第21話 追憶 愁と璃理
幼き日の思い出。それは、桜が美しく咲き誇る春の季節。暖かな陽光がやさしく差し込む病室の窓辺には、柔らかな光とともに淡い桜の香りが漂っていた。
「愁くん、愁くんっ!今日は何して遊ぼうか?」
透き通る声とともに明るい笑顔を見せたのは璃里だった。肩に届くほどの黒髪が揺れ、その瞳にはまるで春そのもののような輝きが宿っている。彼女の笑顔は、どんなに沈んだ心も溶かしてしまうほど愛らしく、温かかった。
「そうだなあ。天気も良いし、外を散歩したいかな」
窓の外を見つめながら答えたのは愁だ。隣り合った病室で過ごす二人は、自然と心を通わせるようになった。二人とも十歳という共通点もあり、初めて出会った日から三年、友情は確かな絆へと育まれていた。
「愁くん、今日はお散歩しても大丈夫なの?」
璃里は少し心配そうに首をかしげる。優しさと不安が混ざるその声に、愁は肩をすくめて答えた。
「今日は大丈夫そうな気がするんだ。それに、病院の裏庭に桜の木があって、すごくきれいなんだって。昨日、看護師さんが教えてくれたよ」
「そうなんだ!私、あんまり外に出ないから知らなかったなあ。それじゃあ、行ってみようよ。でも本当に大丈夫?」
璃里の問いには、心配以上の思いやりが滲んでいた。それもそのはずだ。愁の身体は病に蝕まれ、日常生活を一人でこなすのが難しくなっていた。負けず嫌いな彼は周囲の手助けを拒みがちで、その無理が重なるたび、璃里の心は痛んだ。
「そんなことより、璃里こそ体調は大丈夫なのか?」
愁が璃里の隣に座りながら問いかけると、彼女は明るく笑顔を返した。
「私は大丈夫だよっ!お医者さんに、このままいけば退院もできるかもって言われたんだ!」
「それならいいけど……」
璃里の体調が良いという知らせは、愁にとって喜ばしいものだった。しかし、胸の奥には小さな寂しさが芽生える。璃里が退院すれば、自分はまた一人になってしまう──そんな未来を思うと、心がチクチクと痛んだ。
その寂しそうな表情を、璃里は見逃さなかった。
「あー!愁くん、私がいなくなっちゃうの寂しいんでしょ!」
「そんなこと言ってないだろ!璃里が元気になれるなら、それが一番嬉しいんだよ」
図星を突かれた愁は、照れ隠しに窓の外へ視線を向ける。桜の枝に寄り添う二羽の小鳥が目に入り、その仲睦まじい姿が、妙に羨ましく思えた。それが悔しくて、力の入らない手を握りしめる。
「愁くんっ!」
その拳の上に、璃里の小さな手がそっと重ねられた。温もりが、じんわりと伝わる。
「もし私が退院しても、いっぱい会いに来るから大丈夫だよ!私だって愁くんと会えないのは嫌だもん!だから心配しなくていいからね!」
「……うん。ありがとう。でも別に心配なんてしてないからな!」
「えー?だって愁くん、今すごく嬉しそうだよ?ほら、顔真っ赤!」
「照れてない!」
愁の頬が熱を帯びる。嬉しさと恥ずかしさが入り混じり、彼女と過ごす時間の愛おしさが胸を満たしていく。
「ほら、手出して!桜の木、見に行こっ!」
「……そうだね、行こう」
他人に手を引かれることを嫌がる愁だったが、璃里の手だけは自然と掴むことができた。それは、彼女が特別だからではない。唯一無二の友人として、心から信頼しているからだ。
二人が向かったのは病院の裏庭。そこには、数十本の桜の木が池を囲むように植えられ、透き通る水面に花びらが揺れる美しい光景が広がっていた。
「わあ……!すごく綺麗……!」
璃里は感嘆の声を上げ、目を輝かせる。その横で愁も微笑みながら口を開いた。
「璃里、ここから見ると水面に映ってもっと綺麗に見えるよ」
