第三百五十七話 秋風に交わる木刀
祐兵さんと豊久くん 登場人物紹介
祐兵さん…伊東祐兵。紆余曲折を経て、飫肥藩初代藩主になった。知略に優れ、学問を愛する。
豊久くん…島津豊久。島津氏家臣で、島津家久の息子。武芸一筋で、まっすぐな心を持つ。
小春と黒猫…二人の飼い猫
十月の朝。
館の庭には、冷たく澄んだ風が吹いていた。
祐兵と豊久は
朝餉を済ませると、木刀を手に庭へ出た。
先日の実践的な鍛錬が、二人の心に残っていた。
互いの動きを読み、攻めと守りを繰り返す稽古は
普段の素振りとは違う面白さがあった。
「祐兵殿。今日は、少し趣向を変えてみませんか」
豊久が木刀を肩に担ぎながら言った。
「どのようにするのだ」
「今日は鍛錬ではなく、勝負をいたしましょう。互いに遠慮はなし。ただし、木刀でございますから、寸止めの約束は守る」
祐兵は豊久の顔を見た。
「なるほど。勝敗を決めるというわけか」
「はい。祐兵殿のお力を、存分に見せていただきたい」
「よかろう。私も豊久殿の腕前を確かめたいと思っていた」
二人は庭の中央に進み出た。
小春と黒猫は、縁側の端に並んで座った。
いつもなら二人の足元を行き来する小春も
今日は何かを察したのか、静かに様子を見ている。
豊久は木刀を両手で握り、ゆっくりと構えた。
祐兵も構える。
互いの視線が交わった。
先ほどまでの和やかな空気は消え、庭には張り詰めた静けさが広がった。
「では、参ります」
豊久が一歩踏み込んだ。
鋭い一撃が祐兵の肩口へ迫る。
祐兵は木刀を斜めに当て、力を受け流した。
すぐさま横へ踏み込み、豊久の脇を狙う。
だが、豊久はそれを読んでいた。
身体をひねってかわし、返す木刀を祐兵の胴へ走らせる。
祐兵は半歩退いた。
木刀の先が、衣のすぐ手前で止まる。
「危ないところでしたな」
「豊久殿の返しが速かった」
二人は一度、間合いを取り直した。
豊久の表情から笑みが消えている。
祐兵もまた、相手の構えから目を離さなかった。
次の瞬間、豊久が再び踏み込んだ。
今度は正面からの打ち込みではない。
低く構えた木刀を途中で持ち上げ、祐兵の受けを誘う。
祐兵は誘いに乗らず、足を止めた。
豊久の動きがわずかに乱れる。
その一瞬を逃さず、祐兵が踏み込んだ。
木刀が豊久の肩口へ伸びる。
しかし、豊久は身体を沈めてかわした。
すぐさま祐兵の懐へ入り込もうとする。
「そこだ!」
豊久の木刀が横から迫った。
祐兵は木刀を立てて受けた。
乾いた音が庭に響く。
互いの木刀が交差したまま、二人の動きが止まった。
力を込めれば、相手を押し切れるかもしれない。
だが、どちらも無理に力を使おうとはしなかった。
先に動いたのは祐兵だった。
わずかに木刀の角度を変え、豊久の力を外へ逃がす。
豊久の身体が傾いた。
祐兵はその隙に木刀を引き、相手の胸元へ向けた。
しかし、豊久はすぐに体勢を立て直し
木刀を祐兵の前に差し出した。
二人の木刀が、互いの身体に触れる寸前で止まる。
「引き分けですな」
豊久が息を吐いた。
「今のは、どちらが先に動いても危なかった」
二人は木刀を下ろし、少し距離を取った。
額には汗が浮かんでいる。
「もう一度、お願いできますか」
豊久が尋ねた。
「もちろんだ。今度は私から仕掛けよう」
祐兵は木刀を構え直した。
今度は祐兵が先に動いた。
正面から静かに間合いを詰める。
豊久は不用意に動かず、相手の肩と足元を見ていた。
