第10話 月夜の出会い
「こんなものかなぁ」
ラリアガルド帝国の帝都シュトンベルド周辺の上空に、愁の姿があった。ノヴァン二世との話が思ったよりも早く終わったため、愁は帝国周辺を上空から見渡し、マップ機能を使って正確な地図を作成していた。見渡す限り、都市の全体像が鮮明に浮かび上がる。その様子を目にしながら、愁はふと不思議に思う。
「このマップ、どうやって作成されているんだろう……」
かつて『WORLD CREATOR』のシステムでは、視覚情報を元にマップが自動生成されていた。それはまるで頭の中で無意識に情報処理が行われているかのようだったが、今は、愁自身がその処理をどうしているのか、自分でも分からなくなっていた。処理を担うマザーコンピューターからの応答はないはず。しかし、今のところマップは変わらず更新されていくので、特に問題はない。この謎めいた感覚に対して、愁の胸の中には一抹の違和感が残る。
辺りは日が落ち、満月が闇夜を照らし出していた。月明かりは柔らかく、静寂の中に神秘的な光を放っている。愁は帝都近くの森の上空に移動すると、地上へと降りる前に念のため〈気配探知〉を行った。
探知範囲は約一キロ程度。小動物を除外し、ある程度大きな生物に反応するよう設定した。徐々に範囲を広げていくと、七百メートルほど離れた場所で一つの反応があった。そこは、先ほどマッピングしたエリアの崖下、河川沿いだった。
「こんな場所に人が……?」
愁は、首をかしげながらも〈気配探知〉の精度を上げ、その反応が人の形をしていること、そして地面に倒れていることを確認する。生物として感知されているということは、その者はまだ生きている。すぐに愁は急行し、反応のある場所へと向かった。
崖下に降り立つと、河川沿いの砂利の上に一人の女性が倒れているのが見えた。薄緑色の髪に、目元は美しい装飾が施された布で覆われている――それは、以前エルセリカ大陸の港町フスカで出会った旅人、レイネスであった。
「レイネスさん?」
愁は声をかけたが、返事はない。近くには、不思議な形をした杖――剣の柄のような持ち手がついたものが落ちており、周囲には血飛沫が散らばっていた。愁はすぐに〈状態鑑定〉を行い、彼女の状態を把握する。
「これは……ひどいな……」
内臓破裂、打撲、骨折――数え切れないほどの異常が見つかり、かなりの重症であった。仮死状態でなかったのが奇跡的だ。愁は『エンドレスボックス』からポーションを取り出し、レイネスの口にゆっくりと流し込んだ。意識がないため、飲ませるというよりは流し込むに近いが、速効性のあるポーションの効果で、外傷は次第に癒えていく。
その後、再び〈状態鑑定〉を行い、彼女の治癒が完了したことを確認すると、愁はレイネスの目元に巻かれていた血まみれの布を外し、未だ乾いていない血を丁寧に拭き取る。そして露わになった彼女の素顔を見た瞬間、愁は息を呑んだ。
その顔立ちはまるで人形のように完璧で、驚くほど美しかった。まるで引き込まれるようなその美貌に、しばらく愁は目を離すことができなかった。
(すごい美人だな……)
愁は気を取り直し、タオルを川の水で濡らして戻ると、レイネスの血で汚れた顔や腕を丁寧に拭き取った。傷は既に癒えているが、目元を覆っていた布や衣服はあちこちが裂け、破れていた。崖上から転落したのだろうが、斜面に何度もぶつかって転がり落ちたようだ。愁は辺りを魔石の光で照らし、散らばったレイネスの持ち物を拾い集める。
一方で、レイネスは意識を取り戻しつつあった。彼女は全身に巻きつくような痛みを感じていたが、それは次第に温かさと共に薄れていく。その温もりは、誰かが自分を救ってくれたのだと、彼女に気付かせた。
そのまま体が優しく運ばれている感覚。父の背中に守られている時のような安心感がレイネスを包む中、彼女はそっと目を開けた。普段なら封印の布が力を抑え込んでくれるからと、開眼しても問題ないはずだった。だが、今回ばかりはそれが違っていた。
目を開けた瞬間、いつもの暗闇ではなく、満天の星空が広がっていた。久しぶりに目にする夜空、月の光は優しく、そして懐かしい。しかし、彼女の頭は混乱し、状況を理解するのが遅れてしまった。だが――魔眼の力は、そんな猶予を与えてくれるはずもなかった。
開眼と共に、彼女の忌まわしき力が解放され、瞬時に半径百メートルの範囲が塵と化した。崖も地面も抉り取られ、崩壊しながら雪崩のように押し寄せてくる。その光景は、何度も目にした悲劇そのものだった。レイネスは呆然と、その破壊の跡を見つめ、自分が再び過ちを犯したことを、深い絶望と共に認識する。
