⑤嫌がらせ
ミセス・ハドソンという強力な顧客(広告塔)を獲得したことで、私たちの「白百合の清浄粉」は爆発的な口コミを生み出した。
富裕層のメイドたちのネットワークは、私の想像以上に強固だった。
水を使わずにワインの染みや煤汚れを落とし、さらには爽やかなハーブの香りを残す魔法のような粉の噂は、またたく間に王都ルンデニウムの高級住宅街を駆け巡ったのである。
毎日のように、母メアリーの元には新しい館のメイドたちから注文が舞い込むようになった。スラムのアパートの小さなテーブルには、日に日に銅貨や銀貨の山が高くなっていく。
初期資本の蓄積としては、これ以上ないほど順調な滑り出しだった。
しかし、ビジネスにおける「急激な成功」は、往々にして予期せぬ副作用をもたらす。
富裕層の館で私たちの清浄粉が使われるようになればなるほど、ある特定の層の人々が致命的な打撃を受けることになったのだ。
それは、私たちが最初の成功の美酒に酔いしれていた、ある冬の朝のことだった。
「キャッ……!」
朝早く、外の井戸へ水を汲みに出ようと扉を開けた母メアリーが、短い悲鳴を上げた。
「お母さん、どうしたの?」
私が駆け寄ると、開け放たれた扉の前の廊下には、目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。
腐りかけの野菜くず、動物の骨、さらには悪臭を放つ正体不明の汚物が、私たちの部屋のドアにべっとりと投げつけられていたのだ。
さらに、煤で真っ黒になった壁には、泥のようなもので「泥棒」「裏切り者」「出て行け」といった乱暴な文字が書き殴られていた。
当時のスラムは下水インフラが全く整備されておらず、ただでさえ通りには汚物が溢れ、息をするだけで肺が重くなるような環境である。
だが、これは明らかに意図的で、悪意に満ちた「攻撃」だった。
「ひどい……誰がこんなことを……」
母は震える手で口元を覆い、父アーサーも顔を強張らせていた。
「俺が夜勤でいない間に、一体何があったんだ。……メアリー、心当たりはあるか?」
「わからないわ。私、誰かに恨まれるようなことなんて……」
私は冷静に、投げつけられた生ゴミと、壁の落書きを観察した。
前世で企業間の熾烈なシェア争いを生き抜いてきた私の目には、この幼稚な嫌がらせが何を示しているのかが痛いほどよくわかっていた。
(……競合他社からの、物理的な妨害工作ね)
だが、相手は誰だ?
私たちのビジネスはまだ始まったばかりで、大規模な商人ギルドに目をつけられるほどの規模ではない。
第一、巨大なギルドの連中が、わざわざスラムのアパートに生ゴミを投げつけるような泥臭くて小規模な嫌がらせをするとは考えにくい。
もっと身近で、私たちの成功によって直接的な被害を受けている者。
そして、スラムという無法地帯のルールで動いている者たち。
「お母さん」
私は、怯える母のスカートの裾を軽く引いた。
「最近、お母さんがお屋敷に粉を売りに行った時、誰か知り合いに会ったりしなかった?」
「知り合い……? そういえば、二日前に裏通りで、昔一緒に洗濯の仕事をしていたアンナとすれ違ったわ。声をかけたのだけれど、彼女、ひどく怖い顔で私を睨みつけて、何も言わずに走り去ってしまって……」
(なるほど。点と点が繋がったわ)
私は内心で深く頷いた。
犯人は、巨大な商人ギルドでも、スラムのならず者でもない。
母メアリーの元同僚たち――富裕層の館から洗濯物を請け負って日銭を稼いでいる、スラムの「洗濯女」たちだ。
ヴィクトリア朝に似たこの時代、労働者階級の女性にとって、家計を支える手段は限られている。
工場での過酷な労働か、金持ちの家で下働きをするか、あるいは自宅で洗濯や裁縫などの内職を行うかだ。
特に洗濯代行は、多くの女性にとって数少ない収入源であった。
しかし、私たちが開発した「水を使わない清浄粉」が普及したことで、どうなったか。
富裕層のメイドたちは、重いカーテンやコートをわざわざスラムの洗濯女たちに外注する必要がなくなったのだ。
その場で粉を振りかけてブラシで払うだけで済むのだから、洗濯の外注費は劇的に削減される。
それはつまり、スラムの洗濯女たちからすれば、突然「仕事がゼロになった」ということを意味していた。彼女たちにとっての明日のパンが、私たち家族の成功によって奪い取られたのだ。
(資本主義の市場競争においては、イノベーションが既存の産業を駆逐するのは当然の摂理。……でも、ここは法治国家の市場じゃない。怨念が直接物理的な暴力に変わるスラムよ)
私は、壁に書かれた「裏切り者」という文字を見つめた。
ただの競争相手ではない。彼女たちは、かつて同じ底辺で泥水をすすっていたメアリーが、自分たちを出し抜いて独り勝ちしていることに、強烈な嫉妬と憎悪を抱いているのだ。
このまま放置すれば、生ゴミの投擲だけでは済まなくなる。家に火をつけられるか、あるいは母が夜道で襲われる危険すらあった。
「クロエ、どうしよう……。私たちが、誰かに恨まれているなんて」
母は震えながら、私が作った清浄粉の麻袋を抱きしめた。
「このお粉が売れることで、誰かが苦しんでいるのなら……私、もう売りに行かない方がいいのかもしれないわ」
(馬鹿なことを言わないで)
私は喉まで出かかった冷たい言葉を、必死に飲み込んだ。
ここでビジネスを止めるなど、前世の私からすれば言語道断の愚行だ。
競争に負けた弱者が淘汰されるのは自己責任であり、勝者がそれに同情して歩みを止める必要など微塵もない。
だが、今の私は三歳の子供であり、このビジネスを実行するためには母という「手足」が絶対に必要だ。彼女が罪悪感で動けなくなってしまえば、私の計画は完全に頓挫してしまう。
「大丈夫だよ、お母さん」
私は愛らしい笑顔を貼り付け、母の手を両手で包み込んだ。
「私が、お母さんのお友達とお話してあげる。きっと、何かの間違いだもん」
私は、このスラムの底辺でくすぶっている彼女たちの「憎悪」を、私のビジネスをさらに拡大するための「燃料」へと変換する、冷徹で完璧な懐柔策を頭の中で組み上げ始めていた。




