第14.5話 変わらぬ気持ち
セルシオ国王の命を受け、八乙女 愁の捜索を命じられてから、すでに一月以上が経過していた。ユアにとって恩人であり、ユアの友人のリアにとって大切な存在である愁を捕える──その苦渋の任務は、彼女とアルバートの間に深い溝を作った。あの日の激しい言い争いを境に、二人の関係はどこかぎくしゃくしたままだ。
それ以来、ユアはまるで別人のようになった。訓練も座学も欠かさずこなすものの、以前のような明るさや無邪気な振る舞いは影を潜め、淡々と義務を果たすだけの日々。アルバートに向ける目も、どこか冷めたものに変わっていた。彼女が放つ言葉には、とげがあるわけではないが、その端々には『他人行儀な距離感』がにじんでいる。訓練や食事の時間以外、彼女は部屋に閉じこもり、二人が共に笑い合った日々は遠い昔のように感じられた。
アルバートにとって、それは耐え難い状況だった。だが、どうすれば修復できるのか、全くわからなかった。彼は幼い頃に両親を失い、路地裏で一人孤独に生き延びてきた過去がある。セルシオ国王に才能を見いだされ保護されてからも、人と深く関わることなく剣の稽古に明け暮れる日々。勇者に任命されて以降もその孤独は変わらず、感情を分かち合う術を知らないまま今まで生きてきた。
そんな彼を変えたのがユアだった。明るく無邪気な彼女との日々は、アルバートに笑顔とぬくもりを取り戻させた。そして、ユアは自分の想いを真っ直ぐに伝えてくれた、初めての存在だった。だからこそ、今の関係が続くのは耐え難く、どうにか修復したいと願いながらも、何もできない自分がもどかしかった。
一人で任務に出る日々が続き、今日もまたアルバートは一人、愁の捜索とパトロールに出かけていた。他の勇者たちにも愁の捜索命令が出されており、各地に散らばっている。アルバートは、彼らに先を越される前に、自ら見つけ出して話をつけたいと考えていた。他の勇者たちはクミラを除き、あまり信用できる者がいないからだ。
王都を離れ、彼が向かったのは近郊の小さな村。道中、不穏な空気が漂い始めた。平穏なはずのこの地に似つかわしくない、禍々しい気配が漂っていた。
「……嫌な感じがするな」
警戒を強めながら歩みを進めると、遠くから一人の男が走り寄ってきた。男は村人らしき風貌だが、全身血まみれで、片腕を失っている。血の気を失った顔には恐怖と苦痛が刻まれ、もう一方の腕で失われた腕を必死に押さえていた。
勇者の証である白い騎士服を着るアルバートの姿を見つけると、男はさらに足を速め、ふらつきながらも彼の元へたどり着いた。
「ゆ……勇者様!どうか、お助けを……」
「その傷は……何があった?」
男は荒い息をつきながら地面に倒れ込み、命を削るように言葉を紡いだ。
「村に……見たことのない男が……男たちは皆殺され……娘たちは……犯され……村が……めちゃくちゃに……。私はこの事態を王都に知らせるため……繋がれた腕を……切り落として……ここまで……」
男の目は虚ろで、もう焦点が合っていない。それでも最後の力を振り絞り、アルバートに訴えかける。
「……どうか、村の人々を……助けて……」
アルバートは男の肩にそっと手を置き、力強くうなずいた。
「わかった。第二階位勇者のこの私が神に誓い、必ず助ける。よくここまで来てくれた。後は私に任せろ」
男は弱々しい笑みを浮かべ、力尽きた。その命を懸けて伝えた願いを胸に刻み、アルバートは男の亡骸を道の端に移し、村に向かって全力で駆け出した。
◆◇◆◇◆◇
村の入り口に辿り着いた瞬間、アルバートの足は凍りついた。目の前に広がる光景は『地獄』そのもの──否、それ以上に酷い惨状だった。血飛沫が道端に暗赤色の絨毯を描き、無惨に切り裂かれた人体の断片が無造作に散らばっている。空を覆う灰色の雲から差す微かな陽光が、その光景を一層残酷に照らし出していた。周囲を包む静寂は、むしろ耳を引き裂くような恐怖を生み出していた。
「……これが人の仕業だというのか」
アルバートは呟き、聖剣を抜いた。瞬時に〈聖気法力〉がその身体を包み、純白の光が冷たい空気を震わせる。だが次の瞬間、村の建物の奥から聞こえた女性たちの悲鳴がその場を切り裂き、扉を突き破って飛び出してきた影にアルバートが反応する間もなく、『何かが』壁に叩きつけられ、生々しい音を立てて砕け散った。
(あれは……人なのか?)
