第5話 悪夢の再来と優しさの温度
「はぁ、はぁ!な、なんなんだっ!」
肺が焼け付くように痛む。呼吸するたびに胸が強く締めつけられ、喉が渇いて苦しい。普段、走ることなんてしないせいだ。久しぶりに全力で長い距離を走っているため、ふくらはぎがパンパンに張り詰め、太ももには鈍い痛みが広がっている。しかし、止まるわけにはいかない。ここは住宅街の外れ、誰も通らない静かな路地裏だ。誰一人助けてはくれない。
だからこそ、後ろから追ってくる男たちがいる限り、絶対に止まることはできなかった。
「止まれ!このっ!亜人のガキが!」
後方から響く怒声、追いかけてくる男たちの声が耳に突き刺さる。見覚えのない男たちだが、彼らの首や腕に彫られている入れ墨には覚えがあった。あれは――陸傑死団の印。盗賊団の象徴だ。一度壊滅したと聞いていたはずの陸傑死団の刺青を、どうして今ここで目にするのか。頭の中で疑問が駆け巡るが、今は考える余裕もない。ただ、走り続けることだけが全てだった。
「どうしてっ、どうして陸傑死団の奴らが!……うわっ!」
疲労が限界に達した足がもつれて、シャウラは勢いよく前方に倒れ込んだ。地面に激しくぶつかった場所は、じんじんと熱を帯び、ふくらはぎは痛みで痙攣している。膝も擦りむけ、ざらざらとした地面に削られてズキズキと痛む。シャウラはすぐに立ち上がろうとしたが、酷使した足の筋肉が攣り、再び地面に伏してしまった。
「なんで、こんな……」
必死に這いつくばって逃れようとするシャウラ。しかし、そんな遅い動きでは到底逃げ切れるはずもなく、男たちにあっという間に囲まれてしまった。
「なんだよこいつ、もうぶっ倒れてんじゃんかよ」
「へへっ、こいつはドワーフの女か?こりゃ高く売れるぜ……」
男たちは短剣やナイフを手にし、不気味に笑みを浮かべながらシャウラを見下ろしている。全員の目が血走り、欲望と悪意に満ちた視線が彼女をなめ回していた。その目は――あの時と同じ。かつて、家族を惨殺した奴らの目と全く同じだった。
「なんだよ、お前ら!あたしに何の用があるんだ!」
恐怖で声が震えながらも、シャウラは必死に抗おうと叫んだ。だがその叫びに、男たちはさらに楽しそうに笑い出す。そして、一人の男がシャウラの前にしゃがみ込み、乱暴に彼女の髪を掴み上げた。
「はぁ?生意気な亜人だなあ、おい!」
「ぐっ……やめろ!」
必死に振りほどこうと手を伸ばすシャウラ。しかし、そのか弱い手でできるのはせいぜい男の手を掻くことくらいだった。シャウラの抵抗に怒りが増したのか、男は髪を掴んでいた手を放し、シャウラの口を強引に押さえつけた。これから行われることに対して、彼女が悲鳴を上げないようにするためだ。
「おい、やってやれよ」
仲間に目配せをした男。その合図を受け、別の男が短剣を構えてゆっくりとシャウラの太ももに向け、真っ直ぐに突き刺した。
「──っ!」
鋭い音が路地裏に響く。それは、短剣が太ももを貫き、地面に突き立てられる音だった。シャウラは、口を押さえつけられているせいで、悲鳴を上げることもできず、痛みに顔を歪め、ただ涙を流すしかなかった。全身が震え、激しい痛みによって体が痙攣するのを、男たちは笑いながら見ている。
「見ろよ、痙攣してやがる!次はもう片方もやってやれよ。腕はやめとけよ?売り物だからなぁ!」
「んぐっ……んー!んーっ!」
