。理解が遅れてやってくる。


 ……ああ、終わるのか。


 ルキフェルの視界の中でアントワーヌの腕が震え、剣を大きく振り上がる。迷いを断ち切るように勢いよく振り下ろされる瞬間、乾いた甲高い音が屋上に響いた。刃はルキフェルの顔の真横、冷たい石床に突き立っている。ルキフェルは思わず瞬きをした。アントワーヌの肩の震えが次第に震えて大きくなり、息が乱れて喉が詰まり、声にならない音が漏れて堰を切ったように崩れた。


「……っ、ぁ……」


 アントワーヌの熱い雫が頬と顎を伝い、ルキフェルの頬にぽたぽたと降ってくる。アントワーヌは剣から手を離すと、金属が鈍い音を立てて石畳に転がった。


「おれは……何を、考えてた……」


 アントワーヌは力なく呟いて俯いた。ルキフェルは歯を食いしばって左腕を床についた。右腕はもう感覚がない。指先が血と汗で滑る、石が冷たい。それでも身体を押し上げて起こした。


「……っ」


 視界が揺れる中、ルキフェルは息を整えながらアントワーヌを見据えた。


「……お前はずっと、誰かの姿でしか生きてこなかった。ゼフィランサスの名の下で、マクシミリアン・ブーケとして。……けど、今度こそ本当のお前として生き直せよ。……アントワーヌとして」


 アントワーヌの肩がびくりと震え、恐る恐る顔を上げた。戸惑いと恐れと、どこかで求めていたものが瞳に混ざっている。ルキフェルは眉間の皺を解いて目を澄ませた。


「俺は逃げた。自分の過去からずっと逃げてたけど……お前はまだ間に合う。約束を破ってでも、ボロボロになってでも伝えたかった。お前も逃げるな。過去の影じゃない、お前自身で生きろよ」


 風だけが通り抜けて血の匂いを運んでくる。アントワーヌは涙の跡を残したまま、どこか諦めたように笑った。


「……ありがとう、ラウル。……お前の言葉は嬉しい。でも、遅すぎた」


 ルキフェルの瞳が強く揺れ、左手を伸ばしてアントワーヌの襟を掴むと乱暴に引き寄せた。


「ふざけるな、勝手に終わらせんな!!」


 ルキフェルの怒鳴り声が屋上に木霊し、彼は痛みを堪えながら荒い息のまま揺さぶって言葉をぶつける。


「誰だって遅いんだよ、生き直すにはな!! でも、お前は生きてる。だから変えられる!! 偽りの姿なんて脱ぎ捨てろ!!」


 朝の光が屋上に差し込んで二人を照らす。ルキフェルは翡翠の瞳に覚悟の熱を滾らせ、アントワーヌの濡れた瞳を覗き込んだ。


「お前はアントワーヌだ。もう、誰の影でもない。——俺が、そう呼ぶ」


 アントワーヌは暫し呼吸するのも忘れ、熱涙に咽んで何かを言いかける。——刹那、扉が叩き割るように開いて屋上の空気を震わせた。


「そこまでだ!」


 複数の足音、鎧がぶつかる音。兵士たちが雪崩れ込んでくる。アントワーヌの瞳が即座に警戒の色に切り替わり、残っていた力を無理やり掻き集めて双剣を拾い上げた。彼はルキフェルから身を離して立ち上がるも、足がもつれて視界が揺れ、踏み出したはずの一歩が遅れる。


「……っ!」


 次の瞬間、数人の兵士が一斉に飛び込み、マクシムは腕と肩を押さえられ、石の塀に背を強引に押し付けられた。冷たい感触に呼吸が詰まる。赤い鉢巻がズレて、ひらひらと舞いながら石床に落ちていった。抗おうとした彼の手から力が抜けて双剣がこぼれ落ちる。双影は石を打って転がり、乾いた音を反響させた。


「アントワーヌ……!」


 ルキフェルが声を張り上げて立ち上がろうとするが、脚に力が入らない。それでも無理やり起き上がって一歩踏み出そうとすると、兵士たちに肩を掴まれて地面に叩きつけられるように跪かされる。


