第2話 リリーニャの過去 前編
いつの間にか雪は勢いを弱め、森の中を吹き抜ける風も幾分か穏やかになっていた。降り積もった雪に足を取られながらも、一行は目的の山小屋へと向かう。やがて、木々の合間からその姿が見えた。
山小屋は決して立派な建物ではない。しかし、長年放置された廃屋というわけでもなく、最低限の手入れが行き届いていることがうかがえる。ライトが木製の扉を押し開けると、リリーニャに続いて愁とスフィアも山小屋の中へと足を踏み入れた。
室内は八畳ほどの広さ。簡素ながらも生活感があり、どこか温もりを感じさせる空間だった。だが、愁の目を引いたのは部屋の中央に設けられた『囲炉裏』だ。この世界では見慣れない──むしろ、本来あるはずのないもの。思わず、愁はライトへと問いかける。
「ライトさん、これはこちらでは一般的なものなのですか?」
愁はまだこの世界の知識に疎い。もしかしたら、この国ラリアガルド帝国では囲炉裏が一般的なのかもしれない。そう考え、疑問を口にした。
囲炉裏を指差す愁に、ライトは準備の手を止めて微笑みながら答えた。
「いえ、これはリリーが考えたものなんです。この山小屋に来たとき、暖を取るための炉がなかったので、何か代用できるものを作ろうと考えていたら──突然『思い付いた!』って言われましてね」
ライトは苦笑交じりに肩を竦める。
「正直、最初は戸惑いましたよ。こんな形の炉は見たことがありませんでしたから。でも、使ってみると驚くほど便利でしてね」
「なるほど……」
愁は囲炉裏をじっと見つめる。先ほどリリーニャが使った魔法──そして、この囲炉裏の知識。そのどちらも『WORLD CREATOR』、あるいは日本に関係しているものかもしれない。囲炉裏は微妙なところだが、『WORLD CREATOR』では頻繁に登場していた。それを踏まえれば、彼女の知識がそこから来ている可能性は十分にある。
(リリーニャには何かある……だが、今は情報が少なすぎる。本人ですらよく分かっていないらしい以上、こちらとしてもどうしようもないな)
愁は軽く息を吐き、肩を抱いて擦る。
建物の中とはいえ、隙間風が入り込み、冷気が肌を刺す。囲炉裏の熱が多少は寒さを和らげてくれるものの、それでも十分とは言えなかった。ちらりとスフィアとリリーニャの方を見やると、二人は楽しそうに談笑しているが、身を寄せ合って寒そうにしていた。
「ほら、寒いだろ。これ、使いな」
愁は即席でクラフトした毛布をスフィアとリリーニャに手渡した。
「うむ、主様、ありがとう」
「愁くんありがとう!」
愁が囲炉裏の側に戻ると、囲炉裏の上では鍋が火にかけられ、静かに煮立ちはじめていた。野菜や肉が食べやすい大きさに切り揃えられ、白い湯気とともに香辛料の芳ばしい香りがふわりと広がる。
しばらくすると、その香りに誘われたのか、端の方で話していたスフィアとリリーニャが囲炉裏のそばへとやってきた。スフィアは愁の隣に腰を下ろし、先ほど愁から手渡された毛布を広げると、迷うことなく愁の体を包み込むようにして身を寄せた。
「ぬくい……おや、主様、冷たくなっておるな」
スフィアはそう呟きながら、毛布の端を器用に巻き込み、二人の間にできる隙間をなくしていく。その動きがあまりにも自然だったせいか、愁は少し照れくさくなる。
「スフィア……お前な……」
「ふふっ、我の体温もすぐに分けてやるぞ?」
そう言いながら、スフィアは愁の手をそっと取った。その指先はまるで氷のように冷たく、スフィアは眉をひそめる。
「主様、手が氷みたいだぞ?」
「うん。寒いのは苦手なんだよね」