アルバートの目に映ったそれは、かつては人だったであろう痕跡を残していた。だが今や、その姿は生命の温もりどころか、存在そのものが冒涜され尽くした『何か』だった。周囲の低い気温の影響で、はじけ飛んだ肉片から立ち上る湯気が、ほんの数分前まで彼らが生きていた証を語っていた。
そして、静寂を破るように、破壊された扉の向こうから『男』が現れる。
赤い髪、筋骨隆々とした体躯、刻まれた額の傷痕──その全てが異質で、狂気そのものだった。ボロボロの灰色のローブが風に揺れ、裾にこびりついた血が暗い赤い跡を残している。
「はぁ、もう飽きたな……ここの女も」
男の右手には、一糸纏わぬ若い女性の死体がぶら下がっていた。力なく垂れたその首から生気が抜け落ちていることは明白だった。男は邪魔になったとばかりに、その死体を石造りの壁に叩きつけた。凄まじい勢いで叩きつけられた死体の肉が砕け散り、鮮血が飛び散る音が村の静寂に不気味な響きを加えた。
「貴様、何者だ! 人の命を何だと思っている!」
剣を構えながら鋭い眼差しを向けたアルバートの問いに、男は面倒臭そうに頭を掻きむしる。
「あぁ? なんだお前……その恰好……まさか王国の勇者とかか? 俺は陸傑死団のブレストだ」
その名を聞いた瞬間、アルバートの目が鋭く光る。
「陸傑死団……ブレストだと!? 帝国の裏社会の大物が、なぜ王国の村を襲う!」
陸傑死団──その名はラリアガルド帝国のみならず、このアイラフグリス王国でも知られていた。強国であり大国でもあるラリアガルド帝国の軍ですら迂闊に手を出せない裏社会の巨頭であり、ブレストはその総帥。彼の名は『全統五覇』にも匹敵すると言われており、数年前の失踪以来、消息を絶っていた。そんな男が、ここで目の前に立っている。
「理由なんてねぇよ。ただ腹が減ったし女も欲しかった。それだけだ」
「それだけだと……!? この惨状を生み出しておいて、貴様に人の心はないのか!」
「うるっせぇな! ぶっ殺すぞ、てめぇ!」
怒声と共に、ブレストの右手に青紫色の光剣が現れる。その剣の光はユアが使うピンク色の光剣によく似ていたが、今は余計なことを考える暇はない。ブレストが巨体からは想像もつかない速度で斬りかかってきたからだ。
「くっ……重いっ!」
アルバートは聖剣を両手で支え、辛うじてその一撃を受け止める。だが、衝撃は想像を超えるものだった。次の瞬間、ブレストの剣が横薙ぎに振られる。それを察知したアルバートは、膝を曲げて剣を足に添わせ衝撃を受け流す構えを取る。
それでも、その勢いは受け止めきれず、アルバートの体は吹き飛ばされた。空中で重力魔法を使い、なんとか着地するが、ブレストは既に次の攻撃を繰り出していた。
「ちっ、考える暇もないか……!」
アルバートは〈空間支配〉を展開し、支配領域を広げる。支配領域はその範囲内で自身の能力を底上げし、逆に相手の動きを相手の強さに応じて抑制することができる。しかし、ブレストはそんな支配領域すら意に介さず何事もないかのように突き進み、光剣で空間を斬り裂く。だが、アルバートはブレストが剣を振り下ろす際のほんのわずかな隙を突き、神速の剣撃を繰り出した。
(これで仕留められる……!)
勝機を確信した瞬間、ブレストの手から剣が消え、彼は蹴り上げた足でアルバートの剣の軌道を逸らした。体勢を崩されたアルバートに、ブレストの拳が容赦なく振り下ろされる。
「ぐっ……!」
胸に受けた衝撃が鋭い痛みとなり、全身に波及した。その痛みは心臓を強く叩き、鈍い鼓動が胸の奥で響く。アルバートの身体は無情にも地面に叩きつけられ、土埃が舞い上がる。肺から空気が絞り出されるような感覚に、荒い呼吸が漏れた。骨が軋む音が耳元で響き、筋肉は言うことを聞かない。
(立ち上がれ……殺されるぞ……!)
