第14-2話 揺るぎない決意
数時間後、静寂を破る音が響く。
愁が椅子から勢いよく立ち上がった音だ。
彼の手には完成した純白のドレスが握られている。その目は、夜空に瞬く星々のように輝いていた。
「できた!できたぞスフィア!ついに完成だ!」
振り返ると、スフィアはベッドの上で穏やかな寝息を立てていた。
まるで無防備な子猫のような姿に、愁は思わず苦笑いを浮かべた。
「なんだ、寝ちゃったのか。……って、今何時だ?」
時計を確認すると、作業に没頭していた間にすでに四時間が経過していた。
宴まで残された時間は、わずか一時間。
「うおっ、またやっちまったな。スフィア!起きろ、ドレスができたぞ!」
「ん……んん?おお!主様!やっとできたのか!」
「ああ。ごめんな、待たせちゃって。でも最高のドレスが仕上がったぞ!早速着てくれ、手伝うから」
愁のサポートを受けながら、スフィアはドレスに袖を通す。
生地は天使の羽衣のように軽やかで、純白に金色の装飾が光を反射して煌めく。スカートはふんわりと広がり、何層にも重なる布が立体感を与える。上半身はシンプルながらも優雅で、左肩には一輪の大きなバラが飾られていた。
鏡の前に立つスフィアの姿は、あまりにも美しかった。
艶やかな黒髪を引き立てるショートベール、首元を飾る真珠のネックレス、そしてプラチナとダイヤモンドで作られたティアラが儚い輝きを放つ。
愁はスフィアを鏡の前に導き、真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。
「見てみ。神なんて信じちゃいないけど……天界から舞い降りた女神様ってこういうのを言うんだろうな」
「そ、そんなにか?お世辞でもそこまで言われると、嬉しいな」
照れ隠しのように言い返すスフィアに、愁は真っ直ぐな声で答えた。
「お世辞なんかじゃない。本当に、最高に綺麗だよ、スフィア」
鏡の中の自分を見たスフィアは、その美しいドレスを身に纏う自らの姿に言葉を失った。
頬を赤らめながら、そっと食い入るように鏡に映る自分の姿を見つめる。
「どうだ?すごいだろ!スフィアだからここまで似合うんだぞ。本当に似合ってるよ」
「あ、あんまり言うなっ!恥ずかしいだろ……」
いつもなら「可愛いだろう?」なんてしたり顔で聞いてくるスフィアなのだが、今日はいつもとは毛色が違うようで汐らしいままだ。
しかしどうであろうとスフィアに作ったこのドレスはスフィアが着てこそのこの完成度だ。
(これは会場でもかなり目立つだろうな。なんだか今から既に得意気な気持ちにすらなるぞ)
「よし、宴もそろそろ始まるし、一緒に会場に行こうか?」
「そ、そうだな!行くか!」
「それじゃあ」
「ん?なんだその手は?」
愁から差し出された手を不思議そうに眺めるスフィアに、愁はまるで迎えに来た王子様のように上品に言う。
「お手をどうぞ。お姫様?」
その瞬間、スフィアは息をのんだ。
鏡に映る自分と、愁の真剣な眼差し。今日のために愁が用意してくれたこのドレスは、まるで自分だけの物語の始まりを告げているかのように思えて、今ははしゃいでいる場合ではないと理解していながらも、湧き上がる気持ちが胸をいっぱいにしていく。
そんな中、愁の左手の親指が中に入り、軽く握られた拳が体の正面に持ち上げられる。
それはまさに、エスコートのポーズだった。
「ふふ、似合わないぞ主様。でも……まぁ悪い気はしないな。エスコート、よろしく頼むぞ王子様?」
スフィアの声には微かなからかいが混じりつつも、どこか嬉しそうな響きがあった。
彼女は一歩後ろから近づくと、愁の左腕にそっと右腕を絡め、軽く組み合わせる。その仕草は自然で、まるで長年の信頼関係を象徴しているようだった。
