第9.5話 終わりを告げる道化
その光景は『圧巻』という他なかった。
広大な平原を埋め尽くさんばかりに集まった兵士たちが、すべての注意を捨て、敬意をもって地に膝をつき、頭を垂れている。その眼差しは目の前の敵など見向きもせず、ただ一人の存在に向けられていた。
空から降り立った精霊王ルゼは、アルバートたちを一瞥したのみで、まるで興味がないと言わんばかりに彼らに背を向ける。そしてその鋭い眼差しは、彼を崇める兵士たちに向けられた。
(今こそ好機のはずだ……だが──)
アルバートの内心は焦燥に揺れるが、どうしてもその一歩が踏み出せない。目の前のルゼの背に向けて剣を振るおうとする度に、脳裏をよぎるのは『死』という冷酷なイメージだった。騎士道に背き、背後から斬りかかるなど本来考えもしないことだが、仮にその禁を犯したとしても──ルゼに自らの刃が届くとは到底思えなかった。それほどに、彼との『力の差』は歴然としていた。
膝を屈する兵士たちに向け、ルゼは静かに労いの言葉を投げかける。
「皆、大義である。精霊を冒涜し、本来守るべき民や家族でさえ危険にさらすキアナ国王は、もはや断じて許せぬ存在だ。我らが急ぎ進むべき道は決している……が、どうやら我らの行く手を阻む愚か者がいるようだな」
そう言ってルゼは振り返り、立ち尽くしているアルバートを鋭く見据える。
「後ろから斬りかからないのは、腐っても騎士というわけか。だが何故だ、何故我らの道を阻む?これは聖戦であるぞ。キアナ王国をも救うための戦なのだ」
ルゼの問い掛けは、嘲笑に近い。アルバートは唇を噛み締めた。
(斬りかからないのではない……斬りかかれないだけだ)
アルバートには、ただ立っているだけで周囲を制するルゼの圧倒的な存在感が理解できていた。まるであらゆる隙をも拒む、絶対的な殺気と威圧感に包まれているのだ。
「問答は無意味だ。私はただ、私の信じる王に従うのみ。この剣、この命、すべては我が王のためにある。どんな命令であれ、私は遂行する」
「どんな命令も……か。悲しいものだな。そのために、その“忌々しい力”を振るうのか。訂正しよう。貴様は騎士などではない。もし騎士であれば、その力を使うことはなかっただろう」
途端に、空気が変わる。
それはただの殺気や威圧感などではない──もはやそれらを超越した、『絶対の敗北』がその場に立ちこめたかのようだった。アルバートの中で、ルゼの発した“忌々しい力”という言葉が反響する。だが、勇者の力は神から授かった“聖なる力”であるはずだ。忌々しいものなど、あるはずがない。
「何を言っている。この力が……なんだと言うんだ!」
アルバートの怒りの叫びに対し、ルゼは冷淡に応じる。
「問答は、不要なのだろう?もうよい。貴様の歪んだ志、粉砕してくれる」
そう言うと、ルゼは手にした剣を掲げた。刀身は炎の揺らぎのように波打ち、灼熱の炎に包まれている。これは精霊剣フィアル──火の大精霊を宿した伝説の武器。歴代の精霊王が用いるこの武器は、子供でも知っている神話に語られる代物だった。
「精霊剣フィアルよ!裁きの炎をもって、穢れた魂を浄化せよ!」
天に轟く声とともに、炎は天を突くほどに燃え上がり、アルバートめがけて振り下ろされた。凄まじい熱量が地をえぐり、枯れた草木が瞬く間に燃え尽きる。その炎は、まるで太陽そのものが彼に襲いかかってくるかのような圧倒的な威圧感と力を放っていた。
(なっ!に、逃げられない……だと?これほどの力では、一歩も動けずに……!)