「動くな!」

「……っ」


 ルキフェルの呼吸が乱れ、視界が揺れるも顔を上げてアントワーヌの方に手を伸ばした。


「やめろ! お前たち、何をしている!」


 エリオットが兵士たちの動きを妨げるように叫び、ふらつきながらも立ち上がる。


「二人に手荒な真似をするな」


 血に濡れた体、それでも声だけは鋭い。兵士たちは動きを止めて顔を見合わせていると、迷いを断ち切るようにエリオットが続ける。


「……彼らは私が見る。お前たちは下へ。負傷者の手当てに回れ」


 兵士たちは「……はっ」と渋々と頷くと、拘束していた手を離して扉の向こうへ消えた。アントワーヌの体から力が抜け、塀に凭れるズルリと沈んで座り込んだ。呼吸が荒い、もう立てない。ルキフェルも跪いたまま肩で息をしている。視界がぼやける、焦点が合わない。音だけはやけに鮮明になる。やがて、新しい足音が屋上に入ってきて、エリオットの声が耳に届く。


「来てくれたか、ソフィー。二人とも、かなり酷い。……今、できることを頼む」

「大元帥も……痛ましいですよ……」


 ソフィーの声が震えている。抑えきれない、それでも崩れないようにしている。


「私のことはいい。彼らを優先してくれ」


 二人のやり取りをルキフェルは耳だけで拾っていた。視界はもう曖昧だ。光と影が混ざるが、音は届く。


 ……来た、のか。


 意識の底で思う。安堵かどうかも分からない、ただ少しだけ力が抜けた。呼吸が浅くなる中、軽い足音が近づいてくる。ルキフェルのぼやけた視界の中で、輪郭が少しずつ形を持ち始めた。誰かが駆け寄ってきて止まる、膝をつく気配にルキフェルは顔を上げた。ソフィーだった。彼女に顔を覗き込まれ、思わず掠れた声を漏らす。


「……久々だな」


 喉が焼ける、うまく空気が通らない。それでも言葉は零れた。目の前の顔がわずかに揺れ、涙だと分かるまで少し時間がかかった。血に汚れた軍服。だが、怪我はなさそうだな。ルキフェルの視線が彼女の輪郭をなぞる。命があるだけで胸の奥の何かが緩んだ。安心と呼ぶには小さすぎるが、近いものだった。ソフィーの手が触れ、ルキフェルの肩に熱が伝わる。いや、違う。熱いのは自分の方だ。焼けつくような熱が皮膚の奥で暴れている。触れられた瞬間、彼女の指がわずかに滑るのが分かる。血だ、汗と混じった自分の血。ソフィーに手首を掴まれ、脈を探られる。


 ……医者、だもんな。


 細い、弱い。自分の鼓動が他人事のように遠い。浅い息を吐くたびに喉の奥で嫌な音が鳴る。血の味がするが、それでも意識は途切れない。ソフィーの手が自分の手を包んだ。


「ルキフェル……」


 ルキフェルの視界に彼女の顔が映る。震えているが、逃げていない。目を逸らさない。彼女の視線を見た瞬間、ルキフェルは呼吸の合間に痛みが走るも、口角を上げて声を絞り出す。


「……安心しろ。俺はまだ……死に方を決めてない」


 ソフィーの気配が少しだけ変わり、張り詰めていたものが緩む空気の変化を捉えた。ルキフェルはゆっくりと瞬きをすると、視界の端でカットラスが動いた。彼女がわざわざ手の届く位置に置き直したのだと気づく。


 ……律儀だな。


 こんな状況でも少しだけ笑いそうになるが、力が足りない。


「絶対に、置いていったりしないから」


 ソフィーの囁きがルキフェルの耳に届く。ルキフェルは答えない代わりに指先を動かそうとするが、動かない。それでもいい、彼女がそこにいるだけで十分だ。ソフィーが立ち上がると、気の流れが屋上の端へ向かった。彼女が離れていく。ルキフェルの意識も少しずつ遠のくが、辛うじて持ち堪える。


 ……まだ、終わってない。


 視界が途切れて繋がらない。光と影がまた滲んで混ざる。首が重い、それでもルキフェルが角度を変えると、ぼやけた先で石塀にもたれた影が崩れ落ちるように座り込んでいた。アントワーヌの姿だ、遠目でも分かる。