脳内で警鐘が鳴り響く。だが、全身の痛みがその意志を嘲笑うかのように、四肢を動かすことを許さない。目を開ければ、焦点の合わない視界の中に鋭い殺意を放つブレストの姿が浮かぶ。彼は迷うことなく、アルバートとの距離を縮めてきていた。
「はぁ、つまらねぇなお前」
ブレストの声が、冷たい夜風に乗って耳に届く。その瞳は嘲笑に歪んでいる。
「やる気あんのか? 何考えてるか知らねぇけどよ、戦ってる最中に余計なことばっかり考えてんなよ。俺は戦いを楽しみたいんだよ。お前みたいに『他の事』に気を取られてる奴なんて、つまらなくてしょうがねぇ」
次の瞬間、ブレストの足が大きく振り上げられた。その動きには一切の躊躇がなかった。
「行くぞ、ほら!」
その足がアルバートの腹部を正確に捉え、鈍い音を立てた。鋭い衝撃が身体を貫き、アルバートは抵抗もできないまま数メートル吹き飛ばされた。背中から地面に叩きつけられると同時に、胃の中のものが逆流する。吐血と共に溢れる液体が冷たい土を赤く染めた。
「つまんねぇし、俺は急いでるからな。そこでくたばってろよ」
冷ややかに吐き捨てると、ブレストは背を向け、無造作に村を後にした。その足音が遠ざかると共に、静寂が村を支配する。生存者は一人もいない。瓦礫の山と、そこに散乱する肉片だけが、かつての平穏の面影を物語っていた。
寒風が吹き抜ける中、アルバートは気を失ったまま動かない。意識の奥深くで、彼の心は暗闇に沈んでいく。温かさも光もない漆黒の世界が彼を飲み込み、その存在を徐々に曖昧にしていった。
寒空の下、アルバートは気を失い地面に倒れたまま、凍てついた時間が静かに流れていった。周囲には死の気配しかない。村は滅び、そこにあるのは冷たく沈黙する死体と、見るに堪えない肉片の残骸──生者の影はどこにもなかった。
やがて夜が訪れ、空は深い闇に包まれる。気温はさらに下がり、凍てつく冷気がアルバートの体温を容赦なく奪っていく。命の灯火が消えゆく中、それでも彼の意識はまだ戻らない。
暗闇の中で、アルバートは沈んでいった。それはただの夢ではない、深く沈む感覚が彼の全身を支配していた。目を開けても何も見えない虚無の空間。彼は悟る──これは死だ、と。
「これが……終わりなのか」
低い声が虚空に溶ける。どこまでも続く闇が彼を引きずり込み、無限の孤独が心を蝕んでいく。
(また、ひとりになってしまった……)
沈んでいく感覚の中で、アルバートの思考が浮かび上がる。
(結局、私は最後には独りなのだ)
かつて誰かが言っていた。『人は皆、独りだ』と。そして、『人は独りでは生きていけない』と。それはどちらも正しいのだろう。だが、今のアルバートには後者を証明する者はいない。
ふと、ユアの顔が脳裏に浮かぶ──アルバートの弟子であり、彼にとっては自分を慕ってくれる存在だ。しかし、彼女を遠ざけ、傷つけたのはほかならぬアルバート自身だった。
『陛下の命令は正しく絶対だ』
その言葉が頭の中を支配する。迷いが生じるたび、この言葉が現れ、全ての判断を狂わせる。セルシオ国王には恩がある。だが、いつからだろう。その恩が自分を縛りつける枷に変わったのは──
「こんなにも苦しいのなら、いっそ死んでしまったほうが楽ではないのか……」
そう呟いた瞬間、アルバートの心は全てを手放した。闇の中を沈む速度が増し、深淵がすぐそこに迫る。
──そのとき。
「……さま……お師匠さまっ!」
遠くから声が聞こえた。それはアルバートの名を呼ぶ声、温かさを宿した声。もう何もわからないはずなのに、その声だけは暗闇の中で鮮烈に響いた。
「誰だ……?」
瞑っていた目を開け、アルバートは上を見た。そこには微かな光が差し込んでいる。それは遥か彼方、手の届かない場所にある光だった。しかし、その光は温かかった。生きることの意味を再び思い出させるような、希望そのもののように──
意識が薄れていく中で、アルバートは手を伸ばした。その先に、誰かが彼の手をしっかりと掴んだ。暖かく、確かなその手。引きずり込む闇の力を凌駕するほど強い力で、彼を引き上げようとしている。
(まだ……死にたくない……!)
