第21話 正義の為に悪を成す
敵は巨大な剣を高々と掲げ、その剣に集約された圧倒的な力を解き放とうとしていた。いかに強固な結界〈真界〉といえども、極大剣に宿る膨大なエネルギーが放つ光の柱が結界を貫けば、無傷ではいられないだろう。その光は、塔のように天へ向かってまっすぐに伸び、遠くからでも感じ取れるほどの膨張する力が空間を震わせ、スフィアの肌を鋭く刺すような感覚をもたらしていた。
スフィアの背後に立つリリーニャとライトは、その光景を見守りながら、スフィアの頼もしい背中を見つめていた。森の管理者である彼女の背中は、いつも以上に大きく感じられる。しかし、安心とは程遠い状況であることを、二人は痛感していた。このままでは、自分たちだけでなく、村人全員が滅びる運命に直面してしまうかもしれないのだ。
時間は無情にも過ぎ去っていき、打開策の見えない残酷な現実が迫りくる。そんな中、リリーニャはふと、どこか懐かしい温もりを感じた。その熱は、まるで心を包み込むように優しく、そして強く彼女を惹きつける。反射的に振り返った先には、見覚えのある人物が立っていた。
「え……レイネスさん?」
少し離れた場所に、一人静かに歩くレイネスの姿があった。彼女はいつものように愛用の剣のような杖を持っているが、不思議なことにそれを使わず、盲目なはずなのに、迷いなくこちらへと歩いてくる。レイネスの足音はなく、また彼女の存在を感じさせる気配も、魔族としての独特な魔力も感じられなかった。まるで風のように、存在感を消し去ったその姿は、どこか神秘的で、現実味が薄れているかのように思えた。
「待って!ここは危な──」
リリーニャは慌ててレイネスに声をかけ、彼女に手を伸ばそうとした。しかし、手は途中で止まり、目を疑うような光景が広がった。そこにいたはずのレイネスの姿が、突如消えたのだ。
そして次の瞬間、彼女は数メートル先に移動していた。リリーニャが知る限り、これができるのは限られた人間だけだった。まるでリルアの使う転移の魔眼のように、彼女は瞬く間に別の場所へと移動していたのだ。
「さっきまで、ここにいたはずなのに……?」
リリーニャは驚き、再び声を上げた。隣に立つライトも不思議そうにリリーニャの指差す方向を見つめるが、そこには何も見当たらない。リリーニャは焦りながら、再度レイネスの姿を示そうとするが、ライトにはその姿が見えていなかった。
「どこだい?どこにも見当たらないけど?」
リリーニャが必死に説明するも、ライトには彼女の言葉が伝わらない。リリーニャにははっきりと見えているレイネスの姿が、なぜライトには見えないのだろうか。理屈では説明できない不思議な感覚に、リリーニャは困惑する。
(どういうことなの……?)
リリーニャの混乱をよそに、レイネスは静かに、しかし確実に村の入り口へと向かっていた。彼女の歩みは異様だった。歩いているはずなのに、一歩ごとに進む距離が通常の歩幅では考えられない。瞬きをした間に、彼女は既に数メートルも進んでいるように見える。
村の入り口にいるスフィアも、レイネスの姿に気付いていないのではないかとリリーニャは心配したが、それは杞憂に終わった。
「おい!ここは危険だ!レイネスだったな?早く戻るんだ!」
スフィアは〈真界〉の結界の境界線に近づくレイネスに気付き、急いで声をかけた。だが、レイネスは何も答えない。そのまま歩き続ける彼女を引き留めようと、スフィアは肩に手を置いた。その瞬間、ようやくレイネスの歩みが止まった。
「さすがです……神話の大戦を乗り越えた方には、すべてお見通しだったのですね……」
「ん?何を言っている?」
スフィアはレイネスの謎めいた言葉に眉をひそめたが、彼女の様子は変わらず穏やかで、まるでレイネスだけが知る特別な真実を秘めているかのようだった。