「また……ぼくのせいで……」
抑えられない感情が、心の奥底から込み上げてきた。胸を締め付ける罪悪感と悲しみが、彼女を押し潰す。
レイネスは自分を避けるように流れてきた塵の中に、無力なまま立ち尽くしていた。周囲には白く淡い塵が漂い、風も音も奪われたかのように静寂が広がる。それはあらゆる生命を吸い尽くされた成れの果ての塵。無意味で無価値な存在、まさにこの世にあってはならないものであった。この塵を生み出したのはレイネス自身の魔眼――忌まわしい力。それは視覚による認識と共に発動し、半径百メートルの範囲内に存在するすべての命を奪う、恐ろしい能力だった。
「ぼくはまた……ぼくを助けてくれた人を、罪のない数多の生命を奪ってしまった……ぼくは……」
レイネスは力なくその場に膝をつき、崩れ落ちるように座り込んだ。彼女の視線は遥か上に広がる星空に向けられている。空には無数の星々が変わらずに輝き続けているが、レイネスはその美しさに胸を締め付けられ、瞳からは静かに涙が零れ落ちる。
「こんなこと……もう何度目だろう。すべて、ぼくのせいだ……」
何度も経験したこの感覚。自らの油断や迷いが、無数の命を奪い去り、悲劇を生んできた。そして今日も、自分を救ってくれた誰かの命を、また奪ってしまった。命を助けられるどころか、命を奪い続ける――その絶望がレイネスの心を締め付けた。
「もう、これ以上こんなことが続くのなら……ぼくは生きていてはいけない……」
彼女は震える手で腰に下げた小型のナイフを取り出し、その冷たい刃を喉元に突きつけた。瞳を閉じ、喉元へと鋭い刃を押し当てる。その手は恐怖に震えているが、それでも覚悟を決めようとする。すべてを終わらせるために――
「ごめんなさい、お師様……ぼく、もう駄目みたいです……」
レイネスは何度も自らの魔眼を消そうと目を抉り、潰してきた。だが、それでも魔眼は嘲笑うかのように再生し、周囲に死の力を撒き散らす。共に旅をしてくれた仲間、愛してくれた人々、ただ運悪くそこにいただけの者たち。そして、彼女にとって最も大切だった人さえも、その力によって奪われてきた。
「もう、何年も魔眼の力を消す方法を探してきたけれど……」
彼女が行き着いた結論は、自らの命を絶つこと。それが、忌まわしい力から解放される唯一の方法だと、何度も考えてきた。何度も覚悟を決め、死を迎えようとしたが、今までその一歩を踏み出せなかった。それでも――今日は違う。
レイネスはナイフに力を込め、勢いをつけて喉元へと突き立てようとした――その時。
◆◇◆◇◆◇
突然現れた大量の塵の中に埋もれてしまった愁は、必死にもがいて抜け出そうとしていた。体は全て塵に埋まっていたが、それほど苦しさはない。塵は無重力のように軽く、ただ動きにくいだけだった。しかし、もっと気になるのは、塵が発生した瞬間に表示された『即死属性の攻撃』という警告だった。
「即死……これも、レイネスさんの能力なのか……?」
愁は周囲を見渡し、レイネスの姿を探した。彼の視線の先には、塵の上に膝をつき、星空を見上げているレイネスの姿があった。その姿は、まるで祈りを捧げるように静かで、儚げだった。
だが、その手に握られているもの――それは月光を浴びて淡く煌めくナイフだった。
「まさか……!」
愁は瞬時に理解した。レイネスが、何をしようとしているのかを。彼女が、ナイフを自らの喉に突き立てようとしていることを――
「止めなきゃ!」
愁は一瞬の判断で、〈縮地〉を使ってレイネスに飛びかかった。腕を掴むのでは間に合わない。そう悟った彼は、ナイフの刃そのものを素手で掴んだ。ギリギリのところでレイネスの手を止める。
「何をしているんですかっ!」
森は深い静寂に包まれていた。星々がわずかに瞬く闇夜、その中に響き渡るのは愁の叫び声だけだった。彼の手から血がゆっくりと滴り落ち、その赤い雫がレイネスの足元を鮮やかに染め上げていく。彼女の震える声が、かすかにその静寂を破った。
「その声……愁さん?なんで……?」
レイネスの声は、まるで触れたら壊れてしまいそうなほどか細く、彼女の混乱と恐怖が滲み出ていた。それに対し、愁は彼女の言葉の意味を誤解したまま、しかし強い意志を込めて返答した。
「なんでじゃないですよ!一体何をしているんですか!」
愁は、レイネスの手からナイフを奪い取り、遠くへと力強く投げ捨てた。銀色の刃が、月明かりの下で儚く煌めきながら地面に消えていく。