二人の姿は、光と影が織り成す美しい絵画の一場面のようだ。淡い灯りが二人の輪郭を優しく縁取り、互いの体温が伝わるたびに心臓が鼓動を速める。その瞬間に漂う空気は特別で、まるで時間が静止したかのように感じられた。
荘厳な音楽がわずかに漏れ聞こえる廊下を、二人はゆっくりと歩みを進める。
磨き上げられた大理石の床に響く足音が、静寂の中に心地よいリズムを刻む。他の存在は遠ざかり、この瞬間だけは二人の世界に何者も立ち入ることはできない。
(この時間を、永遠に記憶に留めたいな……)
スフィアの胸の内に去来する思いを知る者は誰もいない。
しかし、彼女の横顔に宿る穏やかな表情が、言葉以上にその感情を物語っていた。
やがて、会場へ続く大扉の前に辿り着く。
そこには、普段よりも華やかな礼装に身を包んだ二人の兵士が静かに立っていた。
愁とスフィアが近づくと、彼らは同時に礼を取った後、扉をゆっくりと開く。重厚な扉が静かに動き、煌びやかな光が廊下に流れ込む。
中には、豪奢な衣装に身を包んだ帝国の王族や貴族たちが所狭しと集い、優雅な時間を楽しんでいた。
会場に漂う香りやきらめくシャンデリアの光が、息を呑むほどの華やかさを演出している。その中へ足を踏み入れるには、相応の覚悟が必要だ。
(臆してどうする。スフィアを連れてきた以上、堂々としなければ……)
愁は内心の緊張を抑え込むように、背筋をピンと伸ばした。そして一歩、また一歩と会場の中へ足を進めた。
その瞬間、扉を開けた兵士が朗々と声を響かせる。
「皇帝陛下特別招待者、八乙女 愁様並びにその従者スフィア様のお二方、ご入来です!」
愁はその声に思わず目を見開いた。
自分が『皇帝陛下特別招待者』として呼ばれているのは知っていたが、まさかここまで大袈裟な扱いを受けるとは思っていなかったのだ。
場内の人々が一斉に彼らの方へ視線を向ける。
その視線は、決して敵意や好奇の目ではない。貴族たちの洗練された立ち居振る舞いが、その視線にまで表れていた。
愁は軽く頭を下げ、静かに一息をつく。
そのとき、華やかな人混みの中から一人の若い貴族が現れた。ライトだ。彼は軽快な足取りで愁たちの前まで進み出ると、満面の笑みを浮かべた。
「愁さん!待っていましたよ。スフィアさんもとてもお美しいですね。さあ、ぜひこちらへ。私の父がご挨拶したいとのことです」
「はい、わかりました。行こうか、スフィア」
「うむ!」
スフィアの返事は朗らかで、揺るぎない自信があった。
愁は彼女の堂々たる態度に感心しながらも、自分の緊張を隠しきれず、それでも平静を装い、前を歩くライトの後に続く。
大広間へ向かう途中、貴族たちの中を進むと、時折、スフィアの亜人族の特徴に気付き、不快そうな視線を向ける者がいた。
それでも、アイラフグリス王国と比べればその数はごく少数だ。この国を治めるノヴァン二世の政策が、確かに人々の意識を変えつつあるのだろう。
奥へと進むと、幾人かの人物が円を描くように集まっていた。
そこに立つのは、年齢層が高めの初老の紳士たち――貴族の当主らしき者たちだった。その姿勢や佇まいには、年月を重ねて得た威厳と品格が漂っている。
ライトはその中でも一際風格のある、立派な髭を蓄えた紳士の前で足を止め、深く頭を下げた。
「お父様。こちらが私の師であり、帝国の兵たちをアンデッドの脅威から救った八乙女 愁さんです」
その言葉に応えるように、髭の紳士――ルズロフ・シィラビュロン伯爵は微笑み、愁に目を向けた。
「ほう、数万のアンデッドを一撃で葬った英雄と陛下から伺っておったが、これほどお若いとは驚きだ。初めまして、ルズロフ・シィラビュロンだ。陛下より伯爵位を賜る身として、君に敬意を表するよ。ようこそ、ガバレントの英雄よ」
その落ち着いた声音と深い眼差しに、愁は一瞬気圧されながらも、すぐに笑みを浮かべて礼を返す。
