第10.5話 魔族との戦い
エブハン伯爵が魔族と接触し、対勇者用の術式を所有していた件、そして伯爵の粛清を終えたことを報告するために、アルバートは一度王都へ帰還した。
王城へと足を運び、謁見の間へと通される。高くそびえる荘厳な柱、絢爛たる装飾が施された壁、その中心に座すのはセルシオ国王──王国を治める絶対的な存在だ。重々しい雰囲気の中、アルバートは静かに膝をつき、事の顛末を淡々と述べた。
国王の瞳は穏やかだった。しかし、報告の中でエブハン伯爵の名を口にした瞬間、彼の表情にわずかな影が差す。一瞬、悲しそうな眼差しを浮かべたが、すぐに威厳ある面持ちへと戻る。
「アルバートよ、此度の件、誠に大義であった。王国の貴族が魔族と通じていたなど、断じて許されることではない。それと、負傷した弟子のために神水を使用したのだったな」
アルバートが静かに頷くと、国王は脇に控えていた神官へと視線を向ける。
「ならば、今回の褒美として特例で神水を再び授けよう」
神官服の男が前に進み、神水の入った瓶と袋に詰められた金貨を差し出す。アルバートはそれを恭しく受け取り、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます。これよりも一層、職務に励み、この身のすべてをもって陛下に尽くす所存です」
謁見の間を後にし、アルバートは王城をあとにする。彼が向かうのは、自宅──ユアが待つ場所。
勇者は神に選ばれし存在であり、その加護を受けるがゆえに、日々の祈りを欠かさぬ。ゆえにアルバートの住まいは、王都の教会の裏手に位置していた。
彼は国から領地や屋敷を与えられているが、それらの管理は代理人に任せ、この小さな家でユアと共に暮らしている。元は孤児院だった建物を改装したもので、広さは十分にあり、風呂も完備されている。ユアの稽古用の広い部屋もあり、使い勝手は悪くない。
玄関の扉を開けると、案の定、ユアがそこに立っていた。アルバートが帰ってくるのを察し、いつも玄関前で待機しているのだ。
「お師匠さまっ!おかえりなさい!」
元気な声と共に、ユアはぱっと笑顔を咲かせる。その姿に、アルバートの胸の奥がわずかに温かくなる。
「ただいま、ユア。今日はちゃんと片付けはしたのか?」
問いかけると、ユアの動きがぴたりと止まった。そして、ゆっくりと視線をそらす。バツの悪い時や、何か隠し事をしている時の癖だ。
「えっとぉ……まだです……」
その声は、どこか怯えたようにも聞こえる。かつて囚われていた時の記憶が影を落としているのだろう。アルバートが決して厳しく叱ることはないのに、ユアの中には、何かを間違えたら見捨てられるかもしれないという不安が根付いている。
アルバートは静かにユアの頭に手を置き、優しく撫でる。
「明日から、私一人で伯爵と繋がりのあった魔族の討伐に向かうことになった。しばらく家を空けるが、一人で大丈夫か?」
「え?あ、はい!大丈夫です……すぐに戻ってきますよね……?」
寂しげな瞳。口元に浮かぶぎこちない笑顔。アルバートが家を空けるたび、ユアはいつもこうだ。幼い頃の孤独が、彼女の心に未だ消えない影を落としている。
「ああ、大体の居場所は掴めているらしいから、すぐに終わらせてくる」
「わかりました!それなら、お家で大人しく待ってます!」
「ああ、稽古は忘れずにな」
「はい!あ、えっと……お風呂、入ってきますね」
「わかった。終わったら夕飯にしよう」
こうして、静かに夜は更けていった。
そして翌朝──アルバートは装備を整え、玄関の扉の前に立つ。見送りのために早起きしたユアが、心配そうな表情で傍にいた。
「それじゃあ、ユア。行ってくる。何かあった時のためにステージ三までの使用を許可するが、外出はできるだけ控えること」
「はい……お師匠さまも気を付けてくださいね?」
「ああ、すぐに戻るからな」
「はい!待ってます……その、ご武運を!」
震える声で、ユアはそう言った。
アルバートは彼女に微笑を向けると、迎えの馬車へと乗り込んだ。見送りの少女の姿が、少しずつ遠ざかっていく。その小さな背中に、再び出会うまでの約束を込めて、彼は静かに拳を握った。