「違う……違うの!なんで、どうして生きているの?ぼくの目の力は、確かに君を……それに、ぼくを助けてくれた誰かも飲み込んだはずで……また、罪のない命を奪ってしまったと思って……」
レイネスの言葉は絶望に満ちていた。彼女は己の能力を恐れ、愁の生存を信じられないでいた。愁はその話を聞き、先ほどの即死属性の攻撃がレイネスによるものだったと確信を深める。しかし、彼にはその攻撃は通じない。即死攻撃を無効化するアイテム『戦王のタリスマン』が愁を守っているからだ。
「それは、さっきの即死属性の力のことですか?それなら、俺は大丈夫ですよ。俺には即死の力は効かないんです」
「そ、そんなっ!?本当に……本当に本当なの?」
「……はい、間違いありません」
レイネスの胸に、一筋の光が差し込んだ。彼女の忌まわしい能力が通じない存在――愁。その事実に彼女は、信じられないほどの希望を感じた。
「あの……目を開けてもいいかな?ぼくの目の力は、開眼によって発動するんだけど……その、だ、大丈夫だって言うのなら……」
レイネスの声は震えていた。数百年の絶望の果てに、初めて希望の光を見つけたその瞬間、彼女の胸は期待に打ち震えていた。
「大丈夫ですよ。周りには誰もいません。だから、目を開けてみてください」
「う、うん。それじゃあ……開けるね……」
レイネスは恐る恐る、ゆっくりとその目を開いた。そして、彼女の視界に映るのは、目の前でしゃがんでいる少年、愁の姿だった。言った通り、魔眼の力は愁には何の影響も与えていなかった。彼女は驚きながらも、恐る恐る彼の瞳を見つめ、百年以上の時を経て、他者と目を合わせた。
「すごい……本当に……本当にぼくの魔眼が効いていない……初めて、初めてだよ!こんなこと……本当にすごいよ……」
愁もまた、レイネスの瞳に目を奪われていた。その瞳は虹色に輝き、宝石のような美しさを放っている。夜の闇の中で、まるで星屑を閉じ込めたかのように、光を反射して煌めいていた。それは、今まで見たどんな宝石よりも美しく、魅力的だった。
「綺麗ですね……本当に、美しいです」
「へっ!? ど、どうしたの急に……?」
「あ、いや……すみません。その、レイネスさんの瞳が……すごく綺麗で。それに、レイネスさん自身も……とても美しいから……見惚れてしまいました」
愁は言葉を口にして、自分でも驚いた。だが、それほどまでにレイネスは美しかったのだ。レイネスは一瞬、驚いたように目を見開いたが、次第に頬が赤く染まり、彼女もまた、戸惑いながらも言葉を返した。
「そんな……ありがとう?なんか、すごく恥ずかしいけど……」
レイネスの瞳はまだ愁の瞳をじっと見つめたまま、まるでその視線を絶対に外したくないかのように。愁はその視線に気まずさを感じ、思わず顔を背けた。
「あっ!なんで反らしちゃうの?」
レイネスはすぐさま愁の背けた方向に回り込み、再び目を合わせてきた。その行動に、愁は笑ってしまいそうになるが、彼女の必死さを感じ、真剣な表情で応えた。
「いや、さすがにずっと見つめられると、なんだか恥ずかしいですよ……」
「えーっ!? ぼくだって恥ずかしいんだよ?でも、でも……今は目を見て話してほしいの。お願い……だめ、かな……?」
レイネスは愁に軽く見上げるような視線を向け、その首を僅かに傾けた。その仕草は、まるで可憐なおねだりをする少女のようで、愁の心臓が跳ねた。これほどの美貌と、宝石のような瞳で見つめられて、甘く囁くような声でお願いされる――誰が断れるだろうか?愁は、深く息を吐き出しながら頷いた。
「……あ、あー……わかりました。ちゃんと見ますから……」
「ありがとうっ!」
レイネスは柔らかく微笑み、その笑顔に愁の胸はまた高鳴る。
(なんて破壊力だよ……)
内心の呟きを抑えながら、愁はなんとか気持ちを落ち着かせようと努力した。けれど、レイネスの美しさは彼の心を激しく揺さぶり続けている。
「そうだ!愁さん、手を見せて!」
レイネスの声で愁の意識は現実に引き戻される。
「手、ですか?」
「そう!怪我してるでしょ?ナイフを掴んだ時に……」
「あ……そうですね、すっかり忘れてました……」
右手を確認した愁は、忘れていた脈打つような痛みがじわじわと広がるのを感じた。手の傷口からは、赤い血がじわりと滲み、真下の白い塵に広がるシミを作っていた。『そういえば、怪我をしていたんだな』と、愁はようやく思い出す。それまで彼の意識は、目の前のレイネスの美しさにすっかり奪われていたのだ。自分が忘れていた理由がそれだと気づき、愁は内心で軽く苦笑する。間抜けにもほどがあるが、それが事実なのだから仕方ない。
