表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天涯のリリィ  作者: 二親紀伊
出逢いであっても
10/10

タイトル未定2026/06/13 20:39


1.


 アレルの意識がここで途切れた。

 デネブはそれを一瞥し呟く。


「限界か」


 アレルの左肩に巻かれた布は、すでに赤く染まりきっている。


 圧迫している。

 止血もしている。

 為すべきことは為した。

 だが、失われたものは戻らない。


 その事実だけが、冷たい現実がそこにあった。


 シダールは、少女を抱えたまま古龍の前に立っていた。

 

 いやに静かだった。

 魔獣の咆哮も、先ほどまでの戦闘が嘘のように今は息を潜めている。

 誰も声を発せずにいた。


 古龍が降臨した。

 その事実を誰も受け止めきれずにいる。

 そんな人間を等閑に付すように悠然と古龍が少女を見やる。


 あまりにも小さい少女。

 この地に降りた災厄と呼ぶには細く、魔獣を呼び寄せる何かと呼ぶには白く、ただ行き場を失った子供にしか見えない。


 古龍の金色の眼が、わずかに細まる。


「異界を渡ったか」


 それは問いではなかった。


 シダールは答えない。

 答えられる者などいなかった。


 御神渡り。

 氷上に刻まれた神の道。

 その上に現れた少女。


 それだけを見た。

 それだけしか知らない。


「この娘に、魔王の因子が取り憑いている」


 空気が変わった。


 デネブの手が一瞬だけ止まる。

 すぐにアレルの肩へ戻したが、その一瞬を隠すことはできなかった。


 アルゴルが低く息を吸う。

 リゲルの視線が少女へ向く。

 シダールは、腕の中の少女を抱えたまま動かなかった。


 魔王。


 その言葉は、人の世において最も古い恐怖の一つだった。


 災厄。

 滅び。

 英雄に討たれるべきもの。


 誰も、その正体を知らない。

 ただ、そういうものとして語り継いできた。


「この子が、魔王だと」


 デネブが絞り出すように言った。


「今は違う」


 古龍は即座に返した。


「今は、まだ娘だ」


 まだ。


 その一語が、雪よりも重く落ちた。


 シダールの腕に力が入る。

 少女の身体は軽い。軽すぎる。

 この軽さの中に、人の世が恐れるものがあるなど、信じる方が難しかった。


「因子は、異界を渡る娘に取り憑いた。放っておけば、いずれ娘を喰う」


「……喰う、とは」


「娘でなくなる」


 古龍の声には、揺らぎがなかった。


 だからこそ、誰も疑えなかった。


 疑うだけの知識を、人間は持っていない。


 魔王とは何か。

 魔王因子とは何か。

 異界を渡った者にそれが取り憑くとは、どういうことか。


 分からない。


 分からないから、受け取るしかなかった。


 デネブが問う。


「殺せば、止まるのですか」


 言った瞬間、シダールがデネブを見た。


 責める目ではない。

 必要な問いだと分かっている。

 分かっているからこそ、胸が悪くなる。


 古龍の眼が、デネブに向く。


「知らぬものを壊して、何が起こると思う」


 デネブは口を閉ざした。


「器を壊せば、因子も消えるか。あるいは、縛るものを失い、地へ散るか。お前たちに分かるか」


「……分かりません」


「ならば、殺すな」


 短い言葉だった。


 命令だった。


 救いにも聞こえた。

 脅しにも聞こえた。



2.