◆◇◆◇◆◇
アルバートが任務で向かうのは、魔族が潜伏しているという情報の入った海沿いの町、ウエルピス。その名は古の言い伝えにも登場するほど歴史ある町であり、王都の食卓を潤す豊富な海産物の供給地でもある。
馬車は静かに進み、王都を離れるにつれ、空気は次第に湿り気を帯びていった。潮風が運ぶ磯の香りが鼻をつく。悪臭というわけではないが、アルバートはこの匂いを好ましく思えなかった。
「また海沿いの町で魔族か……良い気はしないな」
彼の脳裏には、かつて別の海沿いの町で繰り広げられた血塗られた戦いの記憶が蘇る。波音に混じる幻聴のように、剣戟の音や絶叫が耳の奥に響く気がした。
やがて馬車はウエルピスの兵舎前に停車し、御者が扉を開く。降り立つと、潮風が強く吹きつけ、マントの裾が大きく揺れた。目の前には整然と並ぶ兵士たちの姿がある。その視線には緊張と期待が滲んでいた。
「御苦労だった。すぐに動く」
短く言葉を交わし、アルバートはすぐに魔族の情報収集に向かった。
魔族の目撃情報が最も多いのは、町の外れにある神話の時代から存在する古代遺跡だった。その遺跡には、かつて『魔王イリストレイ』が封印されたという伝説が残っている。今となっては千年も昔の話であり、真偽は定かではないが、それでも人々はその場所を畏れ、忌み嫌い、近づこうとしなかった。
遺跡へ向かう道は、荒れ果てた岩場が続く。波が打ち寄せる度に、白い飛沫が宙を舞い、岩肌を濡らしていた。足元には野生の草花が疎らに生え、風に揺れている。
(荒れ放題だな……手入れもされていない。まあ、それもそうか。魔王が眠る場所など、誰が近寄るものか)
遺跡はまるで時に取り残されたかのように静寂に包まれ、空には重たい雲が垂れ込めていた。そんな中、ふとアルバートの全身に戦士としての直感が走る。
(……誰かいるな)
咄嗟に近くの崩れかけた石柱の陰に身を潜める。目を凝らすと、遺跡の入口から二つの人影が現れた。
一人は長身の男。その体には黒い鱗が浮かび上がり、背中には巨大な翼が広がっている。長く太い尻尾がゆらりと揺れ、その顔は竜そのものだった──竜人族の魔族。
そして、もう一人。
背は低く、病的なまでに色白で美しい容姿の少女。長い黒髪にフリルの多い黒のドレスを纏い、まるで影そのもののように遺跡の中から現れる。その瞳には何の感情も映っておらず、異様なほど冷たい輝きを湛えていた。
この二人の放つ魔力の波動は異常だった。かつてアイラフグリス王国を町を蹂躙した魔族の将軍──バルバラの配下すら凌ぐほどの強大な力。
その時、少女の魔族が微かに視線を動かし、こちらを見た。
(気づかれたか──!?)
「ん?どうした、ユーソラス。何かいたのか?」
竜人族の男が、少女の方に目を向ける。ユーソラスと呼ばれた少女は、ふっと唇を歪め、艶然と微笑んだ。
「いいえ、アルボラス。何でもないわ。ただ……何かの気配を感じた気がしたのだけど、どうやら気のせいだったみたいね」
その言葉と同時に、アルバートの身を隠していた石柱が『一瞬で』消滅した。
「……!」
間一髪で飛び退いたアルバートの瞳が、消えた柱のあった場所を凝視する。そこには、まるで初めから何も存在しなかったかのように、影すら残されていなかった。ただ、ユーソラスの指先から立ち昇る淡い魔力の残滓だけが、その異常を物語っていた。
「そうかそうか! いやはや、流石は吸血鬼の王の血族だな。その力は羨ましいぞ!」
アルボラスが喉を鳴らし、楽しげに笑う。その声音には警戒や焦りの色など微塵も感じられない。それに対し、ユーソラスは口元に優雅に手を添えながら、微笑を浮かべた。
「あらあら、それを言うなら貴方も竜王の血族でしょうに」
魔族の二人は、まるで談笑を交わすかのように言葉を紡ぎながら、悠然とその場を後にする。海風が遺跡の静寂を揺らすなか、アルバートの背を冷たい汗が伝う。拳を固く握りしめる彼の瞳は、海の向こうへと飛び去っていった二人の影を追っていた。
(奴らの狙いは……一体何だ?)
