第2話 リアの夢
翌朝、愁が目を覚ますと、部屋の空気は昨日よりも一段と冷え込んでいた。吐息が白く凍り、ふわりと宙に舞ってはゆっくりと消えていく。その寒さは外気の影響もあるが、一番の原因は暖炉の火がすっかり消えてしまっていたことだ。
この世界の断熱性は現代日本に比べれば劣っており、特に朝晩の冷え込みが骨身に染みる。愁は布団の中でぬくもりを惜しみながら、ストーブやエアコンといった便利な文明の利器を恋しく思った。しかし、転生した先の異世界で無い物ねだりをしても仕方がない、と自身に言い聞かせる。
意を決して布団から這い出ると、愁は急いで支度を整えて食堂へ向かった。暖炉がある食堂は、既にエリサとエリスの姉妹が朝早くから火を入れていたおかげで、心地よい暖かさに包まれている。愁は暖炉近くの席に腰を下ろし、朝食が運ばれてくるのを待った。
やがて、エリサが温かい料理を手にやって来る。
「愁様、今朝は特に冷え込みますので、温かい野菜のスープと焼きたてのパン、それからベーコンエッグをご用意しました。どうぞお召し上がりください」
彼女の柔らかい声が、冷たい空気を和らげるように響く。
「ありがとう。本当に寒いね。こんな時に温かいスープは助かるよ……いただきます!」
愁は感謝を込めて手を合わせると、湯気の立ち上るスープに口をつけた。野菜の甘みがじんわりと身体を温め、焼きたてのパンとベーコンエッグが空腹を満たしてくれる。この何気ない温かさが、愁にとってはかけがえのない幸福に思えた。
まったりとした食事を終えると、自室に戻った愁は昨日の作業を思い返す。ライトたちの新しい住居を作りかけていたが、クラフト能力だけでは満足のいく仕上がりにならないことが分かったため、今日は少し手作業を混ぜながら仕上げる予定だった。
しかし、近頃は休む間もなく動き続けているため、身体の疲れが抜けない。『本物の身体』を持つこの世界での生活は、愁にとって久しく忘れていた肉体の疲労を再び実感させていた。不治の病で身体機能を失い、電脳世界である『WORLD CREATOR』にフルダイブして過ごした七年間──そこでは現実のような疲れを感じることはなかったのだ。
愁はベッドに腰掛け、ぼんやりと天井を見上げた。
「はあ……眠い」
深いため息をつきながらも、やらなければならないことは山積みだった。村の運営や冬明けの準備、そして明後日にはエルフの国への長旅が控えている。その間の村の警備はスフィアに、指揮をライトに任せてはいるが、何も準備せずに出発するわけにはいかない。
とはいえ、今日は少しだけ自分を甘やかしてもいいだろう、と愁は『自分は頑張った』なんて心に言い聞かせて暖炉近くのソファーに腰掛ける。
(今日くらいは……まったりやろう)
そんな折、扉をノックする音が聞こえた。
「はーい。どうぞー」
扉を開けて現れたのは、愁のパーカーを羽織ったリアだった。大きめのパーカーはリアの小柄な身体に少し余り、もこもことしたその姿はどこか微笑ましい。銀色の綺麗な髪はストレートにおろしているので、さらさらとパーカーのフードの上を流れていた。
「愁さま、失礼します!」
「何かあったのかい?」
リアの手には日本語の辞典と練習用のノートが握られていた。
「あの、日本語、全部覚えました!それで確認と、少し会話の練習をお願いしたいのですが……今、大丈夫ですか?」
「もう覚えたの?早いね!いいよ、ちょっと待ってて」
愁はゲーム時代の名残である『自動翻訳機能』を解除し、リアの日本語を試す準備を整えた。
「どうかな?言ってる言葉、分かる?」
「はい!まだ、ぎこちないかもしれないですが、なんとか、ききとれます。にほんご、あってますか?」
リアのぎこちないカタコトの日本語を聞き、愁は目を見張った。
(たった数ヶ月の独学でここまで話せるとは……リアは天才児か……?)
