⑤雇いいれ
ゴミを投げつけられた事件から数日後。
私は母メアリーにお願いして、彼女の元同僚である洗濯女たちのリーダー格、アンナという女性が住むアパートへと連れて行ってもらった。
そこは、私たちが住む場所よりもさらに日が当たらず、カビと腐敗臭が充満する劣悪な環境だった。
部屋の中には、ひどく痩せこけた数人の女性たちが身を寄せ合っている。彼女たちの手は、強い灰汁と冬の冷たい水に長年晒され続けたせいで、ボロボロにひび割れ、痛々しく赤く腫れ上がっていた。
「何の用だい、メアリー。私たちを笑いに来たのかい?」
アンナは、冷たい目で母を睨みつけた。彼女の足元には、お腹を空かせて泣いている小さな子供がしがみついている。
「いいご身分だね。自分だけ金持ちの奥様方に媚びを売って、変な粉を売りつけてボロ儲けしてるんだって? そのせいで、私たちが請け負っていた屋敷の洗濯の仕事が、先週から半分以下になっちまったんだよ!」
アンナの言葉に、他の女性たちも憎悪の籠もった視線を私たちに向けた。
「あんたのせいで、うちは明日のパンも買えないんだ! どうしてくれるんだい!」
「裏切り者! スラムの仲間を見捨てるなんて!」
母メアリーは顔面を蒼白にし、震える声で弁明しようとした。
「違うの、アンナ。私はそんなつもりじゃ……ただ、クロエが考えてくれたお粉が、少しでも家計の足しになればと思って……」
「言い訳なんか聞きたくないね! とっとと帰んな!」
アンナが乱暴に扉を閉めようとしたその瞬間、私は小さな身体を扉の隙間に滑り込ませた。
「ねえ、おばさんたち」
私は幼児特有の舌足らずな発音を捨て去り、静かで、冷たく響く声で彼女たちを見上げた。
「お母さんを恨んで、私たちの家に生ゴミを投げつけても、あなたたちの仕事は二度と戻ってこないわよ」
その年齢にそぐわない理知的な声と、すべてを見透かすような冷徹な瞳に、アンナたち大人の方が一瞬、気圧されたように息を呑んだ。
「な、なんだい、このガキは……」
「私はクロエ。あなたたちの仕事を奪った『白百合の清浄粉』を発明した、この商会の実質的な責任者よ」
私は、自分の三歳という年齢を最大限に利用した。大人は、論理的に話す子供に対して、無意識のうちに警戒心を解き、そして異常なほどの説得力を感じてしまうものだ。
「あなたたちが怒るのも無理はないわ。私たちのイノベーションが、あなたたちの既存の仕事を破壊してしまったのだから。でも、過去にしがみついて私たちを邪魔しても、一ペニーにもならない。それどころか、あなたたちの子供たちは飢えて死ぬだけよ」
私は、アンナの足元で泣いている子供を指差した。
「……っ! ガキの分際で、生意気なことを!」
アンナが怒りで顔を真っ赤にして手を振り上げようとした。母が悲鳴を上げて私を庇おうとするが、私は一歩も引かなかった。
「私と手を組まない?」
私のその一言に、振り上げられたアンナの腕がピタリと止まった。
「……は?」
「あなたたちを、私たちの商会の『専属の調合係』として雇いたいと言っているの」
私は、背中に隠し持っていた麻袋の中から、眩い光を放つ銀貨を取り出し、彼女たちの目の前の粗末なテーブルの上にチャリン、と置いた。
スラムの暗がりに、銀貨の冷たい輝きが落ちる。女性たちの目が、吸い寄せられるようにその硬貨に釘付けになった。
「今、私たちのお粉は、富裕層の間で飛ぶように売れているわ。お母さん一人で作る量では、もう全く生産が追いついていないの」
事実だった。フラー土(粘土)を石で砕く力仕事は夜に父がやっているが、砕いた粉にハーブの香りを定着させ、小さな袋に詰めていく緻密な作業は、母が一人で徹夜でこなしていた。
需要の爆発的な増加に対し、労働力の供給が完全にショートしかけていたのだ。
「だから、あなたたちにその作業を下請けとして手伝ってほしいのよ。仕事の内容は、乾燥させたハーブをすり潰して、粉と混ぜ合わせるだけ。氷のように冷たい水に手をつける必要もないし、強い灰汁で皮膚を溶かすこともないわ」
私は、彼女たちのボロボロにひび割れた赤い手を見つめた。
「あなたたちが今まで洗濯で稼いでいた一日の賃金。……その『二倍』の額を、毎日必ず日払いで約束するわ」
「さ、二倍……!?」
アンナの目が驚愕に見開かれ、他の女性たちも信じられないというように息を呑んだ。
当時の労働者階級の女性の賃金は、男性に比べて極めて低く抑えられており、一日中過酷な労働をしても、手に入るのはわずかな銅貨数枚に過ぎなかった。その三倍の額となれば、スラムの住人にとっては破格の高給である。
「でも、どうして……。私たちはあんたたちの家に生ゴミを投げたんだよ。それなのに、どうしてそんなに高いお金を払ってまで、私たちを雇うっていうんだい?」
アンナが、疑心暗鬼の入り交じった声で尋ねた。
前世の私なら、「労働力を市場価格より高く買い上げるのは愚かだ」と考えただろう。
だが、このスラムで生き抜くための経済学は違う。
「お母さんが、あなたたちを助けたいって言ったからよ」
私は、隣で呆然としている母メアリーの手をぎゅっと握った。
「お母さんは、昔、自分が病気で倒れそうになった時、あなたたちが自分のパンを分けて助けてくれた恩があるって言っていたわ。だから、私たちが豊かになるなら、一緒に泥水をすすってきた仲間も豊かにしたいんだって」
それは半分は真実であり、半分は私の冷徹な計算だった。
ここで彼女たちを安値で買いたたけば、いずれ不満が爆発し、製法を盗まれて粗悪なコピー品を市場に流されるリスクがある。
だが、「相場より遥かに高い賃金」と「恩情」を与えれば、彼女たちは私たちの商会に絶対の忠誠を誓う強固な防衛壁となる。
敵対していた勢力を、自らの資本と情によって「身内」へと取り込む。これこそが、資本主義における最も強力なリスクヘッジなのだ。
「メアリー……あんた……」
アンナの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は膝をつき、母の手を両手で握りしめて泣き崩れた。
「ごめんよ……っ! あんなひどい嫌がらせをして……本当に、ごめんよ……っ!」
「いいのよ、アンナ。私だって、みんなが苦しんでいるのに気づけなくてごめんなさい」
母も涙を流し、かつての同僚たちと抱き合った。
私はその光景を、冷たい満足感とともに行き届いた計算の結実として眺めていた。
(これで、最大のボトルネックだった生産能力の問題はクリアできた。しかも、スラムの女たちという絶対に裏切らない強固な労働力を、完全に私たちの傘下に収めることができたわ)
家内制手工業の規模は、この日を境に一気に拡大することになる。私の描く「資本の城」の第一の防壁が、見事に完成した瞬間だった。