「そうか、我も苦手だが……主様はもっと苦手なのだな」
スフィアは小さく息を吐くと、愁の手を両手で包み込む。指先を丁寧に擦りながら、優しく温めていく。その仕草には、どこか愛おしさがにじんでいた。
「これで温かいか?」
「……すんごく温かい。スフィアは心が温かいんだな」
「ん? なんだそれは? 手と心になんの関係があるんだ?」
スフィアは小首を傾げながら、愁の肩にそっと頭を預ける。ふわりと甘い香りのする黒髪が愁の首筋をくすぐった。
「あ、いや……俺のいた国では、そういう話があってね」
「そうなのか。面白い考え方だが、それは間違いだな」
「え?」
「それが本当なら、主様の手は太陽みたいに温かくないとおかしいだろ?」
無邪気な笑顔を浮かべながら、スフィアは愁の手をぎゅっと握る。その手の温もりが、冷えた愁の指先をじんわりと溶かしていくようだった。
囲炉裏の炎がゆらめき、スフィアの横顔を赤く染める。彼女のエメラルド色の瞳に映る光は、まるで星の瞬きのように揺れていた。
(……本当に可愛いな、大人しくしているスフィアは)
愁はそんなことを考えながら、つい視線を逸らしてしまう。スフィアはその様子を見て、口元をくすっと綻ばせた。
「主様、今、何か考えたな?」
「べ、別に何も」
「嘘だな。顔が赤いぞ?」
「いや、これは……囲炉裏の火のせいだよ」
「ふふっ、それならよいが……我の隣から離れるなよ?」
甘えるような声音でそう囁かれ、愁の鼓動が少しだけ速くなる。スフィアは満足そうに微笑むと、再び愁の肩に頭を預けた。
(くそ、やっぱりからかってるな。前言撤回だ)
そんなやりとりをしている間に、ちょうど鍋が完成に近づいていた。グツグツと煮立つ鍋からは、食欲をそそる香りが溢れてくる。
「よーし、鍋が完成しましたよ!」
ライトが手際よく器に料理を取り分ける。待ちに待った食事の時間だ。
愁は一口、スープを含んだ。
(おっ……これは……)
様々な野菜の旨みと肉の脂のコク、ほどよい香辛料のアクセント。それらが絶妙に調和し、飲み干したくなるほどの美味しさに仕上がっていた。
「……これは、うまい」
四人は静かに鍋を食べることに夢中になり、結構な量があったはずの鍋は、あっという間になくなってしまった。
腹が満たされ、体が温まると、次に訪れるのは眠気だった。スフィアとリリーニャは、ぼんやりと囲炉裏の火を眺めながら、うとうとと瞼を重たげにしている。
そんな二人を見て、愁はエンドレスボックスから布団を取り出し、スフィアとリリーニャに渡した。
「ほら。今日はここに泊まっていくから、布団敷いて眠いなら寝ちゃいな」
「むぅ、ありがとう主様……おやすみ……」
スフィアはそう呟くと、リリーニャと共に毛布にくるまり、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。
一方ライトは剣の整備をしながら、静かに手を動かしていた。鋭利な刃が炉の炎に照らされ、鈍く光を反射する。彼の背中を見つめながら、愁はずっと気になっていたことを口にした。
「ライトさん、よかったらリリーとの出会いの話を聞かせてくれませんか?」
ライトは動きを止め、鞘へと剣を納めると、ふと遠い目をした。その瞳には、過去の記憶が映し出されているようだった。
「そうですね……これは僕が見た話と、僕が聞いた話を混ぜたお話になりますが……」
囲炉裏の炎が、ぱちぱちと薪をはぜさせる。窓の外では、しんしんと雪が降り積もり、世界を白く染め上げていた。静寂の中、ライトはゆっくりと語り始めた。
──それは約五年前の冬の話。ラリアガルド帝国の領土内にある、小さな村での出来事だった。