遺跡を後にした魔族たちの姿は、やがて海の彼方へと消えていった。彼らの余裕は不穏なほどで、まるで勝敗が既に決しているかのような、あるいは戦うことすら無意味であるかのような——あまりにも自然な振る舞いだった。
完全に気配が消えたことを確認すると、アルバートは慎重に柱の影から姿を現した。
「やれやれ……とんだ大物がいたものだ。危うく、あの場で殺されるところだったな」
アルバートは、かつて柱があった場所を見つめる。つい先ほどまで確かに存在していたそれは、今ではまるで幻であったかのように跡形もなくなっている。彼は深く息を吐いた。魔族のただならぬ力の片鱗を目の当たりにした今、彼らが単なる敵ではないことを改めて実感する。
彼の視線が再び海の向こうへと向けられたが、今は追うべきではないと判断する。時間的にもうすぐ待ち合わせの刻限。ひとまず、町へ戻るべきと考えた。
「そろそろ戻るか。たしか、今回はクミラが応援に来るんだったな」
遺跡を後にし、馬を駆ることしばし。町の兵舎前に到着すると、ちょうど王国騎士団の紋章を掲げた馬車が停まるところだった。
車輪の軋む音と共に扉が開く。そこから降り立ったのは、黒いローブを羽織り、白い騎士服を身に纏った小柄な少女──クミラだった。
彼女の青い髪が、月光を受けて淡く輝く。冷たい夜風が彼女のローブを揺らし、白銀の刺繍が光を反射する。
「アルバートさん!お久しぶりです。第五階位勇者クミラ、只今到着しました!」
朗らかで真っ直ぐな声が、静かな夜に響く。クミラは一歩前へ進み、丁寧に頭を下げた。
「久しぶりだね、クミラ。君のような優秀な勇者が来てくれて心強いよ」
アルバートが差し出した手を見て、クミラは一瞬戸惑う。それでも、小さく息を吸い込み、意を決したように手を握り返した。その掌は少しだけ震えている。
「あ、あの!精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」
そのぎこちない態度が、彼女の緊張を物語っていた。ずっと会いたかった存在に再会し、その手を握ることさえ躊躇うほどに。
アルバートはふっと微笑んで、優しく答える。
「ああ、こちらこそよろしく」
クミラは王国でも最高峰の魔導師の一人であり、強大な魔力と精密な魔力操作の技術を持つ。さらに、勇者だけが扱える聖気法力すらも高いレベルで操る特異体質の持ち主だった。
約五年前、アルバートは十歳だったクミラに剣技の指南をしていたことがある。あの頃はまだ準勇者候補だったが、今では第五階位勇者にまで昇り詰めている。その努力を思えば、彼女がどれほどの研鑽を積んできたかが容易に想像できる。
彼女の存在が、今の戦局においてどれほど心強いものか。
「先ほど敵の戦力の確認を行ってきた。どうやら、かなり高位の魔族が少なくとも二人はいることがわかった。その他、遺跡の中におよそ二十ほどの魔族がいるが、そちらはさほどでもないだろうな」
「二十……結構多いですね。それに高位の魔族が二人もいるとなると、こちらも全力で向かわないとまずいですね」
問題はその二人の魔族の実力だった。彼らのオーラから感じ取れるものは底知れず、単なる力の強さでは測れない何かがあった。アルバートは僅かに目を細める。
「遺跡の中の魔族はそれほど脅威ではないが、奴ら二人が問題だ。出来れば先に始末してから遺跡に向かいたいと思っている」
幸いにも、今のところ二人の魔族は遺跡を離れ、少し離れた無人島へ向かっているようだった。何をしているのかはわからないが、邪魔されずに討つなら今しかない。
冷たい海風が二人の間を吹き抜ける。クミラの青い瞳が鋭く輝き、彼女の決意が揺るぎないものだと告げていた。
「そうですね。ならばまずは高位の魔族を討ち、その後で遺跡の魔族を討伐しましょう」