「すごいね!どうやって覚えたの?」
「じしょの、たんごの、よこの、さんかくを、おすと、こえがきこえて、それでべんきょうしました」
持ち主である愁ですら忘れていた辞書の音声機能を駆使して勉強したらしい。その発想力と実行力に、愁は思わず感嘆のため息を漏らした。
「なるほど……音声機能か。本当にすごいよ、リアは!これからも分からないことがあったら、何でも聞いてね」
頭をわしゃわしゃと撫でられたリアは、頬を赤らめながらも、照れくさそうな笑みを浮かべて愁の隣に腰を下ろした。まるで冬の冷え切った空気を溶かすようなその笑顔は、愁の心に静かに温もりを広げていく。
「愁さま。わたし、もっといろんなことを知りたいです! そして愁さまのお役に立ちたいです! それと……」
言葉を勢いよく口にしたリアだったが、そこでぴたりと止まり、わずかに視線を落とす。白銀の髪が揺れ、その下でオッドアイが迷うように瞬いた。
「ん? どうしたの?」
愁が促すように尋ねると、リアはもじもじと両手を握りしめ、子どものような仕草で答えた。
「その、愁さま……やっと戻ってきたのに、またすぐにしばらく帰ってこないって言っていたので……わたし、寂しいです! もっと一緒にいたいです……」
その声は震えていたが、紛れもない本心が込められていた。真っ直ぐに『一緒にいたい』と告げるリアの言葉が、愁の胸の奥にじんと響く。
(うーん、甘えん坊なのは相変わらずだけど……まあ、こうやって慕われるのも悪くない。何より可愛らしいし)
愛されること、必要とされること。それは、どんな人間にとっても心を温めるものだ。本当なら愁自身も、もっと長くリアや村の皆と一緒にいたいと思っている。しかし、メラリカが困っているのを知った以上、見過ごすことはできない。
「そう言ってもらえると俺も嬉しいよ。少し照れるけどね……ありがとう、リア。でもごめん。メラリカさんが困ってるから、助けてあげないといけないんだ。それに村の皆だってリアが寂しがる姿を見ると心配しちゃうよ?」
リアの瞳に一瞬影が差すのを見て、愁は柔らかく微笑みながら続けた。
「かわりに今日はいっぱい一緒に過ごそうか。少し仕事をしながらにはなるけど、それでもよければ」
「はい! もちろんです! お仕事の邪魔にならないようにします。それに、何か手伝えることがあれば何でも言ってください!」
リアはパッと顔を輝かせ、嬉しそうに答えた。その勢いのまま、彼女は愁の肩に頭をコツンと乗せる。まるで人懐っこい猫のようなその仕草に、愁は自然と笑みを漏らした。
(リアは本当に猫みたいだな。それも、甘えん坊で寂しがりな子猫ってところかな)
奴隷として孤独と辛さに耐え続けてきたリア。今こうして安心して甘える姿を見ると、それだけで愁は彼女を守っていかなければと改めて思うのだった。
「それじゃあ、今から村の皆の春服を作るから、できたものをサイズ別に畳んでくれるかな?」
「はい! 任せてください!」
リアはソファーから飛び跳ねるように立ち上がり、意気揚々と応じた。その姿は、小さなことであっても役に立てる喜びに満ちていた。愁が何かを頼むたびにリアが見せるその嬉しそうな表情は、彼女がどれだけ人の役に立つことを大切にしているかを物語っている。
しばらく作業を共にしていると、ふと愁の頭に一つの疑問が浮かんだ。リアがこれからどんな未来を描いているのか、それが気になったのだ。
「そういえば、リアは何か夢とか、なりたい自分とかってあるのかな?」
不意の質問に、リアは手を止め、考えるように首を傾げた。碧と赤の瞳が宙をさまよう。
「うーん、考えたことがないですね……」
俯き加減で悩むリア。その姿を見守りながら、愁は『今のリアにとって夢を考えるのは難しいのかもしれないな』と感じていた。それでも、自由を手にした彼女には、これからの自分の未来をしっかりと選んでほしいと願う。
しばらくして、リアは顔を上げた。そこには迷いが消え、決意が宿っていた。
「それなら……わたし、愁さまと同じクラフターになりたいです!」
「クラフターに? どうしてそう思ったの?」
愁が興味を引かれたように尋ねると、リアは照れくさそうに笑みを浮かべながら答えた。
「愁さまがわたしにくれたみたいな温かな気持ちや幸せを、他の人たちにも感じてもらいたいからです。それができるクラフターに、わたしもなりたいんです」
その答えを聞いた愁は、胸の中に小さな複雑さを抱えた。
(リアは本当に他人の幸せを優先するんだな。それは素晴らしいことだけど……自分自身の幸せも追い求めるべきだと思うんだよな)
