第16話 偽りの真実
「私、ママとアルマの所に行って伝えてくるね!」
リルアは無邪気な笑顔を浮かべながらそう言った。その小さな体には、リリーニャから受け取った希望の光が確かに宿っている。リルアの願いは『家族みんなで仲良く幸せに暮らすこと』──それは誰もが当たり前に手にできると思う、ささやかな夢。だが、この暗い牢獄に囚われた彼女にとって、それは世界の全てをかけても叶えたい、ただ一つの切なる願いだった。
「いつもはエルボスが許可したときしか行けないけど、私の力ならバレないで会いに行けるの!今の話だけでも早く伝えたいから!」
彼女の声には、強い決意と焦りが混ざっていた。リリーニャはそんなリルアを心配そうに見つめる。
「そうだね。でも、気をつけてね。見つかったら……」
「うん!大丈夫だよ、おねーちゃん!」
リルアは振り向きざまに元気よく答える。その表情には、子供らしい無邪気さと、彼女に似合わぬ覚悟が同居していた。
リルアが箱の蓋を閉め、転移の魔眼を使った瞬間、暗い牢獄の空間が歪む。彼女の行き先は、母親と妹が囚われている独房──本来ならば、エルボスの許可なく足を踏み入れることのできない場所だ。だが、リルアはエルボスの目を盗み、すでに転移の座標をその部屋に登録していた。
(ママとアルマに、あの人が助けに来てくれるって教えなきゃ──それで……きっと!)
転移の光が収まると、目の前にはひっそりと佇む独房の扉が現れる。部屋の中は、薄暗く静まり返り、小さな鉄格子の窓から差し込む夕日の赤い光が、かすかに床を照らしているだけだった。ほかの部屋の暖かさとは裏腹に、この部屋は寒々しく、閉塞感に満ちていた。
「ママ!アルマ!来たよ!あのね、聞いて──ここから逃げ出せるんだよ!」
彼女の声が寂しい空間に響く。しかし、返事はない。期待に胸を膨らませていたリルアは、不安げに辺りを見渡した。
(もしかして、寝てるのかな……?)
いつも二人が並んで座っている壁際へと足を進める。夕日の光が届かないその場所は、漆黒の影に覆われている。リルアの目が次第に暗闇に慣れていく中、ぼんやりと二つの影が見え始めた。
「あ、いた!ママ、アルマ!」
安心したように微笑みながら、リルアは影に向かって駆け寄る。
「ママ?起きてる?アルマ?」
しかし、近づいた彼女の目に映ったのは、愛する母と妹の姿ではなかった。そこには、干からびた白骨死体が二体、冷たく横たわっていたのだ。
「あ……れ……?ママ?アルマ?」
その瞬間、彼女の心の中に現実とは思えない違和感が広がった。
(そんなはずない!つい二日前、会ったばかりなのに……)
つい二日前、わずか五分間だけの面会で、母親はいつものように優しい笑顔を浮かべ、リルアの頭を撫でてくれた。その手の温もりと微笑みは確かに感じられた。アルマも、嬉しさのあまり涙を流しながらリルアにしがみついてきた──その記憶は、今も鮮明だ。
その一週間前も同じだった。母親は同じように微笑み、アルマは同じように泣きながらリルアを抱きしめた。
さらにその一週間前も、そしてまたその前も──『全く同じ光景』が繰り返されていることに、リルアはふと気づいてしまった。
(あれ……どうしてだろう?いつも、いつも、同じ……?)
疑念が静かに胸を浸食し始める。その場では感じなかった小さな違和感が、まるで毒のようにじわじわと広がり、リルアの心を締め付ける。
記憶をたどるたびに、異様な事実が浮かび上がる。母親もアルマも、リルアに話しかけたことは一度もない。ただ微笑むだけ、ただ泣くだけ、ただ頭を撫でるだけ。
(そうだ……私が話しかけてばかりだった。いつも、いつも……!)