シャウラは必死に声にならない声で懇願する。痛い、怖い、やめてくれ、と。だが、男たちにその声は届かない。届いたとしても、彼らはその叫びを無視して楽しむのだ。彼らはこの残酷な行為を――心から楽しんでいるのだから。
(あの時と同じだ……)
シャウラの頭の中に両親が命を奪われたその光景がフラッシュバックする。目の前で、父と母の大切な手が一つ一つ、指から関節ごと切り落とされ、彼らが苦痛に歪む顔を見て笑っていた盗賊たち。その時の恐怖が、今再びシャウラを襲う。
たとえシャウラがどれほど力を持っていても、この六人の大人に太刀打ちできるはずがない。左足には短剣が深く突き刺さっているため、少しでも動こうとすれば激しい痛みが襲う。どうすることもできず、されるがままの状態だった。
「さあ、次は自分の目で見ろよ、足に剣が刺さるところをな」
男はシャウラの顔を強引に右へねじり、右足が見えるように無理やり向かせた。
「ぐっ……!」
首の筋がブチブチと音を立てて裂け、耳鳴りが頭の中で響き渡る。シャウラは薄れゆく意識の中、朧げながらも自分の右足に再び短剣が近づくのを見せつけられていた。剣先がゆっくりと太ももに触れると、皮膚がわずかに凹み、やがてじわりと血が滲み出す。そして、無情にも肉に深く沈んでいく剣先。恐怖に朦朧とする意識の中で、シャウラの胸を満たしていたのは痛みではなく、ただひたすらに募る『恐怖』だった。
そして、意識が途絶える寸前、ふと脳裏に浮かんだのは──今日、工房に訪れた片足を失くした少女の顔だった。
(きっと、バチが当たったんだろうな)
シャウラはぼんやりとそう思った。
あのとき、困って訪ねてきた少女を、あんな冷たい態度で追い払ったからだ。だから、今こうして死ぬ間際にその少女の顔が浮かんできたのだろうか。もう何もわからない。ただ、一瞬、あのときの少女が自分の上に覆い被さる姿を見た気がしたが、すぐに意識は闇へと沈んでいった。
「……おね……ちゃんっ!」
(何か、誰かが呼んでいる……気がする──)
「おねーちゃん!目を開けて!」
「あ、あれ……?」
「良かった!目が覚めた!」
ぼんやりと目を開けると、そこには少女の姿があった。今はっきりと意識が戻るまで、一度しか会ったことのない少女だと気づく。今日、人族の男に抱かれて工房に来ていた、片足を失くしたという少女──リルア。彼女はシャウラの頭を自分の太ももに乗せている。状況が掴めないシャウラが周囲を見回すと、先ほどとは異なる路地裏らしき場所に横たわっていることが分かった。
(まだ、生きてる?)
シャウラは痛みを感じながらも、自分がまだ生きていることを理解する。ズキズキとした痛みが左足を中心に広がり、まるでそこに心臓があるかのように脈打っている。しかし、布で巻かれているおかげで出血は幾分か抑えられていた。右足に目を向けると、剣を突き立てられたはずの箇所は、皮膚が少し裂けただけで軽傷だった。
自分の状況を確認しつつ、シャウラはリルアの顔を見上げる。そこには、見た目は可愛らしいが、所々に血と擦り傷がある顔があった。目は充血し、涙が赤い線となって頬を伝っている。
「お前……今日工房に来ていた……」
「うん!私、リルア!」
リルアは明るい声で自己紹介をする。それがかえってシャウラを面食らわせた。
(こんな状況で、どうしてそんなに明るく振る舞えるんだ?)