二人はゆっくりと歩きながら、桜が織り成す様々な表情を楽しんだ。花びらの一枚一枚が春の輝きを宿し、彼らの心に刻まれる。
「璃里、何か将来の夢とかある?」
ふとした愁の問いに、璃里は少し悩む素振りを見せた後、にっこり笑って答えた。
「私はね、みんなの前で歌を歌いたい!それと……魔法少女になりたい!」
「魔法少女って……それ、アイドルみたいな感じ?」
「うん!魔法少女アイドル!それいいかも!」
璃里の夢は、現実的なものと非現実的なものが混ざり合っていた。それでも、その無邪気な姿は、愁にとって何よりも眩しかった。
「璃里ならきっとなれるよ。歌が上手だから、俺がファン第一号になるよ」
「やったー!でも、本当はもう一つあるんだけどね……」
『愁くんのお嫁さんになりたい』──そんな小さな夢を、璃里は胸の中に秘めたままにする。
「もう一つってなに?」
「な、なんでもない!ほら、あそこのベンチで休もうよ!」
璃里が指差した先には、池の水面が穏やかに揺れる木製のベンチがあった。春の日差しが柔らかく降り注ぎ、桜の花びらが風に舞う中、二人は静かにその場へ向かった。
並んで腰を下ろすと、ささやかな沈黙が訪れる。穏やかな春風が髪を揺らし、甘い花の香りが二人の間を包み込む。愁は、璃里が空を見上げる横顔に目を奪われた。彼女の瞳には、桜色の世界が映り込んでいるようだった。
「愁くん、大丈夫?疲れてない?」
ほんの少し荒い息遣いを耳にした璃里が、心配そうに愁を見つめる。彼女の声は柔らかく、どこか母親のような温もりを感じさせた。
「うん、少し疲れたけど大丈夫だよ。天気も良いし、璃里と一緒にいると不思議と調子が良くなるんだ」
「そうなの?私も愁くんと一緒にいると元気になれるよ!お揃いだね!」
太陽の光すら霞むほどの明るい笑顔に、愁は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。その場の空気が優しく変わるような、そんな笑顔だった。気づけば、自分でも驚くほど素直な言葉が口をついて出ていた。
「ずっと一緒にいられればいいのにね」
言い終わった瞬間、愁の顔は熱くなった。慌てて璃里の方を伺うと、彼女の頬も真っ赤に染まっていた。その愛らしい姿に、愁の胸の高鳴りはさらに増していく。
「そ、その……嬉しいな。愁くんがそんな風に思っててくれてたなんて」
普段とは違う、控えめで照れくさそうな笑顔。そんな璃里の表情に、愁の心臓は強く脈打つ。この感情は何だろう?まだ名前のつかないこの気持ちが、自分の中で芽生えているのを愁は感じていた。
「そうだ!こ、これ!璃里にあげるよ!」
愁は急に思い立ったようにポケットに手を伸ばし、小さな銀細工のネックレスを取り出した。それは、猫のモチーフがグリーンアメジストに乗った可愛らしいデザインで、愁が璃里のために密かに作ったものだった。
「これ、俺が作ったんだ。世界に一つだけ、璃里のために作った特別なやつだよ」
愁の手から渡されたネックレスを受け取った璃里は、一瞬息を飲み、それから顔を輝かせた。
「ありがとう愁くんっ!すごく可愛い猫さん!それにキラキラして綺麗!大切にするね!えへへ、宝物ができちゃったな」
「それはね、グリーンアメジストっていって、心と体を癒してくれるんだって。璃里がもっと元気になるようにって思って作ったんだ。それに璃里、猫好きだもんね」
「本当にありがとう、嬉しいな。……あの、今つけてもらってもいいかな?」
「うん、いいよ!」
璃里が後ろを向くと、愁はそっとネックレスを首にかけた。留め具を留めると、彼女は前を向き、満面の笑みを浮かべた。
