第3-1話 リリーニャの過去 中編①
リリーニャがこの村に来てから、早くも一年が過ぎた。
決して豊かとは言えない暮らしの中でも、彼女はすくすくと育ち、その小さな身体には生命力が満ち溢れていた。太陽のように明るく、活発で愛嬌たっぷりな少女は、瞬く間に村の人気者となった。
そもそも、この村には子供がいない。だからこそ、リリーニャの存在は村人たちにとっての癒しであり、希望そのものだった。
行く先々で誰もが優しく声をかけ、頭を撫でたり、お菓子を分け与えたりする。そのたびに、リリーニャは無邪気な笑顔を輝かせて「みんなが家族みたい!」と嬉しそうに言うのだった。
昨晩のそんなリリーニャの無垢な笑顔を思い出しながら、オルトスは薪割りに精を出していた。力強く振り下ろされた斧が乾いた木を正確に捉え、パキンと気持ちの良い音を響かせる。
しかし、ふと視線を感じた。
オルトスは手を止め、振り返る。すると、茂みの影に見慣れたアッシュベージュの髪と猫耳がちらりと覗いていた。草の間からは、好奇心に満ちた丸い瞳がこちらをじっと見つめている。
「ん?おーい、リリー?そんなところで何してるんだ?こっちにおいで」
オルトスが手招きすると、茂みの奥で微かなざわめきが起こる。見つかってしまったことに驚いたのか、リリーニャの小さな身体がぴくりと震えた。
「えへへ……パパ、なにしてるの?」
照れくさそうに笑いながら、リリーニャはちょこちょこと小動物のような足取りで駆け寄る。そして、オルトスの足にぎゅっとしがみつき、首をかしげた。
「んー?これはね、薪を作ってるんだよ。これをたくさん作れば、寒い日でも温かく過ごせるし、美味しいご飯も食べられるんだ」
「え?おいしいものー?」
ぱっとリリーニャの表情が輝く。食べることが大好きなリリーニャにとって、『美味しいご飯』の言葉は特別な魔法のようなものだった。
「なら、リリーもやるっ!」
大きな瞳を輝かせながら、リリーニャは斧へと手を伸ばす。しかし、オルトスはその手をすっと遮り、優しく制止した。
「だーめ。リリーにはまだ早いよ。代わりに、ママのお手伝いを頼めるかな?リリーは良い子だから、できるよな?」
途端に、リリーニャの顔がしゅんと曇る。しかし、それも束の間のこと。次の瞬間には、満面の笑顔でぴょんと跳ね、元気いっぱいに答えた。
「えー、わかった!ママのおてつだいしてくるねっ!」
リリーニャはくるりと向きを変え、小さな足を精一杯動かして家へと駆けていった。その後ろ姿を見送りながら、オルトスはふと物思いにふける。
リリーニャは本当に賢い子供だった。物覚えが早く、手先も器用で、すでにミリラと一緒に笠を編めるようになっていた。
そのおかげで、家の収入もわずかに増えた。そんな風に家族を支えてくれるリリーニャには、できる限り不自由のない生活を送らせてやりたい──そう思うたびに、オルトスはさらに仕事へと精を出した。
それから数日後、村には独特の緊張感が漂っていた。
今日は、年に数回訪れる帝国貴族の徴税の日。今回から新しく徴税の担当者が変わると知らされており、村人たちはどんな人物が来るのかと不安を抱えていた。
正午を過ぎた頃、遠くから馬車の音が響く。
やがて村の入口に姿を現したのは、豪華な装飾が施された立派な馬車だった。馬車の扉が開き、まず降り立ったのは鎧をまとった三人の兵士。次いで、華やかな服を身にまとった一人の青年が現れる。
「……若いな」
村人たちは思わずざわめいた。
彼らの前に現れたのは、想像よりもはるかに若い貴族だったからだ。だが、村の代表であるテヌイとオルトスは動じず、すぐに丁寧に迎え入れる。
「遠路はるばる、このような辺境の村までお越しくださり、誠にありがとうございます。私は村長のテヌイと申します。こちらは村のまとめ役、オルトスという者です。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
深々と頭を下げる二人に、貴族の青年は穏やかに微笑んだ。
「はじめまして。今回からこの村の徴税を担当することになりました、ライト・シィラビュロンと申します。まだ若輩者ですが、何卒よろしくお願いしますね」
驚くべきことに、その笑顔は実に『まっすぐで、温かい』ものだった。
常の貴族であれば、村人を見下し、傲慢な態度を取る者がほとんどだ。
しかし、目の前の青年はそんな様子を一切見せず、まるで対等な相手に接するように振る舞っていた。
オルトスとテヌイは戸惑いながらも、しっかりとライトと握手を交わす。
「ライト様、亜人族の者を相手にそのような態度を……」