その結論が、頭の中で鎖を引き裂くように鮮明になる。息が詰まるほどの衝撃がリルアを襲った。
(ママもアルマも、もう……死んでいる?そんなはず……そんなはず……ない……!)
頭を抱え、膝が床に崩れ落ちる。視界が歪み、心の中で何かが砕け散る音がした。
「嘘だよ……そんなの……嘘だよっ!!」
リルアの震える声は、冷たい独房の壁に吸い込まれるだけで、何一つ答えは返ってこない。返事のない空間に耐えきれず、リルアは歪んだ笑みを浮かべながら自分に言い聞かせるように言葉を繰り返した。
「だって、いつもママは笑ってくれた……アルマは泣いて喜んでくれたもん!……だって……だって……!」
しかし、その『いつも』が異常そのものだったことを、リルアの心は理解し始めている。真実から目をそらそうとしても、瞼を閉じるたびに浮かぶ光景が否応なく現実を突きつけてくる。
「ママ……アルマ……返事してよ……!」
自分の声が嗄れるほど叫んでも、目の前の暗闇に囚われた母と妹は、微動だにしない。ただ座り込んでいる。干からびた、無残な白骨となって。
「あ……れ……?」
震える手で、母の肩をそっと揺さぶる。その瞬間、母の首が、音もなくゴロリと床に転がり落ちた。白骨化した首の切断面からは、蠢く蛆虫が無数に這い出し、リルアの足元でまるでこちらを見上げてくるようだった。
「いやだ……嘘だ……嫌だよ……!」
アルマの干からびた体にすがりつき、揺さぶるたびにその骸骨の目から無数の虫が落ちてきた。黒い影が這いずり回り、床に転がった母の頭部の空洞から、また新たな虫たちが次々と顔を出し、不気味に蠢いた。
「嫌だ嫌だ嫌だ……っ!ママ!アルマ!!起きてよ、笑ってよ、撫でてよ……!」
リルアの瞳から溢れる涙は、絶望の重みに耐えきれず、滝のように頬を伝い落ちていく。身体を震わせ、歪んだ嗚咽が喉の奥から洩れるたび、彼女の世界はさらに深い闇へと沈んでいくようだった。周囲の空間が凍てつく狂気を孕み、暗闇は生き物のように渦巻いて、冷たく鋭い刃となってリルアの心を切り裂く。
「もう……なにも……わかんないよ……」
彼女の囁きは、まるで自らを失った魂の呻きのようだった。狭く薄暗い部屋に響くのは、彼女の悲鳴と嗚咽、不気味に蠢く虫たちの音だけ。闇の中で音だけが増幅され、全てが彼女を蝕む囚われの世界の一部と化していた。
突然、「ガチャッ」という鍵の音が静寂を裂く。重々しい扉が軋みながら開き、その隙間からぼんやりと浮かぶ死者の魂のような火の玉がリルアの視界に映り込む。火の玉に照らされたのは、無表情に立つエルボスの姿だった。
「リルア、なぜここにいる?」
冷え切った声にリルアの心は凍り付く。彼女は全身で訴えるように叫び、エルボスのローブの裾を掴んだ。
「エルボス!なんで!なんでママとアルマが死んじゃってるの!?ねえ!!」
その叫びは、どこかで砕けてしまった彼女の心の欠片を繋ぎ止めようとする必死の叫びだった。しかし、エルボスはその小さな体を無造作に足で蹴飛ばした。軽い体は宙を舞い、無情にも母親とアルマの死体へと叩きつけられる。
鈍い音と共に、死体は崩れ、蛆や虫がまるで暗闇から湧き出るように散らばった。リルアの体に虫たちが這い回り、湿った蠢きが肌を侵食していく。それでも彼女は声を上げることすらできない。虫に対する恐怖よりも、絶望が彼女の全てを支配していたからだ。
「あ、ママ……アルマ……」
