タイトル未定2026/06/13 20:39
1.
アレルの意識がここで途切れた。
デネブはそれを一瞥し呟く。
「限界か」
アレルの左肩に巻かれた布は、すでに赤く染まりきっている。
圧迫している。
止血もしている。
為すべきことは為した。
だが、失われたものは戻らない。
その事実だけが、冷たい現実がそこにあった。
シダールは、少女を抱えたまま古龍の前に立っていた。
いやに静かだった。
魔獣の咆哮も、先ほどまでの戦闘が嘘のように今は息を潜めている。
誰も声を発せずにいた。
古龍が降臨した。
その事実を誰も受け止めきれずにいる。
そんな人間を等閑に付すように悠然と古龍が少女を見やる。
あまりにも小さい少女。
この地に降りた災厄と呼ぶには細く、魔獣を呼び寄せる何かと呼ぶには白く、ただ行き場を失った子供にしか見えない。
古龍の金色の眼が、わずかに細まる。
「異界を渡ったか」
それは問いではなかった。
シダールは答えない。
答えられる者などいなかった。
御神渡り。
氷上に刻まれた神の道。
その上に現れた少女。
それだけを見た。
それだけしか知らない。
「この娘に、魔王の因子が取り憑いている」
空気が変わった。
デネブの手が一瞬だけ止まる。
すぐにアレルの肩へ戻したが、その一瞬を隠すことはできなかった。
アルゴルが低く息を吸う。
リゲルの視線が少女へ向く。
シダールは、腕の中の少女を抱えたまま動かなかった。
魔王。
その言葉は、人の世において最も古い恐怖の一つだった。
災厄。
滅び。
英雄に討たれるべきもの。
誰も、その正体を知らない。
ただ、そういうものとして語り継いできた。
「この子が、魔王だと」
デネブが絞り出すように言った。
「今は違う」
古龍は即座に返した。
「今は、まだ娘だ」
まだ。
その一語が、雪よりも重く落ちた。
シダールの腕に力が入る。
少女の身体は軽い。軽すぎる。
この軽さの中に、人の世が恐れるものがあるなど、信じる方が難しかった。
「因子は、異界を渡る娘に取り憑いた。放っておけば、いずれ娘を喰う」
「……喰う、とは」
「娘でなくなる」
古龍の声には、揺らぎがなかった。
だからこそ、誰も疑えなかった。
疑うだけの知識を、人間は持っていない。
魔王とは何か。
魔王因子とは何か。
異界を渡った者にそれが取り憑くとは、どういうことか。
分からない。
分からないから、受け取るしかなかった。
デネブが問う。
「殺せば、止まるのですか」
言った瞬間、シダールがデネブを見た。
責める目ではない。
必要な問いだと分かっている。
分かっているからこそ、胸が悪くなる。
古龍の眼が、デネブに向く。
「知らぬものを壊して、何が起こると思う」
デネブは口を閉ざした。
「器を壊せば、因子も消えるか。あるいは、縛るものを失い、地へ散るか。お前たちに分かるか」
「……分かりません」
「ならば、殺すな」
短い言葉だった。
命令だった。
救いにも聞こえた。
脅しにも聞こえた。
2.
古龍は、少女へ爪を伸ばした。
シダールが一瞬だけ身構える。
だが、その爪は少女を傷つけなかった。
額に触れるか触れないかの距離で止まる。
夜のような爪先から、細い光が落ちた。
金ではない。
白でもない。
星の沈んだ湖底で、かすかに揺れる光のようだった。
少女の胸元が、小さく震える。
呼吸が乱れた。
眉が寄る。
夢の中で痛みを感じているように、少女の指先が微かに動く。
シダールはそれを見下ろす。
小さな手だった。
血も土も知らなかったような手。
その手が、見知らぬ世界で震えている。
「封じる」
古龍が言った。
「止められるのですか」
リゲルが問う。
「遅らせる」
古龍は答えた。
「止めるのではない。遅らせるだけだ」
誰も息をしなかった。
遅らせる。
それは、救いではない。
猶予だった。
だが、猶予があるということは、今すぐ終わらないということでもある。
少女の胸元に、細い紋が浮かんだ。
花ではない。
文字でもない。
罅のようにも、星図のようにも見えた。
それは一瞬だけ光り、すぐに肌の奥へ沈んでいく。
消えたようで、消えてはいない。
見えなくなっただけだと、そこにいた者たちは理解した。
少女の呼吸が落ち着く。
シダールは、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。
「これで、しばらくは娘のままだ」
古龍が言う。
「しばらく、ですか」
デネブの声は低かった。
「お前たちの一生より短いかもしれぬ。長いかもしれぬ」
「それでは、あまりにも曖昧です」
「魔王とは曖昧なものだ」
古龍は、湖面の向こうを見る。
「名を与え、形を与え、恐れを与えたのは人だ。だが、人はその中身を知らぬ」
デネブは黙った。
その通りだった。
魔王を恐れてきた。
英雄を称えてきた。
神話を語り、子供に聞かせ、祈りの中で何度もその名を唱えてきた。
それでも、人は魔王を知らない。
知らないものを恐れている。
今、その知らないものの一端が、眠る少女の胸の奥に封じられた。
「このことは、上へ伝えよ」
古龍が言った。
「ジュネヴァの家へ。王へ。六つの教会へ」
デネブが顔を上げる。
「広めよ、ということですか」
「違う」
古龍の声が、わずかに低くなる。
「広めれば、人は恐れで娘を殺す。あるいは、欲で囲う。どちらも愚かだ」
誰も反論しなかった。
反論できるほど、人間を信じきれる者はいなかった。
「知るべき者だけが知れ。知らぬ者には、ただ異界より来た娘と伝えよ」
「それで済むでしょうか」
「済ませろ」
古龍の眼が、デネブを射抜いた。
「それが、お前たちの役目だ」
デネブは頭を垂れた。
「承知いたしました」
言葉は静かだった。
だが、その背に乗ったものは軽くない。
アレルの止血。
少女の保護。
古龍の鱗。
魔王因子。
封印。
報告。
秘匿。
たった一度のスタンピードで、抱えきれないほどのものが積み上がっている。
それでも、持ち帰らなければならない。
人間はそうやって、いつも後から重さを知る。
3.