その村に住む木こりの男、オルトスは、いつものように薪割りに精を出していた。薪を売った金と、妻のミリラが編んだ笠を売った金で生計を立てていたが、年々増していく税の重みに耐えるためには、さらに多くの薪が必要だった。彼は朝早くから夜遅くまで、休む間もなく木を伐り、薪を割る日々を送っていた。
そんなある夜、森からの帰り道。村の井戸の近くで、ぼんやりと何かが光っているのが目に入った。
「……なんだ?火事か?」
何かが燃えているのかと慌てて駆け寄ると、そこにはひとりの幼い少女が倒れていた。
アッシュベージュの髪が雪に埋もれ、その中から亜人族の特徴である耳と尻尾が覗いている。小さな体は薄い布に包まれているだけで、吹き荒ぶ寒風に晒されていた。少女は意識を失いながらも、本能的に寒さから身を守ろうと、かすかに身を縮めていた。
「こんな場所で、子供が一人で……?」
オルトスは思わず眉をひそめた。
この村には子供はいない。それに、近隣に村はなく、この冬の寒さの中、幼い子供が独りでここまで来ることなど到底不可能だった。
つまり理由は分からない。しかし、今この少女を放っておけば、確実に凍死してしまう。迷うことなくオルトスは少女を抱き上げ、凍える体を腕に包み込んだ。そして、温かな灯りのともる自宅へと急ぐ。
扉を開けると、ミリラが炉の前で笠を編んでいた。炉の炎が彼女の横顔を照らし、優しい光を帯びている。
「戻ったぞ、ミリラ。こんな遅くまで、すまないな」
「あら、お帰りなさい、あなた。その子は……?」
ミリラはオルトスが抱く少女に気付き、驚いたように目を見開いた。
「井戸の近くで倒れていた。こんな冬の夜に、一人でな……不思議な事もあるもんだ」
「まあ……すぐに温めてあげなくちゃ」
ミリラは少女をそっと抱き取り、炉のそばへと運んだ。その腕の中で少女の顔を覗き込み、そっと髪を撫でる。
「……かわいらしい子ね。この村の子じゃないでしょう?」
「ああ。村の誰にも、こんな子供はいない。一応、明日、村の者に聞いてみよう」
ミリラは小さく頷くと、少女を優しく抱きしめた。その表情には、どこか慈愛の色が浮かんでいた。
翌朝、目を覚ました少女に話を聞くと、彼女は小さな声で名乗った。
「なまえは、リリーニャ……ねんれいは六さいです。それいがいは、わからないの……」
はっきりと自己紹介する様子から、しっかりとした子供であることは伝わる。しかし、それ以外の記憶は一切なかった。さらに、ミリラが村の人々に聞いて回ったが、誰一人としてリリーニャを知る者はいなかった。
その夜、オルトスが仕事を終えて家に戻ると、ミリラが真剣な眼差しで彼を見つめた。
「あなた……リリーニャちゃんを、このまま私たちで育てられないかしら?」
オルトスは少し考えた後、静かに頷いた。
「ああ、いいぞ」
「えっ……?」
思いのほかあっさりと返事をもらい、ミリラは驚いた表情を浮かべた。そんな彼女に、オルトスは真剣な目で言う。
「確かに、生活は楽じゃない。でも……俺たちには子供もいない。リリーニャが自立できるまで育てるのも悪くないだろう。本当の親が見つかれば、そのときは返さなければならないが……それまでは、俺が拾ってきた以上、俺の責任だ。それに……ミリラ、お前は子供が好きだろう?」
ミリラは炉の炎に照らされたリリーニャの寝顔を見つめながら、そっと微笑んだ。
「……ありがとうございます、あなた」
涙が滲んでいた。
「二人で、この子を幸せにしてあげましょうね」
こうして、リリーニャはオルトスとミリラの愛情に包まれながら、新たな家族として迎えられたのだった。