祐兵が一歩踏み込む。
豊久は受けようと木刀を動かした。
だが、それは誘いだった。
祐兵は打ち込む寸前で動きを止め、反対側へ踏み出した。
豊久がすぐに向きを変える。
その時、祐兵の木刀が豊久の肩口へ伸びた。
豊久は間一髪で受け止めた。
木刀が激しくぶつかり、乾いた音が響く。
「惜しい!」
豊久が声を上げた。
そのまま豊久は木刀を押し返し、祐兵の脇へ回り込む。
祐兵は振り返りながら木刀を構えた。
しかし、豊久の方がわずかに早かった。
木刀の先が祐兵の胴の前で止まる。
「一本、いただきました」
豊久が息を弾ませながら言った。
「見事だ。今の動きは読めなかった」
祐兵は素直に認めた。
「祐兵殿の誘いに、危うく乗るところでした。最後は何とか間に合いましたが」
「豊久殿の踏み込みが速かった。あの一瞬で勝負を決められるとはな」
二人は互いに一礼した。
勝負はついたが、まだ物足りなさが残っている。
「最後に、もう一度だけ勝負をいたしましょう」
豊久が木刀を握り直した。
「よかろう。今度は互いに、悔いのないようにしよう」
二人は再び向かい合った。
風が吹き、庭の木々がざわめく。
小春は縁側の端で身を乗り出し
黒猫もその隣で二人を見つめていた。
しばしの静寂。
先に動いたのは、今度も豊久だった。
鋭く踏み込み、祐兵の正面を狙う。
祐兵は木刀を受けに回さず、わずかに身体をずらした。
豊久の一撃が空を切る。
しかし、豊久はすぐに足を踏み替え、二の太刀を繰り出した。
祐兵はそれを受け止める。
木刀が交わり、二人の足が庭の土を踏みしめる。
豊久が押す。
祐兵が受け流す。
祐兵が返す。
豊久がかわす。
互いに一歩も譲らない。
やがて、豊久が大きく踏み込んだ。
祐兵はその動きを見極め、木刀をわずかに傾ける。
豊久の木刀が外へ流れた。
その瞬間、祐兵の木刀が豊久の胸元へ伸びる。
だが、豊久もまた、同時に木刀を祐兵の肩口へ向けていた。
二人の木刀が、ほぼ同時に止まった。
どちらも相手に触れてはいない。
静寂が戻った。
「……また、引き分けですな」
豊久が笑った。
「そうだな。最後まで決着はつかなかった」
二人は木刀を下ろし、互いに顔を見合わせた。
「いやあ、面白い勝負でした。祐兵殿とこうして本気で向き合うと、まだまだ学ぶことがございます」
「私も同じだ。豊久殿の速さと間合いの取り方には、何度も驚かされた」
「次こそは、勝たせていただきますぞ」
「それはこちらの台詞だ」
二人は声を上げて笑った。
縁側では、小春が待ちきれない様子で立ち上がっていた。
黒猫もその隣で尻尾を揺らしている。
「待たせたな、小春殿」
祐兵が近づくと、小春は足元へ寄ってきた。
黒猫も一緒になって二人のそばへやってくる。
やがて、いつもの侍女が微笑みながら麦湯を運んできた。
二人は縁側に腰を下ろし、汗を拭いながら麦湯を飲んだ。
「勝負となると、いつもの鍛錬とはまるで違いますな」
「相手の一挙一動を見逃せないからな。だが、こうした勝負も時には必要だろう」
「次は勝敗を決めたいものです」
「そうだな。私も負けたままでは終われない」
秋の風が庭を吹き抜けた。
今日の勝負は豊久の一本勝ち。
そして最後の一戦は引き分け。
互いの力を認め合いながらも
胸の内には次こそ勝ちたいという思いが残っていた。
穏やかな日々の中にも、譲れぬ誇りがある。
二人の鍛錬は、これからも続いていく。