崩れた遺体の欠片を震える手で必死に掻き集めるリルア。その行為は、まるで絶望の中で何かを掴もうとするかすかな希望のようだった。しかし、その希望すらもエルボスの足によって踏みにじられる。エルボスの足が、リルアの集めた遺体の山を蹴飛ばし、独房に骨が砕ける音が冷たく響き渡る。それと共にリルアの心も音を立てて崩れ去った。
虚ろな瞳で、砕け散った骨の欠片を再び掻き集めようとするリルア。その口から漏れるのは、「ママ……アルマ……」という呟きだけだった。もはやそれは生きる意志ではなく、絶望に支配された心が最後に縋る錯覚だった。
エルボスは冷ややかな視線でリルアを見下ろし、嘲笑を浮かべた。
「心が壊れたのか?気持ち悪いガキだ。まあいい、こうなった時のためにこのガキには長い間、呪鎖を何重にも縛り付けてきたからな」
エルボスが手をかざすと、リルアの身体には無数の黒い鎖が現れる。それらは彼の能力〈理縛の呪鎖〉によって生み出されたもので、リルアの『理』を完全に支配するためのものだった。鎖は彼女の魔眼の力を完全に掌握し、彼女自身の存在さえもエルボスの意のままに操るための枷となる。
リルアは、もはや『人形』に成り果てていた。かつて輝いていた薄い紫色の瞳は虚ろに沈み、焦点を失った目の奥には、砕け散った心が『助けて』と叫ぶ声だけを響かせている。しかし、その声は届くはずもない。ただ血混じりの涙が頬を伝い、冷えた石床に染み込んでいくだけだった。その光景はどこか絵画じみて美しくさえあったが、それが孕む絶望は底知れなかった。
突如として静寂を破る「ドォーン!」という轟音が、廃城全体を震わせた。壁にはひびが走り、天井からは砂埃が降り注ぐ。
「ん?何だ?」
エルボスは一瞬だけ眉をひそめると、冷笑を浮かべた。
「ああ、僕の隠蔽の魔法を破った者がいるのか……まあいい。このガキを使って返り討ちにしてやろう」
そう呟くと、エルボスの手がわずかに動き、虚空に赤い光が走った。その光に応じるように、リルアの瞳も赤く輝き始める。その輝きは冷たく、恐ろしく、まるで彼女自身の意思とは無関係に動いているかのようだった。
リルアの指先がわずかに震え、床の上に置かれたぬいぐるみを握り締めた。それは母親が最後にくれたもので、彼女にとって唯一の心の支えだった。埃に汚れ、綿が飛び出しかけたそのぬいぐるみを、彼女は離すまいと必死に抱きしめていた。
(ママ……アルマ……私、もう……どうしたらいいの……)
砕けた心は、自らを守るために、自意識を曖昧にしようともがいていた。それでも、エルボスの支配下に置かれた身体は従順に動き、彼の命令を実行する準備を整えていた。
エルボスの意思でリルアの転移の魔眼が発動し、リルアとエルボスは瞬く間に廃城の大門の前へと移動した。エルボスが指先を一振りすると、錆びついた門が嫌な音を立てて開き、広がったのは広大な荒れ果てた庭園だった。雑草が生い茂り、かつての栄光を物語る石像は崩れ、幽霊じみた雰囲気が漂っている。その中央には二つの人影──黒髪の少年と小柄な少女が立っていた。
「あの人たち……おねーちゃんが言ってた……ほんとうに助けに来てくれた……」
ほんの一瞬、リルアの胸に希望の灯がともった。しかしその灯もすぐに、エルボスが放つ冷たい声によってかき消された。
「黙れ、僕の人形。お前に言葉は不要だ」
エルボスの鎖の呪いがリルアの身体を縛り付け、声を奪う。ただ『私も助けて』と心の中で叫ぶだけ。けれど、その叫び声は誰にも届くことはなく、瞳から溢れた血混じりの涙が頬を濡らし、地面に吸い込まれていくだけだった。少年と少女の姿が霞む中、リルアの意識は、深い闇へと沈み続けていった。