肩に触れていたはずの手が虚しく空を切った瞬間、スフィアは目を見張った。ついさっきまでそこにいたはずのレイネスが、忽然と姿を消し、今では結界〈真界〉の目の前に立っていたのだ。
敵襲を前に、最大限の警戒態勢を取っていたスフィアですら、レイネスの動きを見極めることができなかった。何より、その場の誰一人として彼女の気配を感じることができなかったのだ。目に見えぬ速度で移動することは特別なことではないが、今のレイネスの動きは常識を超えていた。
スフィアは瞬時に〈縮地〉や自らの得意技〈黒白の雷神〉を思い起こしたが、これらの技は全て魔力や精霊の力を駆使するもので、どちらも明らかな気配を残す。
しかし、レイネスの動きには一切の魔力や精霊の痕跡がなく、まるで存在そのものが希薄になっているかのようだった。スフィアはその異質さに驚愕し、次の瞬間には言葉を発していた。
「なっ……何だ?今のは?どうやってそこまで移動した!?」
スフィアの叫びに耳を貸すことなく、レイネスは〈真界〉へと手をかざし、そのまま無造作に〈真界〉の表面に触れた。その行動は、まるで古い友に語りかけるような、優しさと懐かしさを帯びたものだった。スフィアの問いを無視し、レイネスは囁くように結界に語りかける。彼女の声は誰に向けたものでもなく、まるで世界そのものに語りかけているようだった。
「お願い……ここを通して。大丈夫、ちゃんと守ってあげるから──」
レイネスの静かな声が響いた瞬間、鋭い金属音が空気を切り裂いた。突如として、村の周囲に白い光が広がり、全てを包み込んだ。その音と光は、ミクストの極大剣から放たれたものであり、剣が極限まで力を蓄えたことを示していた。聖気法力をその限界まで高め、極大剣に凝縮された力が、ついに解放されようとしていたのだ。
「時は来た!これで終わりだ!」
ミクストがそう宣言し、光り輝く極大剣を振り下ろす。その一撃は、空に伸びる光の柱ごと結界に向かい、理不尽なまでの破壊力を持って襲いかかった。轟音とともに辺り一帯は真っ白な光で覆われ、視界は完全に閉ざされた。まるで世界が白一色に塗り替えられたかのような光景が広がり、大地は轟き、震える。
「はははっ!相変わらず派手だな!」
ニスレアの高揚した声も、白き世界の中ではほとんど聞こえないほどだった。だが、その瞬間、耳をつんざくような音が響いた。まるでガラスがひび割れるかのような音が、次々と鳴り響き、ついには破壊の音が加速する。崩壊までのカウントダウンが刻まれるかのような音は、次第にその音量を増していった。
そして、ついに音が変わった。ひび割れの音から、砕け散る音へと。白き世界も徐々にその光を失い、視界は次第に元通りになっていった。目が慣れるまでの一瞬が過ぎ、勇者たちの目に映った光景は、想像していたものとは全く違っていた。
「な、なんだ……?これは?」
ミクストは驚愕に打たれた。振り下ろした極大剣を戻すことも忘れ、目の前の光景を見つめた。破壊されたはずの敵の拠点は、そこに健在であったのだ。いや、それだけではない。そこに立っていたのは、たった一人の少女であった。
「おい、嘘だろ……これ、あいつがやったのか?」
ニスレアの驚愕した声が響く。その視線の先にいたのは、一本の杖を持つ少女だった。彼女は結界の外に立ち、薄い翡翠色の髪が村を照らす魔力鉱石の光を受けて、虹色の光を纏うように揺れていた。布で覆われた上半分の顔は盲目であることを示し、口元は静かに微笑んでいるようにも見えた。
その右手には、金、銀、赤の装飾が輝く剣の柄が握られていたが、鍔から先は木製の杖に繋がっており、その形状は武器というよりも工芸品に近い。不思議な杖が地面に突き立てられ、その杖を中心に藍色の炎の壁が揺らめいていた。藍色の炎は結界を守るようにして立ちはだかり、その炎からは一切の熱を感じなかった。