 古龍は、少女へ爪を伸ばした。


 シダールが一瞬だけ身構える。

 だが、その爪は少女を傷つけなかった。


 額に触れるか触れないかの距離で止まる。


 夜のような爪先から、細い光が落ちた。


 金ではない。

 白でもない。

 星の沈んだ湖底で、かすかに揺れる光のようだった。


 少女の胸元が、小さく震える。


 呼吸が乱れた。

 眉が寄る。

 夢の中で痛みを感じているように、少女の指先が微かに動く。


 シダールはそれを見下ろす。


 小さな手だった。

 血も土も知らなかったような手。

 その手が、見知らぬ世界で震えている。


「封じる」


 古龍が言った。


「止められるのですか」


 リゲルが問う。


「遅らせる」


 古龍は答えた。


「止めるのではない。遅らせるだけだ」


 誰も息をしなかった。


 遅らせる。


 それは、救いではない。

 猶予だった。


 だが、猶予があるということは、今すぐ終わらないということでもある。


 少女の胸元に、細い紋が浮かんだ。


 花ではない。

 文字でもない。

 罅のようにも、星図のようにも見えた。


 それは一瞬だけ光り、すぐに肌の奥へ沈んでいく。


 消えたようで、消えてはいない。

 見えなくなっただけだと、そこにいた者たちは理解した。


 少女の呼吸が落ち着く。


 シダールは、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。


「これで、しばらくは娘のままだ」


 古龍が言う。


「しばらく、ですか」


 デネブの声は低かった。


「お前たちの一生より短いかもしれぬ。長いかもしれぬ」


「それでは、あまりにも曖昧です」


「魔王とは曖昧なものだ」


 古龍は、湖面の向こうを見る。


「名を与え、形を与え、恐れを与えたのは人だ。だが、人はその中身を知らぬ」


 デネブは黙った。


 その通りだった。


 魔王を恐れてきた。

 英雄を称えてきた。

 神話を語り、子供に聞かせ、祈りの中で何度もその名を唱えてきた。


 それでも、人は魔王を知らない。


 知らないものを恐れている。


 今、その知らないものの一端が、眠る少女の胸の奥に封じられた。


「このことは、上へ伝えよ」


 古龍が言った。


「ジュネヴァの家へ。王へ。六つの教会へ」


 デネブが顔を上げる。


「広めよ、ということですか」


「違う」


 古龍の声が、わずかに低くなる。


「広めれば、人は恐れで娘を殺す。あるいは、欲で囲う。どちらも愚かだ」


 誰も反論しなかった。

 反論できるほど、人間を信じきれる者はいなかった。


「知るべき者だけが知れ。知らぬ者には、ただ異界より来た娘と伝えよ」


「それで済むでしょうか」


「済ませろ」


 古龍の眼が、デネブを射抜いた。


「それが、お前たちの役目だ」


 デネブは頭を垂れた。


「承知いたしました」


 言葉は静かだった。

 だが、その背に乗ったものは軽くない。


 アレルの止血。

 少女の保護。

 古龍の鱗。

 魔王因子。

 封印。

 報告。

 秘匿。


 たった一度のスタンピードで、抱えきれないほどのものが積み上がっている。


 それでも、持ち帰らなければならない。


 人間はそうやって、いつも後から重さを知る。



3.