古龍の眼が、再びアレルへ向いた。
アレルは意識を失っている。
雪の上に横たえられ、左肩に布を巻かれ、荒い呼吸を繰り返している。
その顔は、年相応に幼かった。
左腕を失った者の顔ではない。
英雄の顔でもない。
ただ、痛みに耐えきれず眠った子供の顔だった。
「その子も、まだ死なぬ」
古龍が言った。
デネブは顔を上げた。
「本当でございますか」
「今は」
その答えに、デネブはわずかに息を詰める。
今は。
今日この場では死なない。
それ以上の保証ではない。
だが、今は、それで十分だった。
十分であると思うしかなかった。
「鱗は、腕に使え」
古龍は続けた。
「他には使うな」
「はい」
デネブが答える。
「その左は、失われたまま繋がっている。だから、繋げられる」
シダールが、アレルを見る。
幻肢。
失われたはずの部位を、脳がまだ身体として覚えている感覚。
欠損者ならば知っている。
義肢を使う者ならば、なおさら知っている。
失ったものは、すぐには失われない。
人の身体は、時に現実より遅れる。
「古龍の鱗など、職人が扱えるでしょうか」
リゲルが言った。
「扱えねば、扱えるようにしろ」
古龍は淡々としていた。
無茶な話だった。
だが、古龍が言うと、無茶ではなく決定になる。
デネブは鱗を見る。
大人の盾ほどもある鱗。
雪の上に置かれているにもかかわらず、雪が触れた場所だけ融けていない。
むしろ、雪が鱗に触れることを避けているようにすら見えた。
これを、腕に。
左腕を失った少年のために。
理由は分からない。
だが、古龍はそう命じた。
「祠は」
デネブは、思わず問うていた。
古龍の眼が動く。
「祠が開かなかった理由を、あなたはご存知なのですか」
島の空気が固くなる。
祠。
最後の逃げ道。
開くはずの場所。
ジュネヴァの名のもとに、聖地とつながるはずだった石の扉。
それが開かなかった。
そのせいで、彼らは逃げ場を失った。
そのせいで、アレルは左腕を失った。
デネブの声には、責めが混じっていた。
本人も、それを自覚していた。
古龍は、しばらく何も言わなかった。
沈黙だけで、人の問いを押し潰すようだった。
「今、知ることではない」
やがて古龍はそう言った。
「では、いつ」
「辿り着いた時だ」
意味は分からない。
だが、それ以上を問うことはできなかった。
古龍は、もう答える気がなかった。
4.
空の色が戻り始めていた。
古龍がそこにいる間、昼の光はどこか遠かった。
湖面も雪も、すべて夜の内側に置かれていたようだった。
その夜が、わずかに薄れる。
古龍が翼を広げた。
音はなかった。
あれほど巨大な翼が空を覆うのに、風すら遅れている。
デネブたちは頭を垂れる。
シダールは少女を抱え直した。
アルゴルはアレルの身体を支える。
リゲルは鱗を見て、どう運ぶべきかを考えている。
考えることが、あまりにも多かった。
古龍は、飛び去る寸前に一度だけ振り返った。
「娘を、娘として扱え」
誰に向けた言葉だったのか分からない。
シダールへか。
デネブへか。
眠るアレルへか。
あるいは、この場にいる人間すべてへか。
「因子を見れば、娘を見失う」
そう言い残し、古龍は空へ昇った。
夜が、空へ還っていく。
翼が雪雲を押し分ける。
宵闇のような巨体は、白い霊峰の空へ溶けていった。
やがて、何も見えなくなる。
残されたのは、人間だけだった。
血を流す少年。
眠る異界の少女。
古龍の鱗。
開かなかった祠。
そして、誰にも扱い方の分からない言葉。
魔王因子。
デネブは、赤く染まった手を見た。
それから、アレルを見る。
少女を見る。
古龍の鱗を見る。
「戻るぞ」
声は、かすれていた。
「この場に長くいるべきではない」
誰も反対しなかった。
アルゴルがアレルを背負う。
リゲルが鱗を布で包む。
シダールは少女を抱いたまま立ち上がる。
氷の上には、無数の魔獣の跡が残っていた。
しかし、魔獣の死骸はほとんどない。
古龍が赦さなかったものは、雪とともに消えていた。
デネブは最後に一度だけ祠を見た。
石の扉は、沈黙している。
まるで最初から何も起こらなかったかのように。
だが、何も起こらなかったわけではない。
少年は腕を失った。
少女には魔王因子が封じられた。
古龍は鱗を渡した。
そして彼らは、真実とも嘘とも分からぬ言葉を持ち帰ることになった。
雪はまだ降っていた。
白いものが、赤いものも、黒いものも、すべて覆い隠そうとしていた。