「お初にお目にかかります。ルズロフ・シィラビュロン様。八乙女 愁と申します。ご丁寧にありがとうございます。若輩者ではありますが、どうぞよろしくお願い致します」
差し出された手をしっかりと握り返す愁。その場の貴族たちはそのやり取りを目にし、次々に愁のもとへと集まり始めた。
挨拶の嵐が吹き荒れるように、愁の周囲には名乗りを上げる者が絶え間なく押し寄せる。
一方、スフィアもまた、少し離れた場所で貴族の奥方たちに囲まれていた。
その目はスフィアの装いに釘付けで、ドレスやアクセサリー、彼女の礼儀正しい仕草を称賛しながらも、次々と質問を投げかけている。
愁は遠くから彼女の様子を見守りながら、内心安堵した。
(あれだけ質問攻めにされてるのに、全然動じてない。さすがだな……)
スフィアは幼い頃から礼儀作法を徹底的に教え込まれていたそうだ。貴族たちの中で物怖じすることなく振る舞うその姿は、まるで本物の貴族の令嬢のようだった。
やがて、愁もスフィアもそれぞれの挨拶を終え、再び顔を合わせる。
スフィアの表情には少しばかり疲労の色が見えたが、それを愛らしい仕草で隠すように手を伸ばし、愁の袖を軽く引く。
「主様……我は疲れたぞ」
その言葉に、愁は思わず苦笑しながら頷いた。
「ああ、スフィア……俺もだよ」
二人の顔には安堵と微笑みが入り混じり、その瞬間だけは穏やかな空気に包まれていた。
しかし、宴はまだ終わりではない。皇帝陛下の登場と挨拶、そして最後を飾る華やかなダンスが控えている。
愁はその胸中に、この試練を乗り越えなければならないという決意を刻み込み、隣のスフィアと共に再び歩みを進めるのだった。
しばらくして、会場の隅、愁とスフィアが飲み物を片手に少し休憩していると、大扉が重々しく開かれる音が響いた。
視線を向けると、そこに現れたのはラリアガルド帝国の皇帝ノヴァン二世だ。その後ろには、帝国軍の元帥ガラドルが控え、皇帝付き秘書のユーリアが華やかな装いで続く。
扉を開けた兵士が力強く宣言する声が、荘厳な空間に響き渡る。
「ノヴァン二世皇帝陛下並びに帝国軍元帥ガラドル閣下、御入室です!」
その瞬間、会場内は盛大な拍手に包まれた。ノヴァン二世とガラドルが堂々とステージへ向かい、皇帝は王座に腰を下ろす。
その威厳たる姿に、王族や貴族たちは一斉に跪き、深く頭を垂れた。
ノヴァン二世の声が低く、だがよく通る響きで会場に広がる。
「皆、忙しい中よく集まってくれた。今宵の宴は、陸傑死団からのガバレント奪還成功を祝うものだ。我が帝国の兵士たちの勇気、そして帝国を支える貴族たちの協力に感謝する機会でもある。そして、この場にはその勝利に多大な貢献を果たした英雄たちがいる。八乙女 愁とその従者、スフィアだ。彼らの勇姿に拍手をもって讃えよう!」
ノヴァン二世の言葉に応え、会場は歓喜に沸き立つような拍手で満ちた。
そのすべてが愁とスフィアに向けられていることに気付き、二人は少し気恥ずかしそうに、それでも上品に一礼して応えた。
「皆、私からの挨拶はこれで以上だ。どうぞ、残りの時間は思い切りダンスを楽しんでくれたまえ」
ノヴァン二世の挨拶が終わると、跪いていた者たちが立ち上がり、宴が再開された。
上品な旋律が流れ始め、貴族たちは次々とダンスを踊り始める。
愁とスフィアはその光景を眺めながら静かに飲み物を口にしていたが、突然、一人の若い貴族の男がスフィアに声をかけてきた。
「スフィア様、よろしければ私と一曲踊っていただけますか。貴女の美しさはまさに美の女神が舞い降りたかのようです」
優雅な物腰、完璧な礼儀作法、そして甘い声。それを聞いた愁は、心中で少しムッとした。
(なんだ、どこの馬の骨か知らないが、いけ好かないやつだな……)
帝国の貴族とはいえ、誰ともわからない男にスフィアが触られることが気に食わないと思った愁が男に声をかけようとするが、スフィアの返事の方が早かった。