その思いが彼の中で強く燃えた瞬間、周囲の暗闇は消え去り、満天の星空が広がった。
「ここは……? 俺は……生きているのか……?」
「お師匠さま! よかった……目を覚まして……」
震える声が、闇に閉ざされていたアルバートの耳を打った。瞼をゆっくりと開けると、そこには栗色の瞳を涙で濡らしたユアが、必死に彼を見下ろしていた。頬を伝うその涙は、夜の冷たささえも温めるような温かさを持っている。
アルバートは気づく。自分の頭はユアの膝の上にあり、彼女の膝枕に守られていることを。体には、彼女が着ていたであろう冬用のコートが掛けられていた。微かな震えが伝わるのは、彼女自身も寒さを堪えているからだろう。
「ユア……」
声にならない声で名を呼ぶ。彼女の存在がまるで夜明けの光のように、アルバートの胸の奥に差し込み、長い孤独の闇を追い払った。その瞬間、彼は悟った。
(私は独りではなかったのだな……)
「何か嫌な感じがしてお師匠さまを探していたんです。そしたら道端で亡くなっている男の人がいて、もしかしてと思ってこの村に来たら……この有り様で。お師匠さまも血だらけで倒れているし、本当に心配したんですよ?」
ぽたぽたと涙がこぼれ落ち、アルバートの頬を濡らしていく。その温かさが、凍てついた心と体を少しずつ溶かしていくようだった。辛うじて動く手を伸ばし、彼はユアの頬に触れる。その柔らかな感触と体温は、アルバートが自分がまだ生きていると思える証のように、優しい温かさを伝えてくれるようだった。
「ユア……心配かけたな。ユアが呼んでくれたお陰で戻ってくることができたよ。ありがとう……そして、すまなかった。ユアを救ってくれた恩人を、命令とはいえ、まるで悪人のように扱ってしまって……」
アルバートの声は弱々しいが、その言葉には深い後悔が滲んでいた。
「今はそのことはいいですよ! それよりもお師匠さまが無事なら、私はそれだけでいいんですから」
言葉と共に、ユアの手から微かな光が生まれる。その光は彼の体を包み込み、じんわりと痛みを和らげていった。
「実はこっそり練習していた治癒の魔法を使っているんです。どうですか? 少しは楽になってきましたか?」
「……ああ、確かに。ありがとう、ユア」
アルバートは、彼女の小さな手のひらから伝わる温もりに、生きる力を感じた。それはただの治癒の力ではない──ユアの心そのものが、自分を救おうとしている。それを感じさせてくれる特別なものだった。
「ずっとユアと仲直りしたかったのだが、なかなか言い出せなくてな。もっと早く伝えるべきだった。本当にすまなかった」
「私もずっと言いたかったんです。でも、どんな顔をして言えばいいか分からなくて……私こそ、ごめんなさい」
二人の間に漂う微妙な距離感が、言葉と共に溶けていく。お互いが心の奥底に抱えていた想いが、今ここで初めて交わり始めた。
「お師匠さま? 前に言ったこと、覚えてますか? 私をお嫁さんにしてほしいって言ったこと」
唐突な言葉に、アルバートは思わず目を瞬いたが、次の瞬間には微笑を浮かべて答えた。
「ああ、ちゃんと覚えているよ。ユアとずっと一緒にいられるなら、それも悪くないかもな」
「本当ですか!?」
ユアの目が輝きを増す。しかし、アルバートはわずかに笑いながら首を振った。
「もう少し大人になっても、ユアの気持ちが変わらないなら、そのときはきちんと答えるよ」
「なんだー。今じゃないんですか? がっかりです」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するユア。その愛らしい仕草に、アルバートは思わず声を漏らして笑った。
(こんな、なんてことのない日常が、いつの間にかこんなにも大切なものになっていたんだな……)
孤独に苛まれた日々を思い出す。だが、今では隣にユアがいる。その存在は温かな日差しのように、冷え切ったアルバートの心を優しく包んでいた。
「帰ろうか、家に」
「もう動けますか?」
「ああ。でも、肩を貸してくれると助かる」
「任せてください! それじゃあ帰りましょう。私たちのお家に」
二人は寄り添いながら歩き出す。星明かりが薄暗い道を照らし、そこには確かに、未来への希望が灯っていた。




