第15-2話 変わらない気持ち
寒風が吹き抜ける中、アルバートは気を失ったまま動かない。
意識の奥深くで、彼の心は暗闇に沈んでいく。温かさも光もない漆黒の世界が彼を飲み込み、その存在を徐々に曖昧にしていった。
寒空の下、アルバートは気を失い地面に倒れたまま、凍てついた時間が静かに流れていく。周囲には死の気配しかない。村は滅び、そこにあるのは冷たく沈黙する死体と、見るに堪えない肉片の残骸──生者の影はどこにもなかった。
やがて夜が訪れ、空は深い闇に包まれる。
気温はさらに下がり、凍てつく冷気がアルバートの体温を容赦なく奪っていく。命の灯火が消えゆく中、それでも彼の意識はまだ戻らない。
暗闇の中で、アルバートは沈んでいった。
それはただの夢ではない、深く沈む感覚が彼の全身を支配していた。目を開けても何も見えない虚無の空間。
彼は悟る──これは死だ、と。
「これが……終わりなのか」
低い声が虚空に溶ける。どこまでも続く闇が彼を引きずり込み、無限の孤独が心を蝕んでいく。
(また、ひとりになってしまった……)
沈んでいく感覚の中で、アルバートの思考が浮かび上がる。
(結局、私は最後には独りなのだ)
かつて誰かが言っていた。『人は皆、独りだ』と。そして、『人は独りでは生きていけない』と。それはどちらも正しいのだろう。だが、今のアルバートには後者を証明する者はいない。
ふと、ユアの顔が脳裏に浮かぶ──アルバートの弟子であり、彼にとっては自分を慕ってくれる存在だ。
しかし、彼女を遠ざけ、傷つけたのはほかならぬアルバート自身だった。
『陛下の命令は正しく絶対だ』
その言葉が頭の中を支配する。迷いが生じるたび、この言葉が現れ、全ての判断を狂わせる。
セルシオ国王には恩がある。だが、いつからだろう。その恩が自分を縛りつける枷に変わったのは──
「こんなにも苦しいのなら、いっそ死んでしまったほうが楽ではないのか……」
そう呟いた瞬間、アルバートの心は全てを手放した。闇の中を沈む速度が増し、深淵がすぐそこに迫る。
──そのとき。
「……さま……お師匠さまっ!」
遠くから声が聞こえた。
それはアルバートの名を呼ぶ声、温かさを宿した声。もう何もわからないはずなのに、その声だけは暗闇の中で鮮烈に響いた。
「誰だ……?」
瞑っていた目を開け、アルバートは上を見た。
そこには微かな光が差し込んでいる。それは遥か彼方、手の届かない場所にある光だった。しかし、その光は温かかった。生きることの意味を再び思い出させるような、希望そのもののように──
意識が薄れていく中で、アルバートは手を伸ばした。
その先に、誰かが彼の手をしっかりと掴んだ。暖かく、確かなその手。引きずり込む闇の力を凌駕するほど強い力で、彼を引き上げようとしている。
(まだ……死にたくない……!)
その思いが彼の中で強く燃えた瞬間、周囲の暗闇は消え去り、満天の星空が広がった。
「ここは……?俺は……生きているのか……?」
「お師匠さま!よかった……目を覚まして……」
震える声が、闇に閉ざされていたアルバートの耳を打った。
瞼をゆっくりと開けると、そこには栗色の瞳を涙で濡らしたユアが、必死に彼を見下ろしていた。
頬を伝うその涙は、夜の冷たささえも温めるような温かさを持っている。
アルバートは気づく。自分の頭はユアの膝の上にあり、彼女の膝枕に守られていることを。
体には、彼女が着ていたであろう冬用のコートが掛けられていた。微かな震えが伝わるのは、彼女自身も寒さを堪えているからだろう。
「ユア……」
声にならない声で名を呼ぶ。
彼女の存在がまるで夜明けの光のように、アルバートの胸の奥に差し込み、長い孤独の闇を追い払った。
その瞬間、彼は悟った。
(私は独りではなかったのだな……)
「何か嫌な感じがしてお師匠さまを探していたんです。そしたら道端で亡くなっている男の人がいて、もしかしてと思ってこの村に来たら……この有り様で。お師匠さまも血だらけで倒れているし、本当に心配したんですよ?」
ぽたぽたと涙がこぼれ落ち、アルバートの頬を濡らしていく。その温かさが、凍てついた心と体を少しずつ溶かしていくようだった。
辛うじて動く手を伸ばし、彼はユアの頬に触れる。
その柔らかな感触と体温は、アルバートが自分がまだ生きていると思える証のように、優しい温かさを伝えてくれるようだった。
「ユア……心配かけたな。ユアが呼んでくれたお陰で戻ってくることができたよ。ありがとう……そして、すまなかった。ユアを救ってくれた恩人を、命令とはいえ、まるで悪人のように扱ってしまって……」
アルバートの声は弱々しいが、その言葉には深い後悔が滲んでいた。
「今はそのことはいいですよ。それよりもお師匠さまが無事なら、私はそれだけでいいんですから」
言葉と共に、ユアの手から微かな光が生まれる。その光は彼の体を包み込み、じんわりと痛みを和らげていった。
「実はこっそり練習していた治癒の魔法を使っているんです。どうですか?少しは楽になってきましたか?」
「……ああ、確かに。ありがとう、ユア」
アルバートは、彼女の小さな手のひらから伝わる温もりに、生きる力を感じた。それはただの治癒の力ではない──ユアの心そのものが、自分を救おうとしている。それを感じさせてくれる特別なものだった。
「ずっとユアと仲直りしたかったのだが、なかなか言い出せなくてな。もっと早く伝えるべきだった。本当にすまなかった」
「私もずっと言いたかったんです。でも、どんな顔をして言えばいいか分からなくて……私こそ、ごめんなさい」
二人の間に漂う微妙な距離感が、言葉と共に溶けていく。お互いが心の奥底に抱えていた想いが、今ここで初めて交わり始めた。
「お師匠さま?前に言ったこと、覚えてますか?私をお嫁さんにしてほしいって言ったこと」
唐突な言葉に、アルバートは思わず目を瞬いたが、次の瞬間には微笑を浮かべて答えた。
「ああ、ちゃんと覚えているよ。ユアとずっと一緒にいられるなら、それも悪くないかもな」
「本当ですか!?」
ユアの目が輝きを増す。しかし、アルバートはわずかに笑いながら首を振った。
「もう少し大人になっても、ユアの気持ちが変わらないなら、そのときはきちんと答えるよ」
「なんだー。今じゃないんですか?がっかりです」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するユア。その愛らしい仕草に、アルバートは思わず声を漏らして笑った。
(こんな、なんてことのない日常が、いつの間にかこんなにも大切なものになっていたんだな……)
孤独に苛まれた日々を思い出す。
だが、今では隣にユアがいる。その存在は温かな日差しのように、冷え切ったアルバートの心を優しく包んでいた。
「帰ろうか、家に」
「もう動けますか?」
「ああ。でも、肩を貸してくれると助かる」
「任せてください!それじゃあ帰りましょう。私たちのお家に」
二人は寄り添いながら歩き出す。
星明かりが薄暗い道を照らし、そこには確かに、未来への希望が灯っていた。
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