 古龍の眼が、再びアレルへ向いた。


 アレルは意識を失っている。

 雪の上に横たえられ、左肩に布を巻かれ、荒い呼吸を繰り返している。


 その顔は、年相応に幼かった。


 左腕を失った者の顔ではない。

 英雄の顔でもない。

 ただ、痛みに耐えきれず眠った子供の顔だった。


「その子も、まだ死なぬ」


 古龍が言った。


 デネブは顔を上げた。


「本当でございますか」


「今は」


 その答えに、デネブはわずかに息を詰める。


 今は。


 今日この場では死なない。

 それ以上の保証ではない。


 だが、今は、それで十分だった。

 十分であると思うしかなかった。


「鱗は、腕に使え」


 古龍は続けた。


「他には使うな」


「はい」


 デネブが答える。


「その左は、失われたまま繋がっている。だから、繋げられる」


 シダールが、アレルを見る。


 幻肢。


 失われたはずの部位を、脳がまだ身体として覚えている感覚。

 欠損者ならば知っている。

 義肢を使う者ならば、なおさら知っている。


 失ったものは、すぐには失われない。


 人の身体は、時に現実より遅れる。


「古龍の鱗など、職人が扱えるでしょうか」


 リゲルが言った。


「扱えねば、扱えるようにしろ」


 古龍は淡々としていた。


 無茶な話だった。

 だが、古龍が言うと、無茶ではなく決定になる。


 デネブは鱗を見る。


 大人の盾ほどもある鱗。

 雪の上に置かれているにもかかわらず、雪が触れた場所だけ融けていない。

 むしろ、雪が鱗に触れることを避けているようにすら見えた。


 これを、腕に。


 左腕を失った少年のために。


 理由は分からない。

 だが、古龍はそう命じた。


「祠は」


 デネブは、思わず問うていた。


 古龍の眼が動く。


「祠が開かなかった理由を、あなたはご存知なのですか」


 島の空気が固くなる。


 祠。

 最後の逃げ道。

 開くはずの場所。

 ジュネヴァの名のもとに、聖地とつながるはずだった石の扉。


 それが開かなかった。


 そのせいで、彼らは逃げ場を失った。

 そのせいで、アレルは左腕を失った。


 デネブの声には、責めが混じっていた。

 本人も、それを自覚していた。


 古龍は、しばらく何も言わなかった。


 沈黙だけで、人の問いを押し潰すようだった。


「今、知ることではない」


 やがて古龍はそう言った。


「では、いつ」


「辿り着いた時だ」


 意味は分からない。


 だが、それ以上を問うことはできなかった。


 古龍は、もう答える気がなかった。



4.


 空の色が戻り始めていた。


 古龍がそこにいる間、昼の光はどこか遠かった。

 湖面も雪も、すべて夜の内側に置かれていたようだった。


 その夜が、わずかに薄れる。


 古龍が翼を広げた。


 音はなかった。

 あれほど巨大な翼が空を覆うのに、風すら遅れている。


 デネブたちは頭を垂れる。

 シダールは少女を抱え直した。

 アルゴルはアレルの身体を支える。

 リゲルは鱗を見て、どう運ぶべきかを考えている。


 考えることが、あまりにも多かった。


 古龍は、飛び去る寸前に一度だけ振り返った。


「娘を、娘として扱え」


 誰に向けた言葉だったのか分からない。


 シダールへか。

 デネブへか。

 眠るアレルへか。

 あるいは、この場にいる人間すべてへか。


「因子を見れば、娘を見失う」


 そう言い残し、古龍は空へ昇った。


 夜が、空へ還っていく。


 翼が雪雲を押し分ける。

 宵闇のような巨体は、白い霊峰の空へ溶けていった。


 やがて、何も見えなくなる。


 残されたのは、人間だけだった。


 血を流す少年。

 眠る異界の少女。

 古龍の鱗。

 開かなかった祠。

 そして、誰にも扱い方の分からない言葉。


 魔王因子。


 デネブは、赤く染まった手を見た。


 それから、アレルを見る。

 少女を見る。

 古龍の鱗を見る。


「戻るぞ」


 声は、かすれていた。


「この場に長くいるべきではない」


 誰も反対しなかった。


 アルゴルがアレルを背負う。

 リゲルが鱗を布で包む。

 シダールは少女を抱いたまま立ち上がる。


 氷の上には、無数の魔獣の跡が残っていた。

 しかし、魔獣の死骸はほとんどない。


 古龍が赦さなかったものは、雪とともに消えていた。


 デネブは最後に一度だけ祠を見た。


 石の扉は、沈黙している。


 まるで最初から何も起こらなかったかのように。


 だが、何も起こらなかったわけではない。


 少年は腕を失った。

 少女には魔王因子が封じられた。

 古龍は鱗を渡した。


 そして彼らは、真実とも嘘とも分からぬ言葉を持ち帰ることになった。


 雪はまだ降っていた。


 白いものが、赤いものも、黒いものも、すべて覆い隠そうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