スフィアは穏やかに、だが毅然とした態度で応じる。
「お誘いありがとうございます。しかし、私には心に決めた方がおりますので」
そして、彼女は愁に向き直り、手を差し出す。
「愁様、私と踊っていただけますか?」
「え?あ、うん。行こうか」
愁はスフィアの手を握り、会場の中央へ向かう。
目立つ二人の姿に、周囲の視線が自然と引き寄せられた。
帝国でも未だ偏見の対象である亜人族のスフィアが、その美しい容姿とドレス、優雅な佇まいで放つ存在感。そして、異国の正装である黒スーツに身を包んだ愁。
二人の姿は異質でありながら、特別な輝きを放っていた。
「いきなりあんな言葉遣いで話しかけるから、驚いたよ」
途中、愁が少し苦笑しながら言うと、隣のスフィアは鼻を軽く鳴らして腕を組む。
その姿にはどこか誇らしげな色が滲んでいた。
「我だって、あれくらいの振る舞いはできるぞ!それよりも主様、踊れるのか?我は大丈夫だが」
煌びやかな会場を見渡すと、先程から踊りの輪を描く貴族たちの姿が目に入る。流麗に舞う彼らのステップは、愁がかつて学んだダンスとは似ても似つかない。
しかし、この世界に来てから幾度となく感じた『違和感』に比べれば、今更驚くことでもなかった。
(まあ、それでも……)
愁は内心で肩をすくめた。
自分がかつて頃に身につけたダンスならば、この場で通用する可能性もある。踊れるかどうかよりも、エスコートを任される立場としての覚悟が重要だ。
「大丈夫、大丈夫。スフィアは俺に合わせてくれればいいから、エスコートは任せてくれ」
胸を叩いて自信を示す愁に、スフィアは少し疑わしげに眉を上げたが、やがて小さく笑って頷いた。
「そうか?なら、そうしよう」
舞台の中心に足を踏み入れると、心地よい緊張感が愁を包む。
楽団が奏でる音楽は、優雅なワルツの調べ。愁はそっとスフィアの手を取り、最初のステップを踏んだ。
スフィアの衣装が映えるよう、回転を多用した動きで魅せる。その動きは波のように滑らかで、息が合った二人のステップは観客を惹きつけてやまない。
「本当に踊れるんだな……!」
小声で驚きを漏らすスフィアの言葉に、愁は小さく笑う。
「言っただろ?エスコートは任せろって」
スフィアも次第に愁のリードに合わせ、踊りに集中していく。
二人の見慣れないステップに周囲の貴族たちも目を奪われ、ざわつきが次第に広がっていくのが感じられた。そして最後の音に合わせ、二人は優雅に身を翻して一礼をする。
次の瞬間、会場中に割れんばかりの拍手が響き渡った。
「どうだ?なかなかだろ?」
「そうだな!初めて見た踊りだが気に入ったぞ!」
その後、拍手の渦の中を抜け、二人は人混みを避けて外のテラスへと向かった。
冷たい夜風が頬を撫で、遠く星が瞬く空が広がる。
愁はふと息を吐き出し、その白い息が夜空に溶けていく様子をぼんやりと見つめた。
「どうしたのだ、主様?」
寄り添うように傍に立つスフィアが問いかける。
その声には、愁を気遣う優しさが滲んでいた。愁は少し考え込み、やがて静かな口調で答える。
「いや、明日はやっとリリーを探しに行けるなって思ってさ」
スフィアは小さく頷き、ふわりと笑みを浮かべる。
「そうだな。必ず助けよう。それと、今度はちゃんと頼ってくれよ、主様?」
その言葉に、愁は微笑んで答える。
「もちろんだよ。頼りにしてる、スフィア」
気づけば、愁はスフィアの手を優しく握っていた。
冷たい風の中にも温かさを感じるその手を引き、愁は静かに会場へと戻る。
胸の中に芽生えた明日への期待と、不安に揺れる焦り。だがそれ以上に、必ずリリーニャを助け出すという揺るぎない決意が、愁の心に強く灯っていた。
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