古龍
1.
世界が静止した。
アレルの首筋から一筋の血が垂れる。魔獣の鎌は、既の所で止まった。
短く漏れる吐息、激しく上下する胸、息をしようにも上手くできない。歯はがちがちと震え、目の前の鎌鼬は微動だにしない。生きているのに停止している。生きたまま停止している。
アレルは尻餅をつき、その痛みでようやく自分が生きていることを知った。
「アレル様!!」
デネブの声が遠くに聞こえる。いや、距離は近いのに遠い。アレルの意識は空に奪われていた。
「古龍……」
「早く止血を!」
デネブらは失ったアレルの左腕の処置に入る。当のアレルは茫然と古龍に見入っていた。
空を覆う巨影が、ゆっくりと身を沈めた。
翼だと思ったのは、たぶん間違いではない。
しかし、そう呼ぶにはあまりにも大きすぎた。羽ばたき一つで霊峰の雪を払えそうなほどのそれは、空に広げられている間、ただの夜のように見えた。
夜が降りてくる。
夜そのものを象った神話の生物。泰然と翼を畳み、宵闇がアレルらの前に降り立った。
古龍の重さに、ウシュマ湖が揺れる。
凍った湖面は軋み、悲鳴を上げた。
しかし、そのほかには音がなかった。
魔獣の声は、疾うに消えていた。
黒とも青ともつかない鱗が、昼の光を鈍く返している。
首筋から背にかけて、岩稜のような棘が並ぶ。角は古木の根を空へ伸ばしたように枝分かれし、その一本一本に雪が触れるたび、触れた雪だけが音もなく消えた。
魔獣たちは動かない。
島に取りついていたものも、湖面を渡ろうとしていたものも、祠の方へ群がっていたものも、すべてが同じ姿勢のまま止まっていた。
逃げることすらできていない。
アレルはそれを、妙に冷えた頭で理解した。
恐怖には段階がある。
逃げられる恐怖。
叫べる恐怖。
震えることしかできない恐怖。
そして、それすら許されない恐怖。
魔獣らは、赦されていなかった。
古龍の金色の眼が開く。
それだけで、鎌鼬の身体が崩れた。
押し潰されたわけではない。焼かれたわけでも、斬られたわけでもない。
ただ突然、塵とも呼べぬ粒子に成り果てて雪とともに融けた。
デネブがアレルの肩を押さえる力を強める。
「噛め」
布を口に押し込まれる。
次の瞬間、痛みが遅れて来た。
「――ッ」
声にならなかった。
喉の奥で息だけが潰れる。左肩の奥に、熱い杭を打ち込まれたような痛みがあった。ないはずの指が、何かを握ろうとしている。ないはずの手が、まだあの少女を庇おうとしている。
おかしなものだと思った。
もう、ないのに。
「止血は」
「止まりきりません。傷口が大きすぎます」
「圧迫を続けろ。眠らせるな」
「アレル様、聞こえますか」
聞こえている。
そう返そうとしたが、口の中の布と痛みで声にはならない。
代わりに、目を動かす。
少女は、シダールの腕の中にいた。
眠っている。
血は見えない。
シダールが首筋に指を当てている。わずかに頷いた。
生きている。
それだけ分かれば十分だった。
古龍が息を吐く。
突如、湖面は不吉に満ちた。
岩壁に爪を立てていた蛇が剥がれ落ちる。
雪豹が身を縮め、そのまま湖面へ滑る。
翼を持つ魔獣は飛び立つこともできず、風を失った葉のように落ちた。
戦いではなかった。
古龍は、魔獣を相手にしているのではない。
ただ、そこに在るだけで、魔獣たちの在り方を許していなかった。
「去れ」
耳に届いたのか、頭の中に響いたのか分からない。
だが、意味は分かった。
魔獣たちが、一斉に動き出す。
それは突撃ではなかった。逃走だった。
牙も爪も、飢えも狂奔も、何もかも捨てて、ただ命だけを持ち帰ろうとする群れが、霊峰の森へ崩れていく。
誰も追わなかった。
追う必要がなかった。
スタンピードは終わった。
しかし、勝ったという感覚はなかった。
残ったのは、雪と血と、満身創痍の人間たち、そして湖上に立つ古龍だけだった。
2.