他人の幸せを願うことは美しい行為だ。しかし、それだけではリアが本当に満ち足りた人生を送れるかどうかは分からない。愁はそのことを心に刻み、自分の中に一つの誓いを立てた。『彼女には、自分自身の幸せも見つけてほしい』。その思いを込めて、彼は優しく微笑みながら言葉を返した。
「そっか。じゃあ、戻ってきたらクラフトのやり方を教えてあげるよ。リアならきっと立派なクラフターになれると思う」
「本当ですか!? やったっ!ありがとうございます、愁さま! わたし、絶対頑張ります!」
リアの顔には、太陽のような満面の笑顔が広がった。その純粋で無垢な喜びが、まるで空気を明るく染め上げるかのようだった。愁はそんな彼女を見てそっと微笑み返す。その瞬間、彼の胸には、彼女を支え導くという確固たる決意が宿った。
「そうだ、リアにはこれをあげよう」
愁がボックスから取り出したのは、つややかに揺れる黄金色のプリンだった。柔らかな光がその表面を滑り、まるで宝石のように輝いて見える。それは彼がラリアガルド帝国にいた頃、思い出の味を求めて試行錯誤の末に作り出したものだ。
「なんですかこれは?ぷるぷるしてます!」
「これはね、プリンっていって甘くて美味しいデザートだよ。食べてごらん?」
愁がプリンとスプーンをリアに手渡すと、彼女はその新奇な食べ物に恐る恐るスプーンを差し入れ、一口すくって口に運んだ。その瞬間、彼女の瞳がぱっと輝き、顔に驚きと喜びが交差する。
「なんですかこれは!とっても美味しいです!こんなに甘くて美味しい物は初めてです!」
「うんうん、そうだろうそうだろう。プリンは美味しいからね。皆には内緒だよ?」
「はい!わかりました!」
リアはその小さな体を震わせるほどの勢いで、次々とプリンを口に運んでいった。その純粋な幸福感に満ちた姿に、愁の胸は温かいもので満たされる。
「ごちそうさまでした!美味しかったです!」
「よかった。今度は俺が一番好きなラーメンという食べ物を食べさせてあげるよ。まだ作れてないけど、いずれね」
「らーめんですか?良く分からないですけど、愁さまが好きな食べ物ならきっと美味しいのでしょうね。楽しみにしています!」
そんな会話を交わしながら、愁の頭には幼い頃に父親と一緒に食べたラーメンの記憶が浮かんでいた。新幹線を降りた直後に立ち寄った東北の小さなラーメン店。濃いめの醤油スープと硬めの縮れ麺が絡み合い、香り豊かな一杯。あの味を思い出すたびに、彼の心には懐かしさと共に熱い情熱が湧き上がる。
(あのラーメン、もう一度作れたらな……)
だが、今はラーメンはない。その代わり、もう一つのプリンが愁の手元にあった。リアの楽しそうな顔をもう少し見ていたいという思いから、彼は再びプリンを取り出す。
「リアももう一つ食べる?」
「いいんですか!?いただきます!」
二人で再びぷるぷるのプリンをつつき合う和やかな時間。その時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「うわっ!なんだ!?」
驚いて振り返ると、そこにはスフィアの姿があった。彼女の黒い耳がピクリと動き、エメラルド色の瞳がじっとプリンを見つめている。
「こそこそと何を美味しそうな物を食べているのだ主様とリアは!」
不満げな声を上げながらも、スフィアは素早く愁の隣に座り込む。その動きは、どこか不機嫌ながらも愛嬌があった。
「ごめんごめん。ほらスフィアにもあげるから機嫌なおしてよ」
「ふんっ!我に内緒でこそこそと主様は酷いやつだな……んんっ!?なんだこれは!甘い!柔らかい!美味い!」
口に入れた瞬間、スフィアの黒い耳がぴんと立ち、満足げな表情が広がる。その姿を見て、愁はつい笑ってしまう。
「これは美味いな!む?主様、口にプリンが付いているぞ!」
そう言うや否や、スフィアは愁の口元を小さく舐めた。
「んなっ!何を……」
突然の行動に愁が驚く間もなく、リアが赤くなりながらおずおずと口を開いた。
「こ、こっちにも付いてますよ愁さまっ!」
そう言って彼女もまた、そっと舌を伸ばして愁の口元を拭うように舐めた。リアの顔は真っ赤で、手元も少し震えている。
「リアもか……」
(というか、そんなに口の周りについていたのか……?)
予想外の展開に、愁は言葉を失ったが、二人の純粋な仕草にどこか暖かいものを感じた。
「まあまあ、二人ともありがとうね」
「ん?嬉しかったのか主様?もっとやってあげようか?」
「そ、それならわたしだって!」
もはやどこか奇妙な対抗心が芽生えている様子に、愁は大きくため息をついた。
「いや、もう大丈夫だよ……」
その後、三人は静かに残りのプリンを食べ終えた。部屋には甘い香りと、ほのぼのとした空気が漂っていたのだった。