「結界が無傷だと……?ならば、さっきのひび割れる音は……まさか──」
ミクストの視界に映る敵拠点の結界は、まるで何事もなかったかのように完全な姿を保っている。ひび一つ見当たらない無傷の結界を前に、ミクストは愕然とする。先ほど響いたひび割れの音が、結界が崩壊するものではなく、自身の〈魔断の聖剣〉が藍色の炎に侵食され、破壊されていく際の音であったことに気づいたのだ。
その瞬間、ある古い伝承が彼の脳裏に蘇る。
大陸に語り継がれる、古き竜殺しの逸話──
災厄の象徴として君臨する八体の竜王、その祖であり『真の竜王』とされる真祖竜がかつて大地を蹂躙し、人々を絶望に陥れていた暗黒の時代。そんな時代に現れた一人の英雄。
その英雄は、暴れ狂う真祖竜が吐き出した、数多くの勇者たちをも焼き尽くした灼熱のブレスから、村や町を守り抜いたという。その守護の力が、『藍色の炎』だった。熱を持たず、守るべき者を傷つけることなく、害意ある攻撃だけを喰らい尽くすという不思議な炎。まさにその伝説に語られる炎が、今、目の前で〈魔断の聖剣〉を防ぎ、結界を守ったのだ。
「真祖竜殺しの力……まさか、あの炎が……」
ミクストは信じがたい事実を前に、呟いた。自分たちが相手にしている存在が、ただの魔族や冒険者ではないことを、彼の直感が警鐘を鳴らしていた。
彼の視線は自然と、藍色の炎を操るレイネスへと向けられる。セゼットが『危険度F』と評価した相手が、今、目の前で示したこの力。その評価が誤りであったことは明白だった。ミクストの目は、まるで伝説の英雄を目の当たりにしているかのように、レイネスを捉える。彼女がただの無名の存在であるはずがない──その力が、伝説の真祖竜殺しの英雄に匹敵するのか、ミクストはその目で確かめようとしていた。
レイネスは騎士たちの方へとまっすぐ視線を向け、軽やかに手を振った。それに応じるように、激しく燃え盛っていた藍色の炎の壁は徐々にその勢いを弱め、静かに消えていく。
そして、彼女の視線が一番手前に立つミクストへと向けられた。彼女の目元は布で覆われているため、直接その眼差しを見ることはできない。しかし、ミクストには確かに感じ取れた。まるで布越しに、その鋭い眼光が自分を見据えているかのような圧倒的な威圧感。蛇に睨まれた蛙のように、全身が硬直し、背筋が凍りつくほどの恐怖が彼を包み込んだ。
(これが……本物の恐怖……なのか……?)
ミクストは自身が恐れていることに気づき、勇者になって初めてとも言える強烈な恐怖を感じていた。しかし、それでも彼は自分から目を背けず、心の内で恐怖を受け入れることを選んだ。数々の修羅場を潜り抜けてきた彼は、恐怖を払うためには、それを認め、受け入れることが重要だと知っていたのだ。
恐怖に打ち勝ち、再び立ち向かう決意を固めたミクストは、顔を上げてレイネスを見据えた。その瞬間、まるで彼の決意を待っていたかのように、レイネスは口を開いた。
その声は、普段であれば誰もが聞き惚れてしまうほどに美しく、優雅な響きであった。しかし、その声が今告げたのは、美しい旋律ではなく、鋭い決意だった。
「この村に手を出すことは、絶対に許しません。すぐにここから立ち去ってください」
その声には、強い意思と共に怒りがこもっていた。レイネスの美しい声には、深い悲しみが宿っていた。無益な殺し合いを嘆き、そして自らもこの戦いに参加しなければならない運命を悲しんでいるように。
「はっ!なんだよ、セゼット!あいつ、全然雑魚じゃねぇじゃねぇか!ミクストの聖剣を受け止めたぞ!おもしれぇ!ははっ!」