「どうかな?似合ってる?」
「もちろん!すごく似合ってるよ」
何度もネックレスを触りながら、幸せそうに微笑む璃里。その姿に、愁の心もまた温かく満たされていく。
「愁くんっ!来年も二人でここに桜を見に行こうね!その次の年も、そのまた次の年も、絶対だよ?約束ね?」
「うん、約束する!俺もリハビリ頑張るから!」
璃里が差し出した小指に、愁は自分の小指を絡める。その瞬間、二人の間に結ばれた約束は、未来を信じる温かい絆のように感じられた。
「それじゃあ戻ろっか?」
「うん、そろそろ帰ろうか」
春の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、二人は病院への道を歩き出すのだった。
その夜。疲れ果てて病室のベッドで眠りについた愁の夢の中、璃里がいつもの笑顔で手を振っていた。しかし、その笑顔はどこか悲しげで、愁の胸をざわつかせた。彼女を引き寄せたい一心で手を伸ばすが、その手は虚しく空を掻くだけ。璃里はどんどん遠ざかり、やがて視界から消えてしまった。強烈な不安と恐怖が愁の全身を包み込み、彼は息を切らしながら飛び起きた。
病室の薄暗い明かりの中、目を覚ました愁の視界に飛び込んできたのは、ベッド横の椅子に座る母親の姿だった。
「あれ?お母さん?こんな朝早くにどうしたの?仕事は?」
壁掛け時計は朝の五時を指している。普段なら父親の秘書として忙しく働く母親が、こんな時間にここにいるのは不自然だった。それに愁は母親の様子に違和感を覚えた。母親の顔にはいつもの明るさがなく、何かを必死に堪えているような、張り詰めた表情をしていた。
母親が静かに口を開く。その声には、どこか遠い現実の響きが混ざっていた。
「愁、落ち着いて聞いてね。昨日の夜、璃里ちゃんが亡くなったの」
一瞬、時間が止まったかのような感覚に陥る。言葉の意味が理解できなかった。頭が拒絶しているのかもしれない。
(嘘だ。そんなはずない)
「……は?何言ってるのお母さん。そんな冗談やめてよ!昨日の夜?そんなの嘘だ!昨日、一緒に桜を見に行ったときだって璃里は元気だったじゃないか!」
愁の声は震え、言葉の一つ一つが胸の奥で砕け散る。彼の叫びはまるで自分自身に言い聞かせるようだった。しかし、母親は愁を抱きしめ、静かに語り続ける。
「愁、嘘じゃないの。璃里ちゃんは……心臓の持病が急に悪化して、昨夜亡くなったの」
その瞬間、愁の胸の中に広がったのは、冷たい空虚だった。全身が麻痺したかのように動けない。目の前に広がる現実が嘘であってほしいという思いが、涙となって頬を伝う。
「そんな……璃里が?もう会えないなんて……」
母親の温もりの中で崩れ落ちる愁。彼の震える声が、薄暗い病室の空気に溶け込む。
「愁?愁!どうしたの!?」
その後のことは、愁自身の記憶にもほとんど残っていない。ただ、聞かされた話によれば、愁はショックで気を失い、その後病状が急激に悪化したという。このままでは命が危ないと判断され、緊急手術が施された。その際、愁の意識は仮想現実の世界に移行され、一命を取り留めたものの、心には深い傷跡が刻まれた。
あの日の出来事。それは愁の心に『消えない痛み』として残り続けた記憶だった。
そして今、目の前に彼女がいる──二度と会えるはずのない璃里が。彼女はリリーニャを庇うように立ち塞がり、青紫色に輝く光の剣をその身で受け止めていた。璃里の微笑む姿は愁が最後に見た璃里そのもので、あの日の笑顔とどこか重なっていた。
「璃里……?」
愁の震える声が、胸の奥に深く沈むように響いたのだった。