「あ、ああ……いや、そうじゃなくて……あたしを助けてくれたのか?」
「え?うん!追いかけられているのが見えたから!」
「見えたからって……どうやって助けたんだ?」
「私ね、転移の力が使えるの!だから、おねーちゃんを転移でここまで運んだんだ!ただ、ちょっと力を使いすぎちゃったから、しばらくは使えないけど……」
「そ、そうなのか……その、ありがとうな……助かったよ……」
リルアの言葉にシャウラは一つの答えに至った。彼女の目が赤く充血し、涙の跡が赤いこと──それは、魔眼の使用による副作用だ。魔眼使用者は、その力を酷使しすぎると瞳から血の涙を流すというのは、誰もが知っていることだ。つまり、リルアは自分を助けるために、限界を超えてその力を使ったのだ。
「えへへ、無事でよかった!少し休めば、力も回復すると思うからね。おにーちゃんのところに戻れば、すぐにおねーちゃんの傷も治してもらえるよ!」
「あの男は……癒術師か何かなのか?」
「ううん、違うよ!おにーちゃんは王さまなの!みんなの幸せのために戦う、強くて優しい王さまなんだよ!」
「王様?」
シャウラはリルアの言葉を理解できずに眉をひそめたが、今は、リルアの無邪気な語りが妙に心地よく感じられていた。恐怖で疲れ果てた心が、その無邪気さに癒されているのだろうとシャウラは考える。リルアの輝く瞳で語る姿を見ていると、不思議と悪くない気持ちになった。
だが、その束の間の安らぎも、すぐに打ち破られた。近づいてくる足音に、二人は緊張の色を見せる。
「今の音……まさかさっきの連中か?」
「ど、どうしよう……まだ力は使えないし、私、立てないよ……」
状況は最悪だ。シャウラもリルアも立つことができない上に、頼りのリルアの魔眼の力も回復していない。二人は震える体を寄せ合い、ただ祈るしかなかった。しかし、その願いは虚しく、路地の角から姿を現したのは、追ってきた男の一人だった。
男はシャウラとリルアを見つけると、口元をいやらしく歪めて笑う。
男の声が、路地裏に響き渡る。
「見つけたぞ……おーい!いたぞ!こっちだ!」
その声が周囲の男たちを呼び寄せる。もはや仲間が集まるまで時間の問題だった。今のシャウラには、目の前の男一人を倒す力すら残されていない。絶望感が体中に広がり、先ほどの恐怖が再びシャウラを支配する。彼女の体は小刻みに震え始めた。
(情けないな……自分よりも幼い少女の前で、守ることもできずにただ震えているなんて……)
その自嘲の思いを打ち砕くかのように、急にリルアがその小さな体でシャウラを庇うように覆いかぶさった。
「お、お前!やめろ!お前だけでも逃げろ!」
シャウラは震える声で叫ぶが、リルアは首を横に振るだけで、その場を離れようとしない。
「やだ!おねーちゃん、私と同じだもん!家族を陸傑死団に殺されて、ずっと寂しかった……だから!一人になんてしたくない!」
リルアの言葉は、シャウラの心に深く突き刺さる。それは、シャウラがずっと避けてきた『人の温かさ』だった。
シャウラは分かっていた。人族の中にも優しさを持つ者がいるということを。工房のみんなも、素っ気ない態度をとる自分にも優しく接してくれていたのだから。だが、子供の頃に受けた傷が深く、他人を信じることが怖かった。優しさに触れることで、また傷つくかもしれないという恐怖があったのだ。関係を築かなければ、裏切られることもない――そう思ってずっと逃げ続けていた。
けれども、今、この瞬間、リルアの純粋な優しさに触れたシャウラは、その心の壁が崩れるのを感じた。
優しさは、逃れられないほど胸に広がり、シャウラはその温もりを手放したくないと強く思った。いや、放したくない――いや、絶対に放さない。強く、強く、彼女はリルアを抱きしめた。その小さな体は、信じられないほどに温かかった。
「温かいな……リルア……?あたしも……一人はもう嫌だよ……」
シャウラはリルアの耳元で囁きながら、目をぎゅっと閉じる。迫りくる恐怖と、すぐに訪れるはずの死から目を背けるために。
「なんだあ?気持ち悪い茶番見せつけやがってよ……すぐに続きやってやるからな!ん?おい!こっちだ、こっち!」
男は新しい足音に反応し、仲間が来たことを知らせる。その音が近づいてきた時、シャウラの心は静かに終焉を受け入れかけていた。
(ああ……本当にこれで終わりか。こんなにも温かい優しさを知って、死ぬなんて――)
心残りは、目の前のリルアを巻き込んでしまったことだ。この子の笑顔をもっと見たかった。そして、新しい足で元気に走り回る姿を見たかったと、シャウラはそう、思ったのだった。
「ごめんな……」