興奮に満ちたニスレアの声が響くが、他の勇者たちは冷や汗を浮かべ、静かに危機感を募らせていた。相手はたった一人の少女。しかし、彼女の存在は圧倒的で、ただの一人ではないことを全員が理解していた。全身が本能的に警告している。彼女を敵に回してはいけないと。
ミクストの怒声が、静寂に包まれた戦場に響き渡る。
「貴様、何者だ!? その力は一体何なんだ!答えろ、魔族よ!」
彼の声には、もはや恐怖はなく、代わりに純粋な好奇心が湧き上がっていた。かつて幼少の頃、心を躍らせながら夢見た伝説――竜殺しの英雄。その一端をこの目で目撃したのだ。この目の前に立つ魔族は何者なのか?その力の源は何なのか?ミクストの心はそれを知りたいという欲望に突き動かされ、全身が高揚していく。
一方で、レイネスは沈黙を保ち、冷静に彼らの視線を受け止めていた。やがて彼女は、落ち着いた声で静かに言葉を紡ぐ。
「ぼくは、レイネス・アスタリスク。ただの旅人です。それ以上でも、それ以下でもありません。ぼくが言いたいのは一つだけです……この村の人々に罪はありません。彼らは貴方たちに害をなす存在ではない。だから、どうか剣を納めてください」
彼女の言葉には、深い悲しみが込められていた。それは、何度も争いを目の当たりにしてきた者の嘆きのようであった。しかし、その真摯な訴えに応える者はいなかった。
レイネスの言葉に反応したのは、ミクストの背後で一歩前に出てきたニスレアだった。彼は侮蔑に満ちた視線をレイネスに向け、軽蔑を込めた笑い声を響かせた。
「おいおい!何だそりゃ、つまんねぇ話だ。俺たちの目的は変わらねぇんだよ!そんなくだらねぇ言い訳、通用しねぇ。止めてほしいなら、逆にこっちを皆殺しにしてみろよ!話し合い?そんなもんはもう遅いんだよ。この村の奴らは全員死ぬんだからな!」
ニスレアの冷酷な宣告は、その場の空気をさらに重くした。彼の言葉には、皮肉にもある種の真理が含まれていた。双方がそれぞれの正義を信じ、その正義を押し通すためには、相手の正義を踏みにじるしかない。
歴史を紐解けば、争いはいつだって人の業だ──それが、いかなる時代も変わることのない真実である。レイネスもそのことを理解していた。長きにわたり、幾多の争いを見届けてきたからこそ、彼女は知っていたのだ。
それでもなお、レイネスは諦めることができなかった。彼女は僅かでも希望にすがり、言葉で分かり合える可能性を信じていた。だが、その希望がいかに薄く、脆弱なものであるかもまた理解していた。今まさに、彼女が引き返せない状況に立たされていることを痛感する。
レイネスは静かに杖を構えた。その動作は剣士のように無駄がなく、研ぎ澄まされていた。そして、決意がみなぎったその表情には、もはや迷いはなかった。
「わかりました。不本意ではありますが……これ以上、ここを通すわけにはいきません!それでも通るというのならば……ぼくは貴方たちを、殺します!」
レイネスの声は震えることなく、鋭い刃のように響き渡った。
その言葉に、ニスレアは愉快そうに大声で笑い出した。両手を叩きながら何度も嘲笑の声をあげ、喜びに満ちた表情を浮かべている。
「ははは!いいな、いいぞ!面白ぇ!お前が俺たちを殺すだって?あぁ、いいじゃねぇか。国家殲滅級の戦力を前に、よくもまぁそんなことが言えたもんだな!ハッタリでも面白ぇ!……さて、準勇者一番隊!お前ら、あの魔族を殺せ!魔族、まずは準勇者たちを倒してみせろ。そしたら俺が相手してやるよ。全力で殺せ!殺し合え!」
ニスレアの命令を受け、五十人の準勇者たちが動き出した。彼らは即座にレイネスを囲み、直径十五メートルほどの円陣を作り上げる。完全に包囲されたレイネスの前に、一人の騎士が名乗りを挙げた。彼は準勇者一番隊の序列十位、ニスレアの信頼を受ける実力者だった。
「行くぞ、魔族の娘よ!悪いが手加減はできん!」
