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天涯のリリィ  作者: 二親紀伊
出逢いであっても
9/10

古龍


1.


 世界が静止した。


 アレルの首筋から一筋の血が垂れる。魔獣の鎌は、既の所(すんでのところ)で止まった。


 短く漏れる吐息、激しく上下する胸、息をしようにも上手くできない。歯はがちがちと震え、目の前の鎌鼬は微動だにしない。生きているのに停止している。生きたまま停止している。


 アレルは尻餅をつき、その痛みでようやく自分が生きていることを知った。


「アレル様!!」


 デネブの声が遠くに聞こえる。いや、距離は近いのに遠い。アレルの意識は空に奪われていた。


「古龍……」


「早く止血を!」


 デネブらは失ったアレルの左腕の処置に入る。当のアレルは茫然と古龍に見入っていた。


 空を覆う巨影が、ゆっくりと身を沈めた。


 翼だと思ったのは、たぶん間違いではない。

 しかし、そう呼ぶにはあまりにも大きすぎた。羽ばたき一つで霊峰の雪を払えそうなほどのそれは、空に広げられている間、ただの夜のように見えた。


 夜が降りてくる。


 夜そのものを象った神話の生物。泰然と翼を畳み、宵闇がアレルらの前に降り立った。


 古龍の重さに、ウシュマ湖が揺れる。

 凍った湖面は軋み、悲鳴を上げた。


 しかし、そのほかには音がなかった。

 魔獣の声は、疾うに消えていた。


 黒とも青ともつかない鱗が、昼の光を鈍く返している。

 首筋から背にかけて、岩稜のような棘が並ぶ。角は古木の根を空へ伸ばしたように枝分かれし、その一本一本に雪が触れるたび、触れた雪だけが音もなく消えた。


 魔獣たちは動かない。


 島に取りついていたものも、湖面を渡ろうとしていたものも、祠の方へ群がっていたものも、すべてが同じ姿勢のまま止まっていた。


 逃げることすらできていない。


 アレルはそれを、妙に冷えた頭で理解した。


 恐怖には段階がある。

 逃げられる恐怖。

 叫べる恐怖。

 震えることしかできない恐怖。

 そして、それすら許されない恐怖。


 魔獣らは、赦されていなかった。


 古龍の金色の眼が開く。


 それだけで、鎌鼬の身体が崩れた。


 押し潰されたわけではない。焼かれたわけでも、斬られたわけでもない。

 ただ突然、塵とも呼べぬ粒子に成り果てて雪とともに融けた。


 デネブがアレルの肩を押さえる力を強める。


「噛め」


 布を口に押し込まれる。

 次の瞬間、痛みが遅れて来た。


「――ッ」


 声にならなかった。

 喉の奥で息だけが潰れる。左肩の奥に、熱い杭を打ち込まれたような痛みがあった。ないはずの指が、何かを握ろうとしている。ないはずの手が、まだあの少女を庇おうとしている。


 おかしなものだと思った。

 もう、ないのに。


「止血は」


「止まりきりません。傷口が大きすぎます」


「圧迫を続けろ。眠らせるな」


「アレル様、聞こえますか」


 聞こえている。

 そう返そうとしたが、口の中の布と痛みで声にはならない。


 代わりに、目を動かす。


 少女は、シダールの腕の中にいた。

 眠っている。

 血は見えない。

 シダールが首筋に指を当てている。わずかに頷いた。


 生きている。


 それだけ分かれば十分だった。


 古龍が息を吐く。


 突如、湖面は不吉に満ちた。


 岩壁に爪を立てていた蛇が剥がれ落ちる。

 雪豹が身を縮め、そのまま湖面へ滑る。

 翼を持つ魔獣は飛び立つこともできず、風を失った葉のように落ちた。


 戦いではなかった。


 古龍は、魔獣を相手にしているのではない。

 ただ、そこに在るだけで、魔獣たちの在り方を許していなかった。


「去れ」


 耳に届いたのか、頭の中に響いたのか分からない。

 だが、意味は分かった。


 魔獣たちが、一斉に動き出す。


 それは突撃ではなかった。逃走だった。

 牙も爪も、飢えも狂奔も、何もかも捨てて、ただ命だけを持ち帰ろうとする群れが、霊峰の森へ崩れていく。


 誰も追わなかった。

 追う必要がなかった。


 スタンピードは終わった。


 しかし、勝ったという感覚はなかった。


 残ったのは、雪と血と、満身創痍の人間たち、そして湖上に立つ古龍だけだった。



2.