傍らの兵士が不満げに呟く。しかし、ライトは肩をすくめ、軽やかに微笑んだ。
「いいんですよ」
その言葉はまるでそよ風のように軽やかで、どこか温かさを含んでいた。
テヌイは静かに用意していた税金を布袋に詰め、恭しくライトへと差し出した。
貴族の中には必要以上に徴収し、村を搾取する者も少なくない。彼らにとって、亜人族の住むこの村など、ただの金づるに過ぎないのだ。
しかし、ライトは定められた額のみを受け取り、それ以上の徴収を求める素振りすら見せなかった。
その場にいた村人たちは、誰もが息を呑んだ。
「……っ」
驚きと安堵が入り混じった沈黙が、辺りを包み込む。
帝国の貴族が、亜人族の村を相手にこれほどまでに誠実な対応をするなど、誰が想像できただろうか。彼が本当に『貴族』なのかと、村人たちは目の前の光景が信じられないでいた。
だが、この日を境に、ライト・シィラビュロンという貴族が、他の貴族とは『決定的に異なる存在』であることを、村人たちは次第に知ることとなるのだった。
しばらくして、テヌイとオルトスがライトと近況の報告を交わしている最中、ふいに小さな影が現れた。
「パパー?おきゃくさんなの?おにいちゃん、こんにちはっ!」
弾けるような明るい声が響き渡る。くりくりとした大きな瞳を輝かせながら、リリーニャは無邪気に笑い、目の前の青年を見上げた。
オルトスは慌ててその口を手で塞ぐ。
「すみません!うちの子がご無礼を。よく言い聞かせておきますので、どうかお許しください!」
リリーニャは突然のことで目を瞬かせ、呆然とした。けれど、ライトは驚くどころか、ゆっくりと微笑んだ。そして、まるでお姫様の手を取るかのように膝をつき、小さな手をそっと包み込む。
「こんにちは、可愛いお嬢さん。私はライト・シィラビュロン、よろしくね。お嬢さんのお名前を教えてくれるかな?」
その優しい声に、リリーニャは目を丸くする。そして、オルトスの手をどかし、弾むように答えた。
「リリーはねっ!リリーニャっていうの!七さいだよ!よろしくね、おにいちゃん!」
元気いっぱいの自己紹介に、ライトは微笑を深める。
「こらっ、リリー!貴族様に失礼だぞ」
オルトスの叱責に、リリーニャはしゅんと耳を伏せる。しかし、ライトはその頭を優しく撫で、穏やかに言った。
「いいんですよ。子供が元気なのはとても良いことですからね」
「いえ、しかし……申し訳ありません。ありがとうございます」
オルトスは、今までの貴族の在り方とはまるで異なるライトの態度に、どこか戸惑いを覚えつつも、胸の奥に温かいものが芽生えるのを感じていた。
その日の夕暮れ、ライトは村人一人ひとりに丁寧に挨拶をし、馬車へと乗り込んだ。村の者たちは彼の後ろ姿を見送りながら、胸の中で新たな希望を抱いていた。
──そして、夜。
ミリラが用意したスープの湯気が、食卓を優しく包み込む。トロトロに煮込まれた野菜の甘い香りが広がり、温かみのある夜を演出していた。
「はい、リリーの分もできたわよ」
ミリラが器を差し出すと、リリーニャは目を輝かせて受け取り、熱々のスープにふうふうと息を吹きかけながら、夢中でスプーンを運んだ。
そのせっかちな様子を見て、ミリラは思わず頬を緩める。
「それにしても、新しい貴族様は随分とお優しい方みたいでしたね?どんな人が来るのかと心配していましたが、あの御方なら安心ですね」
「ああ、そうだな。まさかあんなに優しい方が担当になるなんてな。しかし、リリーが出てきた時は、どうなることかと思ったよ」
オルトスは苦笑しながら肩をすくめた。
だが、当のリリーニャは、そんな父の心労など露知らず、スープに夢中だ。ようやく飲み干すと、綺麗に平らげた器をミリラに見せ、満面の笑みで言った。
「えへへ、ママのごはん、おいしい!」
その無邪気な笑顔に、ミリラもまた微笑む。そして、湯気の立つスープをおかわりの器にそそぎ、優しく言った。
「いっぱい食べてね」
リリーニャは嬉しそうに受け取り、小さな手でぎゅっと器を抱え込むようにして飲み始める。オルトスはそんな娘の姿を眺めながら、小さくため息をついた。
「ふぅ。まったく……でもまあ、リリーは将来、大物になるかもしれないな」
柔らかなランプの灯りが揺れ、家族の団欒を優しく照らしていた。村には静かな夜が訪れ、穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
──この幸福な時間が、いつまでも続くようにと願いながら。
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