準勇者は剣を抜き、疾風のごとく駆け出した。距離はごく短い。半秒もかからぬうちに間合いを詰め、右肩からの袈裟斬りを繰り出す。これで一刀両断──そのはずだった。
「っ!? 何だ、これは……?」
だが、彼の剣は目標を大きく外れ、レイネスの左側の地面を深々と斬りつけていた。準勇者が驚いたのは、それだけではない。レイネスは一歩も動いていない。彼女は、まるで最初からすべてを見通していたかのように、手にした杖で彼の剣の軌道を受け流していたのだ。
その技量に、観戦していた正規勇者の九名、特に剣術に精通するノバルレイン家の四兄弟は驚嘆し、あのニスレアさえも真剣な眼差しでレイネスを見つめていた。
「くっ……何をしたかは知らんが、この距離ならば逃れられまい!」
準勇者はすぐさま態勢を立て直し、再度斬りかかろうとした。しかし、再び彼の剣は動かない。視線を剣に移すと、そこには杖の先が静かに触れていた。
「な、なんだ!? なぜだ、なぜ剣が動かない!?」
彼の混乱した声が、重々しい静寂を切り裂いて響き渡る。しかし、レイネスはまるでその声など届かないかのように、彼の剣を封じたまま、揺るぎない姿勢で立ち続けていた。
準勇者は、心の中で徐々に広がる恐怖と混乱を抑えきれなかった。いくら相手が魔族といえども、自分は王国最強の戦士の一部として選ばれた者。幾度となく訓練を重ね、血と汗で鍛え上げた自信が、たかが杖一本に封じ込められるなど、考えられない。
それなのに、その現実が目の前にある。レイネスは一歩も動かず、杖を持つ腕に力を込めた様子もなく、冷静な態度で立ち続けている。そして、その冷たい視線は、彼にすら向けられていない。まるで彼を相手にする価値がないと言わんばかりの無視。それに気づいた瞬間、準勇者は一歩、いや、二歩、恐怖に駆られ距離を取った。
その異様な光景に、他の準勇者たちも立ちすくむ。レイネスの圧倒的な存在感に、彼女の間合いに一歩踏み出すことすら躊躇している。その光景を見て、苛立ちを隠せないニスレアが、怒りを爆発させた。
「おいっ!お前ら、何を怯えている!?さっさとやれ!!このつまらん状況を早く終わらせろ!」
と、その言葉に続けて、
「全員、狂化を使え。さもなければ、使わなかったやつは後で俺が殺す。わかったか!?」
その命令は、準勇者たちの心に深い恐怖を植え付けた。〈狂化〉──それは戦士たちの戦闘能力を一時的に劇的に向上させるが、その代償は大きい。〈狂化〉を使えば、人格崩壊や記憶の消失、さらには肉体そのものの崩壊さえ引き起こしかねない。
しかし、ニスレアが言う「殺す」という言葉は脅しではない。準勇者たちはそれをよく知っていた。逆らえば、死が待っている。
一瞬の躊躇の後、準勇者たちは次々と狂化を発動させた。彼らの体から放たれる聖気が、場の空気を切り裂き、彼らの瞳は理性を失っていく。自意識を完全に失い、理性の鎖を断ち切った者たちは、もはや人間とは呼べない化け物へと変わり果てていく。その姿は惨たらしく、見る者に背筋を凍らせるほどだ。
「こんな……こんなものは神の御業とは、到底思えない……!」
レイネスは、狂化した準勇者たちの姿を見て、思わず唇を噛みしめた。王国の勇者──彼らは本来、神の加護を受け、邪悪を打ち払うべき存在のはずだ。しかし、今目の前にいる彼らは、神聖とは程遠い。むしろ、闇に飲み込まれたように見える。それでも彼らは、自分の意志とは無関係に、忠誠を誓った国のために戦わされ、操られているのだ。
「あまりに酷すぎる……」
その囚われた魂たちを見て、レイネスは心に痛みを感じた。戦士たちの忠義心が強制的なものであり、狂気じみた力に縛られていることを理解していた。だが、それでも、今のレイネスには彼らを解放する術はない──少なくとも、言葉で解き放つことはできなかった。