 古龍が島を見下ろす。


 その眼が、祠に向いた。

 開かなかった石の扉。

 どれほどデネブが叩いても、触れても、祈っても、反応しなかった扉。


 古龍はそれをしばらく見ていた。


 何かを知っている目だった。


 デネブが膝をつく。

 続いてアルゴル、リゲルも頭を垂れた。シダールは少女を抱えたまま、片膝をつく。


 祈りではない。

 礼でもない。

 ただ、そうしなければならないと身体が判断したようだった。


「地上の子ら」


 古龍の声が響く。


 デネブが顔を上げた。


「お救い、感謝いたします」


「救ったのではない」


 古龍は短く返した。


 その言葉に、誰も返せなかった。


 救ったのではない。

 ならば、何なのか。


 問いはあったが、口にできる者はいない。


 古龍の眼が、アレルへ移る。


「その子か」


 デネブの肩がわずかに強張る。


「アレルガンド・ノートン。ジュネヴァ教教主一族、ノートン家の次男にございます」


「名はよい」


 古龍の視線が、アレルの左肩へ落ちた。


「繋がりは残っている」


 意味は分からなかった。


 デネブも分からなかったのだろう。わずかに眉を寄せる。

 だが、シダールの表情だけが変わった。


「……幻肢か」


 小さな声だった。


 古龍は答えない。

 首をわずかに傾ける。


 その動きに合わせ、首元の鱗が一枚、剥がれた。


 剥がれた、というより、渡されたのだと思った。

 黒青の鱗が雪の上に落ちる。大人の盾ほどもある。表面には細い金の筋が走り、呼吸するように淡く明滅していた。


 誰も触れない。


 触れてよいものか、分からなかった。


「その腕に使え」


 古龍が言った。


 デネブが息を呑む。

 アルゴルの目が見開かれる。

 リゲルは短槍を握ったまま、鱗を見ている。


 シダールだけが、長く息を吐いた。


「……過ぎた素材です」


「足りぬよりよい」


 古龍の返答は、それだけだった。


 アレルはぼんやりと鱗を見る。

 あれを腕に使う。

 そう言われても、まだ現実味はない。


 腕。


 自分の左腕はない。

 それなのに、指先が痛い。

 肘が疼く。

 手のひらが、まだ何かを掴もうとしている。


 失ったものの方が、失ったことを一番信じていないようだった。


 古龍の眼が、今度はシダールの腕の中へ向く。


 あの少女。


 シダールが反射的に抱え直す。

 守ろうとしたのではない。たぶん、ただ離したくなかっただけだ。


 古龍は咎めなかった。


「その娘を」


 声が低くなる。


「こちらへ」


 シダールは動かなかった。


 いや、動けなかった。

 古龍の命令に逆らうつもりはない。だが、腕の中の少女を差し出すという行為だけが、どうしてもすぐにはできなかった。


 デネブがシダールを見る。


「シダール」


「はい」


 短く返し、シダールは立ち上がる。


 少女は眠ったままだった。

 長い睫毛に雪が溜まっている。頬は白く、呼吸は細い。

 異世界から来た少女。

 御神渡りとともに現れ、スタンピードの中心にいて、それでも何も知らずに眠っている少女。


 シダールは、古龍の前まで歩いた。


 古龍の頭が下りてくる。

 祠よりも大きな頭が、少女のすぐ近くで止まった。


 金色の眼が細くなる。


「厄介なものを連れてきたな」


 その声を聞いた瞬間、アレルの意識が揺れた。


 厄介なもの。


 それが何を指しているのか、聞きたかった。

 少女のことなのか。

 彼女が連れてきた何かなのか。

 あるいは、もっと別のものなのか。


 だが、身体はもう限界だった。


 雪が降っている。

 白い雪が、赤い雪の上に積もっていく。


 古龍の金色の眼だけが、最後まで見えていた。


 アレルの意識は、そこで途切れた。

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