 ……ひでえな。


 ソフィーの足音が一歩、また一歩と遠ざかって止まり、沈黙のあとに掠れた声が風に乗って届く。


「……ずいぶん血だらけだな」


 アントワーヌの声だった。途切れ途切れ、それでも、平然とした調子を無理に引きずっている。


 ……あいつ、まだそんなこと言えるのか。


 呆れともどこか安堵ともつかない感覚、続く言葉はうまく聞き取れない。音が遠い、近いのに遠い。ただ、ソフィーの声がやけに輪郭を持って届く。


「……医者として来たんじゃありません」


 ……らしいな。あいつは、そういうやつだ。誰であろうと関係ない、助ける。


 何かを押さえる音、布が擦れる音。血を止めているのだと分かる。短い呼吸音と震え、それでも手は止まらない。


 ……生きる気、あるな。


 ルキフェルはぼやけた視界の中でアントワーヌの方を見る。まだ落ちていないのが分かる。しぶとい、あいつも同じだ。やがて、ソフィーの声が変わった。揺れている、抑えている。それでも、止まらない。何かを伝えている。全部は拾えないが、断片だけが刺さる。


「……亡くなりました……!」


 ルキフェルの意識が引き戻され、思考が遅れて繋がる。


 ……誰だ。……グウェナエル、か。


 ルキフェルの胸の奥が沈むが、驚きはない。あいつはそういう選び方をした、そういう顔をしていた。ソフィーの声がさらに震え、怒りと悲しみが混ざり、ルキフェルの耳には言葉が断片的に飛び込んでくる。


「……たくさんの人が…………助けを…………どうして…………逃げないでください……!」


 誰に向けたものか。考えなくても分かる。ルキフェルは目を閉じかけるもすぐ見開いた。


 ……逃げんな、か。


 足音がルキフェルの側を通り過ぎ、遠ざかっていく。ソフィーが光の方へ、朝日の方へ去ったらしい。残されたのは沈黙と荒い呼吸、そしてアントワーヌの掠れた声。


「……ソフィー……どうか、無事で……」


 ルキフェルは視界の端で朝の光が滲むのを見ていた。戦いは終わったが、終わっていないものだけが残っている。ルキフェルが息絶え絶えに身体を揺らしている中で別の声がかすかに届く。エリオットの声だ、近いはずなのに遠い。


「アントワーヌ、彼女……」

「言わないで、ください…………今は、何も……彼女は……何も知らないんです…………どうか……あの子には……何も言わないで……」


 アントワーヌの声だ、震えている。聞き間違えるはずがない。アントワーヌだった。息が乱れている、それでも必死に言葉を繋いでいる。懇願らしい、命令でも意地でもない。ただ、何かを守ろうとしている。。エリオットの声が低く返る。


「……わかった」


 ……何の話だ。


 考えようとするが、思考が続かない。熱が上がって、体の奥からじわじわと焼けるような感覚が広がる。


 ……ああ、やばいな。


 ルキフェルがぼんやりと思うと、視界がグラリと歪んだ。音が遠のく、体が重い、落ちる。そのまま沈みそうになった時、ドタバタとした足音が割り込んできて一直線に近づいてくる。


「……っ! ルキフェル!!」


 声が鋭く焦っている。足音がすぐ近くで止まった瞬間、背を支えられた。ぐらついていたルキフェルの体が持ち上がり、誰かに預けられる。ルキフェルの視界の端で赤が揺れた。風に煽られた髪が光を拾うだけで、誰なのか確かめるまでもない。ルキフェルの喉の奥に引っかかっていた息が少しだけ解けた。


「……ああ……無事で、よかった……」


 ルキフェルの体から力が抜け、ジャスパーに背を預けた。すると、ジャスパーの声がすぐ近くで弾けて両肩を強く掴まれる。


「おい、寝るな! ここで寝たら戻ってこれないぞ!」


 ジャスパーの怒鳴り声が逃がすまいとし、ルキフェルの頭の中で反響する。荒い、本気だ。離す気がない。ルキフェルの視界が滲んで揺れていると、幾つもの足音がバタバタと慌ただしく近づいてきた。


「……っ、ルカ!」


 聞き慣れた声、荒い息。次の瞬間、別の影たちがルキフェルの視界に入り込んでしゃがんだ。


「無事かよ……!」

「意識飛んでない!?」

「……よかった……」


 声が幾重にも重なる。マテオ、コリン、ニール。三人の声がバラバラに飛び込んでくる。全員いる、誰も欠けていない。ルキフェルの中で生存の事実心に染み込んでくる。ルキフェルの肩を掴むジャスパーの腕が緩み、コリンがルキフェルの側でへたり込み、ニールが膝をついて顔を覆う。静寂が一瞬落ちた次の瞬間、誰かが息を吐いて崩れた。