一瞬、彼の脳裏をよぎるのは後方にいる二人の仲間のこと。距離はある。自分がやられた場合はすぐに逃げるよう伝えてある。彼女たちが無事ならば、それで──
「アルバートさん!!」
諦めかけたその時、自分の名を呼ぶ切迫した声に意識が戻る。ふと目をやると、青い髪をなびかせ、必死に立ちはだかる少女の背中が見えた。小柄な体にも関わらず、彼女の姿は頼もしかった。
「クミラ!何故ここに!駄目だ!このままでは君まで……!」
「大丈夫ですっ!……もう、解析は終わりましたっ!」
クミラは叫び、手を前に突き出し、震える腕で魔術による結界を次々と展開していく。しかし、彼女の魔力をもってしても完全には相殺できない熱が彼女の手を焼く。じわじわと焼けただれた両手から血が滴り、地面を赤く染めた。
それでもクミラは右手で自身の血を使い、空中に文字を刻み始めた。見たこともない文字を刻む彼女の手には、迷いがなかった。
「これで……どうだっ!」
クミラの声が響くと同時に、彼女が己の血を捧げて編み上げた自己崩壊術式が発動した。ルゼが放った裁きの炎は、その術式により無慈悲にも解体され、勢いを失いながら宙に散り散りに消えていく。
「はぁ、はぁ……や、やった……できた」
膝をつき、クミラは震える呼吸を整えようと必死だった。その顔には安堵と達成感が浮かんでいるが、神話の時代から存在する精霊武器を打ち消すことは容易ではない。彼女の体力はすでに半分以上も削られていた。
アルバートが駆け寄り、心配そうに声をかける。
「クミラ!大丈夫か!? なんて無茶を……」
「え、えへへ……だってアルバートさんに、もう会えなくなるのは……私、嫌ですから」
その笑顔に、アルバートの胸に刺さっていた諦めの棘が溶けるように消えていく。クミラの強さ、前に進むその決意が、彼の中に眠っていた勇気を呼び覚ましていた。
しかし、諦めていないのは彼女だけではない。背後から、もう一人の声が響く。
「お師匠さま! クミラさん!」
振り返ると、短い栗色の髪を揺らしてユアが駆け寄ってくる。その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「ユア、お前もか……」
アルバートが言葉を紡ぐ前に、彼女は毅然とした態度で言い放つ。
「何言ってるんですか! 何でも一人でやろうとするのはお師匠さまの悪い癖ですよ! 今は三人いるんです! 生きるも死ぬも三人で! そうでしょ、お師匠さま?」
その言葉が、彼の中で長年積み上がっていた壁を打ち砕いた。守るべき存在としか見ていなかった二人が、同じ意志を持って彼の横に立っている。彼女らの信頼に応えなければならない、そう強く感じた瞬間だった。
「そうだな。悪かったよ……共に戦ってくれ」
アルバートは心の中で決意を新たにし、仲間たちに指示を飛ばす。
「ユア、すぐにクミラの手を治療してくれ。クミラは治療が終わるまで休んでいてくれ。それまで、私が必ず守ってみせる」
彼が二人の前に立つと、砂煙が晴れ、視界の先に再びルゼが立ちはだかっていた。冷ややかな表情を浮かべる精霊王は、まるでこの戦いを退屈そうに眺めているかのようだ。そして、その目が冷笑の色を帯びる。
「ほう……我が裁きの炎を受けてなお、生きているか。ならば」
そう言いながら、ルゼは禍々しい闇を纏う黒い杖を手に取る。その杖からは絶え間ない闇の波動が放たれ、空気すらも歪めていた。次なる攻撃の恐ろしさを感じ、アルバートは体に力を入れた瞬間、地面から無数の鎖が現れ、ルゼやその後ろに控える兵士たちを縛り上げた。
鎖は不気味に鈍い光を放ち、精霊王であるルゼでさえその動きを制限される。ルゼは信じられないようにその場に凍りつき、低く呟いた。
「これは……まさか……」
その表情から余裕が消える。これは『統一大精霊の現界』──精霊を無理やり顕現させる禁術であると気付いたからだ。その禁忌の力によって、エルフ族である彼らを拘束するための『種を縛る鎖』が現れた。そして、やがて統一大精霊が目覚めれば、エルフ族の魂は無差別に吸収され、暴走を引き起こすことになる。
ルゼは瞬時にその状況を理解し、憤りを露わにした。
「アバルダめ……やってくれたな」
その時、ルゼの手にしていた統一大精霊の羽が、ひとりでに輝き出し、鎖を断ち切る。羽から語りかけられる統一大精霊の意思──無理やり現界させられた不完全な存在を止めよ──という強い願いが彼に伝わった。
ルゼはアルバートたちを冷たく見据えると、静かに言葉を紡いだ。
「アイラフグリスの勇者よ、お前たちを構っている時間はなくなった。お前たちも感じただろう?マリネアの方から流れてくる禍々しい力の波動を……あれは、すべての種族を滅ぼしかねない災厄だ。故に私はマリネアに向かう」
