第9-5話 貴族の企みー後編ー
膝をつき、震える手でアルバートは目の前に倒れる少女を抱き寄せる。
その身体には数え切れぬほどの深い裂傷が走り、血が滝のように流れ落ちていた。
「……ユア……?なぜ、お前が……」
喉元にも傷があり、彼女は声を発することすらできない。だが、意識はまだ残っていた。弱々しくも微笑み、かすかに首を縦に振るその姿に、アルバートの胸が締めつけられる。
「ユア……一分だ。一分だけでいい、耐えてくれ。それまで……絶対に死ぬな。すぐに治療してやる」
ユアは頷き、アルバートはそっと彼女を地面に横たえる。そして、背を向けた。
その視線の先、私兵や盗賊たちに囲まれたエブハンがいた。
「なっ……なぜだ!なぜそのガキが貴様の代わりに八つ裂きになってる!……まさかっ、あの小娘、魔族なのか!?そうでなければ説明がつかんっ!」
エブハンの叫びに、アルバートはゆっくりと目を向けた。
空気が変わる。微風さえ凍てつくような気配。彼の瞳に灯ったのは、烈火にも等しい『殺意』だった。
その一瞥で、エブハンも、私兵たちも、言葉を失う。その場にいた全員が、本能で理解した──この男の敵意に触れたならば、『確実に死ぬ』と。
「お……お前たちっ!勇者を殺せっ!殺した者には大量の金貨を与える!さっさとやれ!」
金に目が眩んだ私兵たちが動き出そうとしたその時。アルバートが、一歩、前に出た。
「貴様ら……もはや、容赦はしない」
言葉と同時に、地に踏み下ろされた足が、石畳を叩いたとは思えない硬質な金属音を響かせる。
その一瞬、アルバートを中心に『白い波紋』が空間を侵すように広がっていった。
白。純粋にして絶対的な支配の色。それは見る間に戦場を包み込み、敵対する者たちを空間ごと呑み込んでいく。
──〈空間支配〉。アルバートが発動させた、異能の領域。その内側に取り込まれた者は、例外なく、アルバートの許可なくして『何ひとつ』行動できない。
「エブハン伯爵。貴様には話がある。それ以外は──すべて、消えろ」
次の瞬間。剣が──抜かれなかった。ただ、「キン」と小さな音が鳴っただけだった。
にもかかわらず、領域内にいた五十を超える私兵と盗賊たちの首が、一斉に宙を舞った。血飛沫が咲き乱れ、地は真紅に染まり、まるで紅蓮の花園のように変貌する。
だが、その中心に佇むアルバートだけは、一滴の血も浴びていない。
支配領域が解かれ、自由を得たエブハンは、その場に崩れ落ちる。全身から力が抜け、腰を抜かし、唇を震わせた。
「いっ、一体……何が……剣を抜いてもいないのに……」
震えきった声。恐怖に染まりきった問い。その問いにアルバートは、冷たく、吐き捨てるように答える。
「貴様のような卑しい男に、私の剣が視えると思うな。私は剣を振るっていないのではない。貴様に、視えていないだけだ」
言葉の最後と同時に、アルバートは手をかざし、〈重力魔法〉を発動する。漆黒の重力球がエブハンの頭上に生まれ、そのまま押し潰すように落下した。
悲鳴を上げる間もなく、エブハンは地に崩れ落ち、そのまま気を失った。
──静寂が、再び場を包み込む。ここまでで、約四十八秒が経過していた。
アルバートは息を切らせながら駆け寄り、ユアの小さな身体を優しく抱き上げる。腕の中の彼女は、見るに堪えないほど痛ましい姿だった。喉元は鋭利な刃で斬られ、呼吸は細く苦しげに途切れている。両腕も脚も深く裂け、まるで今にも千切れてしまいそうだった。血の匂いが鼻を突き、冷たく湿った感触が手のひらから伝わってくる。
「待ってろ、ユア……今、神水を飲ませてやるからな!」
勇者にのみ一つだけ与えられる『神水』──それは、神の雫と呼ばれるほどに貴重な奇跡の水であり、いかなる傷も瞬時に癒やすとされている。
その瓶を震える手で開き、ユアの唇に近づけた瞬間、ユアのかすかな手が、拒むように瓶を押し返した。
「……どうした、ユア?早く飲むんだ!」
声を失ったユアは、喉から音を出すことすらできない。それでも彼女は、自らの魔力を振り絞り、〈念話〉の魔法を使ってアルバートに訴えかけた。