古龍が島を見下ろす。
その眼が、祠に向いた。
開かなかった石の扉。
どれほどデネブが叩いても、触れても、祈っても、反応しなかった扉。
古龍はそれをしばらく見ていた。
何かを知っている目だった。
デネブが膝をつく。
続いてアルゴル、リゲルも頭を垂れた。シダールは少女を抱えたまま、片膝をつく。
祈りではない。
礼でもない。
ただ、そうしなければならないと身体が判断したようだった。
「地上の子ら」
古龍の声が響く。
デネブが顔を上げた。
「お救い、感謝いたします」
「救ったのではない」
古龍は短く返した。
その言葉に、誰も返せなかった。
救ったのではない。
ならば、何なのか。
問いはあったが、口にできる者はいない。
古龍の眼が、アレルへ移る。
「その子か」
デネブの肩がわずかに強張る。
「アレルガンド・ノートン。ジュネヴァ教教主一族、ノートン家の次男にございます」
「名はよい」
古龍の視線が、アレルの左肩へ落ちた。
「繋がりは残っている」
意味は分からなかった。
デネブも分からなかったのだろう。わずかに眉を寄せる。
だが、シダールの表情だけが変わった。
「……幻肢か」
小さな声だった。
古龍は答えない。
首をわずかに傾ける。
その動きに合わせ、首元の鱗が一枚、剥がれた。
剥がれた、というより、渡されたのだと思った。
黒青の鱗が雪の上に落ちる。大人の盾ほどもある。表面には細い金の筋が走り、呼吸するように淡く明滅していた。
誰も触れない。
触れてよいものか、分からなかった。
「その腕に使え」
古龍が言った。
デネブが息を呑む。
アルゴルの目が見開かれる。
リゲルは短槍を握ったまま、鱗を見ている。
シダールだけが、長く息を吐いた。
「……過ぎた素材です」
「足りぬよりよい」
古龍の返答は、それだけだった。
アレルはぼんやりと鱗を見る。
あれを腕に使う。
そう言われても、まだ現実味はない。
腕。
自分の左腕はない。
それなのに、指先が痛い。
肘が疼く。
手のひらが、まだ何かを掴もうとしている。
失ったものの方が、失ったことを一番信じていないようだった。
古龍の眼が、今度はシダールの腕の中へ向く。
あの少女。
シダールが反射的に抱え直す。
守ろうとしたのではない。たぶん、ただ離したくなかっただけだ。
古龍は咎めなかった。
「その娘を」
声が低くなる。
「こちらへ」
シダールは動かなかった。
いや、動けなかった。
古龍の命令に逆らうつもりはない。だが、腕の中の少女を差し出すという行為だけが、どうしてもすぐにはできなかった。
デネブがシダールを見る。
「シダール」
「はい」
短く返し、シダールは立ち上がる。
少女は眠ったままだった。
長い睫毛に雪が溜まっている。頬は白く、呼吸は細い。
異世界から来た少女。
御神渡りとともに現れ、スタンピードの中心にいて、それでも何も知らずに眠っている少女。
シダールは、古龍の前まで歩いた。
古龍の頭が下りてくる。
祠よりも大きな頭が、少女のすぐ近くで止まった。
金色の眼が細くなる。
「厄介なものを連れてきたな」
その声を聞いた瞬間、アレルの意識が揺れた。
厄介なもの。
それが何を指しているのか、聞きたかった。
少女のことなのか。
彼女が連れてきた何かなのか。
あるいは、もっと別のものなのか。
だが、身体はもう限界だった。
雪が降っている。
白い雪が、赤い雪の上に積もっていく。
古龍の金色の眼だけが、最後まで見えていた。
アレルの意識は、そこで途切れた。