シャウラが小さく呟いたその瞬間、重い「バタン」という音が響いた。硬いものが倒れる音ではなく、どこか柔らかなものが倒れる音――それに似た音だった。
シャウラは恐る恐る目を開け、音のした方を見やると、目の前に立っていた男が、白目を剥いて倒れていた。
「ひっ……!」
その異様な光景に、シャウラは息を飲んだ。すると、倒れた男の背後、路地の角から一人の少年が現れた。その少年には見覚えがあった。黒髪に黒い瞳、黒い異国風の正装を纏った少年は、安堵の表情を浮かべ、微笑んでいた。
「よかった……無事でしたね。リルア、エルンストさん、もう大丈夫です」
シャウラを庇って震えていたリルアは、その声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。そして、愁の姿を見ると、安堵のあまり大粒の涙をこぼし、声をあげて泣き出してしまった。
「おにーちゃん……怖かったよぉ……」
愁は泣き出したリルアを優しく抱き上げ、その頭をそっと撫でる。必死に頑張った小さな勇者を、労うかのように。
「よしよし、怖かったね。でも、もう大丈夫だよ。ちょっと待ってね、まずはエルンストさんの治療をするから」
「う、うん!早くおねーちゃんを治してあげて!」
「りょーかい!まずはエルンストさん、これを飲んでください」
愁はシャウラに小さな瓶を差し出した。瓶の中には、不思議な色をした液体が揺れている。シャウラは怪訝そうに瓶を受け取り、その中身を見つめる。
「これは……?」
「回復薬です。正確には、回復魔法が込められた液体ですね。傷が治りますから、早めに飲んでください」
シャウラは瓶を手にしながら、ふと愁の顔を見上げた。そこには、どこか安堵した表情が浮かんでいる。
「あ、ありがとう……それじゃあ……ん?えっ?傷が……嘘だろ……?」
驚く間もなく、つい先ほどまで激痛を感じていた左足の怪我が、一瞬で癒えていた。右足の切り傷も、膝の擦り傷も、首の痛みさえも、まるで最初から無かったかのように消え去っている。まるで伝説とされる『神水』を飲んだかのようにだ。シャウラは驚愕していた。
「よかった。もう痛みは無いですか?」
愁の声に我に返り、シャウラはかすかに頷く。
「あ、ああ……もう大丈夫だ」
「それじゃあ、夜も遅いですし。今日は一旦、俺の家に来ませんか? とは言っても、正確には俺の家じゃないんですけどね」
「え? 俺の家? いや、良いのか?」
「ええ。ぜひ、どうぞ」
シャウラが戸惑う間に、愁はリルアにも同じ回復薬を飲ませ、彼女の腰に手を回して支える。
「それじゃあ、エルンストさん。少し失礼しますね」
「え? な、何を……きゃっ!」
もう片方の腕でシャウラの腰をしっかりと掴む。突然、強く抱き寄せられたシャウラは、一瞬驚いて頬を赤らめた。その反応に愁も戸惑ったが、変に反応してしまうとシャウラがさらに恥ずかしがると思い、黙ってスルーすることにした。
そのまま愁は自作の〈飛行〉の魔法を込めた魔石を手にし、その効果で地上から浮き上がる。だが、その瞬間、散らばっていた盗賊の一人が路地裏に現れた。男は、倒れている仲間の姿を見ると、怒りの表情で愁を睨みつける。
「お前がやったのか! くそっ!ぶっ殺してやる!」
男は腰の短剣を引き抜き、襲いかかってくる。リルアもシャウラもその動きに体を強張らせた。しかし、愁はまるで虫を見るかのような冷めた目で男を一瞥し、軽々と足で蹴り飛ばした。
「ぐあっ!」
男は数メートル吹き飛ばされ、奥の壁に叩きつけられ、そのまま気を失って倒れ込んだ。シャウラはその光景に目を見張り、愁と気絶した男を交互に見つめながら、呆然とした声を漏らした。
「お、おお……あんた、強いんだな……」
「え? いや、ただの盗賊ですからね。あのくらいは……それより、しっかり捕まっていてください。今から飛びますよ」
「え? 飛ぶって何のこと……きゃあっ!」
シャウラの言葉が終わる前に、愁は二人の腰をしっかりと掴み、ふわりと夜空へ飛び上がった。路地裏からライトの私邸までは少し距離があり、歩いて戻るには時間がかかりすぎる。しかし、今は深夜で人気もほとんどなく、空を飛んで向かっても目立つことは無いだろうと愁は判断したのだ。
初めての空中飛行に、シャウラはその景色に目を奪われた。月明かりに照らされた街並み、城のシルエット、自分が働く工房──どれもがいつもより小さく見え、その全てが神秘的に美しく感じられた。空に瞬く星々や頬を撫でる風も、どこか暖かい。
それもこれも、さきほどリルアの優しさに触れたからなのだろう、とシャウラは静かに思った。彼女の目がリルアと合うと、二人はお互いに微笑み合った。無言の中に、ただ一つの優しい絆が生まれた瞬間だった。