(お師匠さま……その神水は、もしもの時に、お師匠さまが使うためのものです。私なんかに使っちゃ……駄目です)
「なにを馬鹿なことを言ってるんだ!飲むんだ、ユア!でなきゃユアが死んでしまう!」
(もう……体に力が入りません。きっと……私はもう……死んじゃうんです。お師匠さま……今まで迷惑ばかりかけて……ごめんなさい。でも……最後に、お師匠さまの役に立てて……よかった……)
「ふざけるな、ユア!そんなことのために、君はここにいるんじゃない!あの時、強くなるって言ったのは……あれは嘘だったのか?こんなときに良い子でいる必要なんてない!我が儘でいい……私は、ユアの『本当の気持ち』が聞きたいんだ!」
怒鳴る声に、涙が滲む。アルバートの眼差しは、何よりも真剣だった。
ユアは、潰れかけた肺からわずかに息を吐き出しながら、閉じかけた瞼の奥で必死に意識を繋ぎ止めていた。栗色の瞳からこぼれ落ちる涙が、血に濡れた頬を伝って地面に落ちる。
(……死にたくない。まだ……死にたくない。ほんとは……お師匠さまと、もっと一緒に居たいです……)
その想いが、心の奥から堰を切ったように溢れ出す。
アルバートに救われてからの日々が、ユアの胸の奥で色鮮やかに蘇っていた。
あの優しい笑顔、励ましの言葉、共に過ごした日々──どれもが宝物だった。だからこそ、自分のために神水を使わせたくなかった。けれど、それでも、まだ傍にいたいという想いのほうが強かった。
「……そうだ。それでいい。ユアには、まだもっとたくさんのことを知ってほしい。いろんな経験をしてほしい。……それに、教えたいことも……まだ、山ほどあるんだ」
アルバートはそっと神水を口に含むと、ユアの唇に自身の唇を重ね、ゆっくりと口移しで与えた。
ただ飲ませるだけでは、力が入らない彼女はむせてしまうかもしれない。だが、この方法なら、神水を無駄にせず、確実に届けられる。
透き通った神水がユアの喉を通った瞬間、まるで命の灯火が再びともされたかのように、彼女の身体に変化が現れる。
破れた皮膚が少しずつ癒え、裂けた腕や脚もゆっくりと元の形を取り戻していく。呼吸が安定し、頬に僅かな血の気が戻った頃──
「ユア?具合は……どうだ?」
ユアは目をゆっくりと開け、小さく微笑んだ。
「……はい。大丈夫です。……声も……出せるようになりました……」
その声は、か細くも確かな光を帯びていた。
「よかった……まずはこのまま、宿へ戻ろう。……後のことは、それからでいい」
そう言って、アルバートはユアを背中に抱き上げる。柔らかな重みと、まだ微かに残る体温が彼の背中に伝わってくる。
歩き出したアルバートの耳元で、ユアが小さな声でぽつりと呟いた。
「……お師匠さまに……キス、されちゃった……」
その声は細く震え、恥じらいの色を帯びていた。しかしその中には、隠しきれないほどの『幸福』が滲んでいる。
しかし、突然のユアの思わぬ言葉に、アルバートはふと足を止めた。
「おい、ユア。あれは助けるために仕方なくしたんだ。人工呼吸のようなものでな……」
動揺を隠しきれない声音で弁明するアルバートに、ユアはむすっと頬を膨らませ、可愛らしく抗議する。
「それでも女の子にとって、はじめてのキスってすごく大切なものなんですよ?責任、取ってくださいっ!」
そう言ってそっぽを向いたユアの頬は、薄紅に染まり、どこかぷいっとした態度の中にも乙女の羞恥が透けて見えた。
(……はあ。拗ねたか。これはしばらく機嫌が直らないな)
アルバートは内心で頭を掻く。
たしかに医療行為とはいえ、年頃の少女に対して無神経すぎたかもしれない──そんな一抹の後悔が胸をかすめる。
だが、もう過ぎたことだ。ここで拗らせても始まらない。何とか場を収めようと、アルバートは小さく息を吐き、ひとつ提案を口にした。
「悪かった。償いに何でもひとつ、言うことを聞いてやる。これで手を打たないか?」
すると、横を向いたままのユアが、ふくれた声で聞き返してきた。
「……本当に、なんでもですか?」
「ああ。私にできることであればな」