「……はぁ……っ、よかった……! ほんとに……っ、よかった……!」


 マテオが声を震わせ、拳で目元を拭うとルキフェルの肩に頬擦りした。コリンも顔をぐしゃぐしゃにして、しゃくり上げる。


「もう、いやだよぉ……! もう、ほんとに……!」

「……情けないね、僕ら……」


 ニールは目頭を抑えながら微笑み、ジャスパーはルキフェルの背を支えたまま顔を逸らすが、肩は揺れていた。全員が崩れ、張り詰めていたものが限界を越えて泣いている。ルキフェルは目を瞬かせて掠れた声を漏らす。


「……おい、なんだよ……その反応……」


 自分が死にかけていることよりも、そっちが先に気になる。四人が一斉にルキフェルを見た。涙でぐしゃぐしゃの顔、息を詰まらせながら。マテオがぐしゃっと顔を歪めて半分怒鳴って半分泣く。


「お前が言うな……! 一番やべえの、お前だろうが!!」

「ほんとそれだよぉ……!」


 コリンが声を上げて喚くとニールも苦笑しながら頷く。


「状況理解してる?」

「……黙ってろ」


 ジャスパーが押し殺した声で囁くも、語尾が掠れている。ルキフェルはしばらく仲間の様子を眺めていた。涙、声、崩れた空気。……全員、生きてる。やっと実感が遅れて追いつき、深く胸の奥に落ちると力が抜けた。


「……そうか」


 足音がまた増える、今度は統制された音だ。複数、しかも速い。


「大元帥!!」


 アルフォンスの鋭い声が空気を裂く。


「アルフォンス、まずはここで止血処置を。それから、救急医療室だ」


 エリオットの的確な指示が飛んできた。声は疲れているはずなのに揺れない。空気の流れがすぐに広がり、紺色の服の隊員たちがアントワーヌを囲った。ジャスパーの囁き声がルキフェルの耳元で低く落ちる。


「……あれ、たぶん医者だ。もう少しの辛抱だぞ」


 ルキフェルが呼吸を繋いでいる時、重い足音がゆっくりと近づいてきて五人の前で止まった。


 ——エリオットだ。


 マテオとニールとコリンがおずおずと膝行して下がり、ジャスパーの背後に控える。エリオットがルキフェルの側に膝をつき、彼の瞳の色を覗き込んだ。ルキフェルの視界でぼやけていた輪郭が焦点を持つ。目の前の顔、疲れ切っている。それでも、どこか知っている顔だった。


 ——違う、同じだ。


 ルキフェルは思わず目を見張ると、不意に視界がクリアになって光が弾けた。



 まだ小さかった頃。夜の静かな部屋、低い声、言葉と視線。あの時の顔が今、目の前にある顔とゆっくり重なっていく。


 ——お前がいてくれるから、俺は戦える。



「あっ」


 ルキフェルの胸の奥がじんわりと熱くなり、視界がさらに鮮明になって顔が綻ぶ。


「……父さん」


 エリオットの瞳が大きく揺れて驚きで心臓が激しく動悸するも、ルキフェルの翡翠の瞳を見据えた。


「……ラウル……本当に……ラウルなんだな……」


 ジャスパーが自分の隣を視線で促し、エリオットが受け取るとジャスパーの隣に移動した。ジャスパーはルキフェルの背を支えていた腕をゆっくりと外す。エリオットがそっと手を伸ばしてルキフェルの肩に触れて引き寄せた。ルキフェルの意識がふっと揺れるも、息を吐いてエリオットに背を預け、ゆっくりと顔を上げた。すぐ近くにあるその顔を確かめるように見つめる。


「父さん……話したいことが、沢山あって……」


 エリオットは目を細めるとルキフェルの背を支える腕に力を込め、穏やかな声で囁く。


「……俺も。けど、今は休もう。これまでのことも……これから先のことも。——起きてから、考えような」


 朝の光が屋上の石畳を淡く照らし、血の跡を柔らかく浮かび上がらせる。潮風が夜の残り香を攫い、ルキフェルは背に伝わる温度を支えに沈んだ。視界の端で空が広がり、暗闇が解けて淡い光が滲んでいく。


 朝か。いつもなら、嫌いな時間だ。容赦なく、すべてを照らし出す光。

 隠してきたものも逃げてきたものも、影として生きてきた自分を突きつけてくる。

 だから、ずっと嫌いだった。けど、今は違う。光が目に痛くない、風が冷たくない。


 ルキフェルは息を吐いて瞬きをした。瞼の裏に朝の光が滲む。


 朝を嫌だと思わなかったのは、人生で初めてだ。



 ——物語は、第九巻へと続く。

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