そう言い残し、ルゼはすぐにナイヤの拘束を解き、キアナ国王首都マリネアに向けて飛び立った。空を切り裂くようにして遠ざかっていく彼の背中を見つめ、アルバートは任務の達成感と共に不安を抱く。だが、ふと気配を感じ、振り返った瞬間、アルバートのすぐ後ろに仮面を被った三人組が立っているのに気づく。
三つの異なる表情の白い仮面──無表情の仮面、怒りを湛えた仮面、そして微笑みを浮かべた仮面が並ぶ姿は異様でありながら、どこか既視感があるような奇妙な感覚をアルバートに与えた。だが、それが誰なのかまでは掴めない。
「なんだ、お前たちは?」
不審な存在に対し、アルバートは鋭い視線で問いかける。
「これは、これは、第二階位勇者、アルバート様。我々は、アイラフグリス王国、特殊工作部隊に、ごさいます。今回の任務、これにて、完了に、ごさいます。陛下より、帰還命令が、下っております」
三人がかわりがわりに言葉を発するせいで、途切れ途切れの聞きにくい話し方に困惑するアルバートだったが、内容が聞き取れないわけではない。
「帰還命令だと?それが真実である証拠は?」
「左様に、ごさいます。こちらが、陛下より、預かった指令書に、ごさいます。一刻も、早く戻るように、との事ですので、第五階位勇者クミラ様の、飛行魔法での、帰還を、お願いいたします」
仮面の工作員から指令書を受け取ったアルバートは、内容を確認した。そこには確かに任務終了と早期帰還の指示が綴られており、王家の紋様の王印が押されている。
「わかった。これより帰還する」
「道中、お気を付けて。それと、こちら、陛下より、クミラ様にと。魔力を回復する、神水に、ごさいます」
「ありがたく頂戴する」
そう告げると、仮面の三人組は深々と頭を下げ、そのまま『霧のように』姿を消した。まるで存在すら幻であったかのように。
「クミラ、今の奴らを知っているか?」
「いえ、見たことも、聞いたこともありません。それに、さっきの姿をくらます術……全く理解できませんでした。もしかすると、魔法ですらないのかもしれません」
「そうか。しかし、指令書は本物だ。申し訳ないが、クミラ、飛行魔法を頼んでもいいか?陛下から賜った神水で魔力を回復してくれ」
「はい!分かりました。では、行きましょう」
戦闘の意志はなくなったのか、アルバートたちが飛び立とうとすると、ナイヤは何の行動も起こさず、兵士たちとともに首都マリネアの方角に祈りを捧げていた。
上空へと舞い上がるクミラの飛行魔法に乗り、彼らは首都マリネアを見下ろす。その街の上空は、異様なまでに黒く分厚い雲で覆われ、距離を隔てていても感じる禍々しい力が空気を震わせている。これが現界した統一大精霊のもたらす圧力なのだろう。尋常ならざる力に満ちたその存在を、彼らは皮膚越しに感じ取った。
アルバートは、謎多き任務の終結と仲間の無事に、ひそかに安堵する。
「お師匠さま!私たち、生きてましたね!」
「そうだな。今回も何とか生き延びた」
彼らの命が助かったのは、精霊王がマリネアに向かったことが大きい。正直に言えば、彼が去らなければ全員、確実に命を落としていただろう。力の差は歴然で、勝利の見込みなど最初からなかったのだから。運命の神に感謝するしかない結末であった。
「帰ったらみんなでご飯にしましょうか」
クミラが優しい口調で言う。
「クミラさんが作ってくれるの?」
「もちろん!腕によりをかけて作ります!」
彼女たちはいつもの調子で食事の話題に花を咲かせ始めていた。アルバートはその様子を見て、呆れるようでありながらも、ふと心に温かさが広がっていた。彼女たちの無邪気な会話が、彼の中の何かをほぐしていくようだった。諦めかけていた自分を、奮い立たせてくれたのはこの二人なのだと改めて思う。
自分にはないものを持つ二人と、自分が持つ強さ。きっと、互いの力を合わせれば、さらに強くなれる日が来るはずだ。『今のこの経験が、これからの日々を支える礎』となるだろう。そう考えると、自然と頬が緩み、彼は楽しげな二人の輪に歩み寄った。
「それは帰ってからが楽しみだな」
不意にアルバートが会話に入ったことに、二人は驚いたように顔を見合わせた。
「あ、珍しいですね!お師匠さまが話に乗ってくるなんて。いつもなら『まだ油断するな』って言うのに!」
「ほう、言ってほしいのか?」
「うっ、言わなくていいです……」
守るべき二人、そして守ってくれる仲間。彼女らの存在のありがたさと大切さを噛みしめながら、アルバートは母国アイラフグリスへの帰路を進んでいった。