その返事を聞いた途端、ユアはくるりと振り向き、勢いよく告げた。
「じゃあ私を、お師匠さまのお嫁さんにしてくださいっ!」
「ああ、わかった……って、はあっ!?今なんて言った!?」
あまりに衝撃的な言葉に、アルバートはいつもの冷静な態度を崩して思わず聞き返す。
「だーかーらーっ!私をお嫁さんにしてくださいって言ったんですよっ!」
「ユア……お前、本気で言ってるのか?」
「もちろん、本気ですけどっ?」
そのあまりの真剣さに、逆にどう返せば良いのかわからず、アルバートは黙って歩き出した。
「ちょ、ちょっとお師匠さま!?無視ですか!?さすがにそれはひどいですよ!すっごく恥ずかしかったのに……乙女の告白を無視だなんてっ!」
背後でばたばたと足音を立てながら、ユアは必死に抗議の声をあげる。
(……まったく、なんでも言えなんて言うんじゃなかったな)
心の中で嘆息しつつ、アルバートは現実逃避気味に肩をすくめた。そして気を取り直して、少しだけ柔らかな声で応える。
「……そうだな。もう少しユアが……魅力的な大人の女性になったら、その時は考えてやってもいい」
とたんに、ユアの顔がふくれ上がる。子ども扱いされたことが気に入らないらしく、今にも飛び跳ねそうな勢いで叫んだ。
「むーっ!もうっ!わかりましたっ!今はそれで我慢しますっ!でも私、ぜーったい魅力的な女性になりますからね!知らないうちに誰かにとられても知りませんからね!」
「はいはい……まったく。ユアはほんとに騒がしいな」
だが、その元気な声が聞こえることが、どこかほっとするのも事実だった。
「……まあ、そのくらい騒げるなら安心だな」
そう呟いたアルバートの言葉を最後に、ユアは再び口をつぐんだ。拗ねたのか、それとも照れ隠しなのか──静けさの中でふと、彼の腕を掴むユアの手に、ぎゅっと力がこもる。
そして、再び耳元で囁くように──彼女は、真っ直ぐな思いを届けた。
「お師匠さま……助けてくれて、ありがとうございました。……私、お師匠さまのこと、大好きです……」
その声には、心からの想いと、揺るぎない信頼が込められていた。
背中に触れるユアの鼓動が、まるで小鳥の羽ばたきのように速く打ち鳴らされる。それはまさに、彼女の『心そのもの』が伝わってくるかのようだった。
「……助けるのは当たり前だろ。私にとっても、ユアはもう──大切な存在だからな」
アルバートの言葉に、ユアはまた、そっと腕に力を込めた。
そのまま彼女を抱えたアルバートは、足を兵舎へと向ける。
道中、淡く照らす月光が二人を包み込む。宿へ帰るその前に、やるべきことがあった。
「地下に囚われていた者たちを解放、保護し、エブハン伯爵を捕らえて牢へ拘束しておいてくれ。私も明日、牢に向かう。処遇はそのとき判断する」
兵士たちはすぐさま敬礼し、的確に命を受ける。
「了解しました、アルバート様。至急、手配いたします!」
「すまないな。連れが戦闘で負傷していてな、治療を優先したい。あとは頼んだ」
そう告げ、兵舎を後にする。
そしてようやく予約していた宿にたどり着き、静かな部屋に入ると、アルバートはユアをベッドにそっと寝かせた。屋敷からの帰り道──すでに眠りについていたユアは、今は深く安らかな寝息を立てている。まるで、守られた子どものように穏やかな顔で。
「……まったく、世話の焼ける弟子だ」
呆れたように呟きながらも、その声音はどこか優しい。ユアの髪をそっと撫で、彼も隣のベッドへ腰を下ろす。
明日から、また任務が待っている。だが──以前とはもう、違う。任務が全てだった日々は終わった。今は、守るべき存在がいる。帰る場所がある。そして、自分がその『帰る場所』にならねばならない。
──もう二度と、彼女を泣かせぬように。
アルバートは静かに瞳を閉じ、改めて心に誓う。己を鍛え直し、さらに強くなると。誰よりも頼れる存在となり、何よりも大切な少女を、確かに守り抜くと。
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