狂化した準勇者たちは、彼女を囲むように一歩、また一歩と近づいてくる。彼らはまるで、レイネスの中にある温かな何かに引き寄せられるかのようだった。彼女の中に、救済を求めて。その姿に、レイネスの胸の奥にあるものが震えた。そして彼女は決意した。もし自分ができることがあるのなら、それを果たそうと。
「……わかりました。お救いいたしましょう。真なる炎の力を持って、あなたたちの魂を解放します……」
その言葉と共に、レイネスの魔力が一気に解放された。瞬間、周囲の空気が震え、目に見えぬ圧力が場を支配した。今や彼女が放つ魔力は、ただの魔族のそれをはるかに超え、人の域では到底理解し得ない領域に達していた。その圧倒的な魔力の奔流は、狂化した準勇者たちさえも無意識に惹きつけ、彼らは自らの身を焦がしてでも、その救済を求め進み続ける。
レイネスの心は揺らぐことなく、彼女はゆっくりと腕を広げ、世界の理を呼び覚ます。自身の魔力をその意志に従わせ、彼女はかつてない力で呪文を紡いだ。
「世界よ、認証せよ。原初の炎、一節。浄化を司る赤炎よ。彼の者達の邪悪を払い、その魂を解放せよ──」
彼女の声が響き渡ると、空気が一変した。まるで神々の御手が伸び、狂乱した魂たちをそっと包み込むかのように。
レイネスは静かに両手を腰のあたりで広げた。その瞬間、彼女の両手に赤炎が灯り、周囲の大森林全体がじわじわと温もりを帯び始める。それは不思議なほどに心地よく、敵も味方も分け隔てなく、その温かな気温が全ての者に安心と安らぎを与えた。息を呑むほど美しく優しい炎でありながら、そこには圧倒的な力が秘められていた。
レイネスは世界の認証を静かに待つ。すると、外なる世界が彼女の意志に呼応し、力の行使を許した。赤く燃え上がる炎が彼女の周りを柔らかく揺蕩い、その炎の弧は次第に大きくなり、質量を増していく。まるで命を宿したかのように螺旋を描く炎は、レイネスの存在そのものを際立たせた。
本来、魔族は邪悪を象徴する存在であるはずだ。しかし、今のレイネスはその概念を覆すような神聖さを纏っていた。彼女はもはや魔族ではなく、誰かを守り、救う者として、その身に聖なる力を宿している。赤炎の一部となった彼女は、まるで聖女のような神々しさを放ち、その慈悲深い祈りに応えるかのように、世界は惜しみなく力を貸したのだった。
「さあ……真なる炎よ。浄化の赤炎のもとに、安らかに眠りなさい」
レイネスの静かで優しい言葉が響くと、赤炎は突然、竜巻の如く激しい勢いで渦を巻き始めた。その炎は怒りの如く荒れ狂い、しかし同時に、温かな抱擁のように騎士たちを包み込んでいく。
自我を失った者たちは、レイネスと共に燃え上がる炎に呑まれ、その業火の中心でゆっくりと消えていく。炎は螺旋を描き、力強く舞い上がり、その勢いは凄まじかったが、どこか救いを感じさせるものだった。
赤炎に巻き込まれることなく生き残ったのは、わずかに狂化を御しきれた数人の騎士たちだけ。彼らは燃え盛る火柱から距離を取り、その猛々しい光景を呆然と見つめていた。
やがて、赤炎の勢いが徐々に弱まり、火柱が静かに消え去った時、そこに立っていたのはただ一人――レイネスのみだった。共に炎に呑まれた騎士たちの姿は、もうこの世に跡形もなく消え去り、彼らはついに邪悪な力から解放されたのだ。
一息ついたレイネスは、静かに腰のホルダーから小振りのナイフを取り出した。刃渡りはわずか十五センチほどのそのナイフを右手に逆手で握り、ゆっくりと姿勢を低く落とす。彼女の瞳には今、確固たる意志が宿り、鋭い視線が目元の布越しに残された騎士たちを射抜いた。
そして、レイネスは、次なる戦いの始まりを告げるように鋭く呟く。
「──では、参りましょう」
その言葉と共に、静寂の中に新たな激闘の幕が上がる。




