第5-3話 冒険の始まり
真夜中。あたりは凍えるような寒さに包まれていた。
夜の帳がすっかり下り、あらゆる物音が雪のように静まり返った世界の中、馬車は薄い布で覆われ、辛うじて冷気を遮っていた。
馬車の外、潜り込んだ毛布の中は、少なくとも眠るには耐えられるだけの温もりが保たれている。
御者は馬と馬の間に身を滑り込ませ、毛布にくるまって器用に眠っていた。その顔には安らかな微笑が浮かび、寒空の下とは思えぬほど、実に気持ちよさそうだった。
焚き火の前に腰を下ろし、見張り役としてじっと夜を見守っていると、乾いた足音が霜を踏むように静かに響いた。
振り向いた先に立っていたのは──リアだった。
「リア?どうしたんだい?こんな夜中に」
「……あ、はい。えっと……目が覚めてしまって。寒いですね。その、隣……いいですか?」
小さな声に戸惑いが滲む。愁が被っていた毛布をそっと広げると、リアは遠慮がちに腰を下ろした。彼女の身体がぴたりと寄り添ってくる。驚くほど柔らかく、そして『温かい』。焚き火の熱すら届かぬ肌寒さを、彼女のぬくもりが優しく溶かしてくれた。
「やっぱり誰かが隣にいるだけで、ずいぶん暖かくなるね」
「そうですね。誰かの隣がこんなにも温かいなんて──きっと、愁さまに出会っていなければ……もう二度と、知らずにいたと思います」
ふと、リアの横顔に影が落ちた。ほのかに哀しげな微笑み。何かを遠くに見つめるようなその表情に、愁の胸がひりつく。彼女がこれまでどんな日々を生きてきたのか。まだ訊く勇気はなかったが──これからの時間で、その心を満たしていけたらと、そっと願った。
「これからは心も体も、あったかくなるような、そんな理想の国を作っていくよ。だから、リアも──」
ふと横を見やると、リアはもう静かに目を閉じていた。穏やかな寝息が、夜の静寂に溶け込んでいく。
「……早いなぁ。でも、まあ。あったかいし、いいか」
リアの温もりを肩に感じながら、愁は焚き火を見つめ続けた。夜は深く、けれど静かに、確かに更けていった。
やがて夜明けが訪れた。何事も起こることなく、穏やかな朝だった。
皆で手早く朝食をとり、馬車は再びゆっくりと動き出す。御者の話によれば、目的地には今夜にも到着できるとのこと。
愁は昨夜眠っていないこともあり、しばし仮眠を取らせてもらうことになった。
「リア、スフィア。俺、少し眠るからさ。メラリカさんに迷惑かけないように頼むね。メラリカさん、ふたりのこと……よろしくお願いします」
「はい、任せてください。ゆっくり、休んでくださいね」
愁が馬車の奥に身体を横たえると、すぐにスフィアが近づいてきた。
「主様!我が膝枕してやろう!ほれっ!」
得意げに自分の膝を叩きながら、愁の横に腰を下ろすスフィア。
「いやいや、いいって……大丈夫だから」
軽くあしらおうとしたが、スフィアは一歩も退かない。むしろ、強行手段に出てきた。
「だーめなのだ!膝枕、するったらするぞ!えいっ!」
そのままぐいっと頭を引き寄せられ、彼女の膝の上に収まってしまう。力の強さはさすがのレベル九十二。抵抗は無意味だった。
「……もう、わかったよ。……それじゃあ、おやすみ」
眠気に抗う気力も尽き、愁はそのまま目を閉じた。
柔らかく温かな膝。時折、優しく撫でられる頭。その心地よさに身を委ねながら、愁はぼんやりと思った。
(……スフィアって、雑に見えて、本当はすごく優しいんだよな)
昼の陽光が馬車の窓越しに差し込み、車輪の緩やかな揺れがまどろみを深く誘う。夢と現実の狭間に沈みながら、愁は深い眠りへと落ちていった。
──目を覚ました時、空は既に淡い紫に染まっていた。
馬車は森を抜け、岩肌と崖が連なる荒野へと入っている。おそらく、目的の洞窟はもう近い。愁が身を起こすと、前方からメラリカが声をかけてきた。
「お目覚めですか?目的地の洞窟まで、もう間もなくです。今夜は近くで一晩を明かし、明日の朝から魔力鉱石の採取に向かいましょう」
ほどなくして、馬車は洞窟の手前に辿り着いた。焚き火の準備と寝床の設営を済ませ、全員で簡単な夕食を囲む。
「愁さん、今夜は私が見張りをいたします。皆さんはゆっくりとお休みください」
「いえ、それは……。俺が引き受けますよ」
「大丈夫です。私は今朝、しっかりと仮眠を取りましたし──冒険者ですから。こういうのには、慣れています」
メラリカの口調にはどこか重みがあり、異論を挟む隙のない説得力があった。なぜだろうか、その背中には、語られぬ覚悟がにじんでいるように思えた。
「それじゃあ。お言葉に甘えさせていただきます」
荷を片付け、愁は再び馬車へと戻った。
明日は久しぶりの探索だ。心は自然と高鳴っていた。新しい発見、新しい体験──それらを想像するだけで、胸が騒ぐ。しかしその一方で、不測の事態にも備えなければならない。
愁は事前にいくつかの魔石をクラフトし、回復用のポーションも数本作成しておいた。
リアにはかつて使用したハンドベルを渡してある。それがあれば、〈守護者の聖域〉が自動で展開される仕組みだ。スフィアにはポーションを数本持たせておく。彼女は突っ込みがちな性格ゆえ、怪我の可能性が高い。
準備は万全。洞窟の中には複数の魔獣や魔物が棲息しているとの噂もある。警戒は怠れない。
しかし——それでも、未知へと踏み出す緊張と、高揚。それが絡み合って胸を震わせる。これぞ冒険。これぞ探索。この世界での、初めての本格的な冒険だ。
(明日はきっと、忘れられない一日になるだろうな)
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