「ほら、手を出して?」
「え?いや、大丈夫ですよ。このくらいの怪我は……」
「いいからっ、ぼく、ちょっとだけ治癒の力が使えるんだ。だから、治療させてね」
レイネスは迷うことなく愁の手を取り、左手でしっかりと押さえると、右手をかざし始めた。次の瞬間、静かに詠唱が始まる。
「世界よ、認証せよ。原初の炎の四節。癒を司る緑炎よ、彼の者の傷を癒したまえ」
詠唱が終わると、レイネスの右手が淡く発光し始める。揺らめく緑色の光は、まるで穏やかな炎のように優しく愁の手を包み込んでいく。その光は温かく、痛みを和らげ、徐々に傷口を治癒していく。脈打つように疼いていたはずの痛みが消え、愁の手は元の状態へと戻りつつあった。
「これは治癒の魔法ですか?初めて見ましたけど、とても綺麗ですね」
「ううん、これは治癒の魔法じゃないんだ。これしか使えないけど、ぼくの魔眼以外の力なんだよ」
「そうなんですか。とても素敵な力ですね」
「そうかな……?でも、そう言ってもらえると、嬉しいかな……。はい、これで傷はもう大丈夫だよ。それと、ありがとうね?ぼくのこと、守ってくれて……」
レイネスは優しく微笑んで、ふわりとした温かさが愁の胸を包んだ。しかし、愁は軽く首を振って、そんな言葉を受け入れられないような表情を浮かべた。
「いえ、守っただなんて……でも、レイネスさん、自分を傷つけようとするなんて駄目ですよ。そんなこと、二度としないでください」
「う、うん……ごめんね……」
愁の厳しい言葉にレイネスは反省したようにしゅんとした顔をする。彼女の美しい瞳が、しょんぼりと影を落としている様子を見た愁は、その姿に思わず目を奪われそうになる。
(いやいや、今はそんなことを考えている場合じゃない!)
「ところで、レイネスさんは何処かに向かっていたんですか?」
思考が彼女の美貌に引き込まれそうになる自分を奮い立たせて、愁は話題を切り替えた。レイネスはしばし考えてから、ぽつりと答えた。
「一応、帝都を目指してたんだけど……行く宛は特にないんだ。こんな目を持ってるから、何処かに留まるのが怖くて……旅を続けているの」
「そうですか。それなら、俺と一緒に来ませんか?よければ色んな場所の話も聞きたいですし、あと……服も直さないとですし」
愁はさりげなく『エンドレスボックス』からマントを取り出し、レイネスに差し出した。彼女の服は、さっきの転落でボロボロになってしまっていたのだ。そのままでは、けしからんどころか、非常に不適切な状態だ。他の男にそんな姿を見せるわけには絶対にいかない。
「あ……そうだね、ありがとう……」
気恥ずかしそうにマントを受け取ったレイネスは、さっと羽織る。
「じゃあ、お邪魔しようかな?」
「はい!じゃあ、行きましょう!」
「ちょっと待ってね。目に布を巻かないと……」
レイネスはポケットから新しい布を取り出し、目元に器用に巻きつけた。その布には不思議な模様が入っており、彼女の魔眼の力を抑える魔法が施されているらしい。彼女の美しい顔もその布に隠されてしまうが、愁は少しばかり残念に思う。ほんの少しだけだが。
「お待たせ!もう大丈夫だよ」
「それでは、行きましょうか」
愁はレイネスに手を差し出し、そっと彼女の手を握った。彼女をエスコートするための行動であり、他意はない。だが、レイネスは少し照れくさそうに口元を緩めた。
「なんか、ちょっと恥ずかしいかも……」
「いや、そういうこと言わないでくださいよ。俺も結構恥ずかしいんですから……」
「え?そうなの?でもなんだか、手慣れてるような気がするけど……?」
慣れているかと問われれば、確かにリアやリルアと手を繋いだこともあるので、そうかもしれない。だが、これとはまた別の話だ。そもそも、レイネスとはまだ出会ったばかりで、慣れるどころか緊張しているのだから、無理もない。
「手慣れてないですよ!と、とりあえず足元が危険なので、気をつけてくださいね」
「ふふ、わかったよ。案内よろしくね」
レイネスが再び目の見えない世界に戻っても、彼女の心には温かさが広がっていた。目を見て話せる人がいて、その人が優しくて頼もしかった。今も手を握り、彼女の足元に気を使いながら、一緒に歩いてくれている。こんな気持ちになれるのは、いったい何年ぶりのことだろうか。正直、わからない。けれども、レイネスはこの出会いに深く感謝していた。
(もっと……あなたのことが知りたいな)