話がまとまり、二人は町の外れへと移動した。クミラが飛行魔法を展開し、風の力が彼女の足元を優しく持ち上げる。アルバートもその背を預け、どこまでも蒼が広がる空へと飛翔する。目指すのは、魔族が向かった無人島──距離にして約十キロ。高速で飛べば十五分ほどで到達する。
穏やかな海を渡り、目的地の上空へとたどり着く。眼下には波に削られた岩肌が広がり、荒涼とした大地が太陽の光に照らされていた。しかし──
「魔族は……姿は見えませんね」
「そうだな。いや、待て……何かが来る!」
その瞬間、鋭い殺気が奔る。アルバートの戦士としての直感が警鐘を鳴らした。
見えない『何か』が、信じられない速度で接近してくる。不可視の脅威──遺跡で石柱を消し去った、あの恐るべき攻撃と同じもの。狙われているのはクミラ。アルバートは迷うことなく彼女の手を引き、抱き寄せるようにしてその場を高速で離脱した。
刹那、彼女が立っていた場所が静かに『消滅』する。
地面も、草木も、音すらも奪われたかのように。そこには何の痕跡も残されていない。ただ虚無がぽっかりと口を開けていた。
「……っ!ありがとうございます! でも一体どこから……」
クミラは荒い息を吐きながらも、すぐに体勢を立て直した。アルバートも剣を構え、周囲を警戒する。だが、敵の気配は皆無。視覚でも、魔力探知でも捉えられない。
「ここまで気配を消せるとはな……」
「見えないなら、わかるようにします!」
クミラが地面に手をつき、魔力を込める。刹那、魔法陣が輝き、周囲に淡い光が広がった。
「探知結界──これで範囲内の動きは全て捉えられます!」
「よし、反応があればすぐに知らせてくれ」
アルバートは深く息を吸い、聖気法力を解放する。全身を戦闘態勢に切り替えた、その時──
「三時の方向! 高速で接近!」
クミラの声が鋭く響いた。アルバートは瞬時に剣を振るう。目に見えないはずの敵を、その直感と経験だけで捉えた──そして、金属が軋むような音。アルバートの剣が何かにぶつかった。否、それは拳だった。鍛え上げられた鋼のような拳が、刃を受け止めていたのだ。
「ほぅ……俺の拳を受け止めるとはな。話には聞いていたが、それが勇者の力というわけか」
どこからともなく現れたのは、紅き瞳を輝かせる竜人族──アルボラス。その逞しい腕は剣を止めたまま微動だにせず、むしろアルバートの方が押され始めていた。
その瞬間、第二の脅威がクミラを襲う。
不可視の衝撃が、彼女の防御結界を粉砕する。結界は音を立てて砕け散り、なおも衝撃は収まらず、クミラの体を弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
十数メートルもの距離を吹き飛ばされながら、彼女は空中で必死に体勢を整える。着地と同時に口の中に溜まった血を吐き捨てた。胸の奥に鈍い痛みが残る。
「……くっ、結界越しでもこの威力なんて……っ!」
彼女は震える指先で自らに〈治癒〉の魔法を施し、傷を塞ぐ。しかし失われた血までは戻らない。これ以上の消耗は命取りになる。
「まぁまぁ、今ので吹っ飛んでしまうの? 貴女も勇者なのかしら? もしそうなら、期待外れねぇ」
妖艶な笑みとともに現れたのは、漆黒のドレスを纏う魔族──ユーソラス。その瞳には嘲りが宿り、クスクスと笑いながらクミラを見下ろす。
「つまらないわぁ」
青空の下、四者の激突は避けられないものとなった。アルバートは剣を握り直し、クミラも再び魔力を練り上げる。
戦いの幕が、今──上がる。
◆◇◆◇◆◇
アルバートは、クミラが飛ばされた方角へと鋭く視線を走らせた。かなりの衝撃音と共に、クミラの姿は視界から消えていた。
「クミラ!大丈夫か!?」
焦燥に駆られた声が戦場に響く。しかし、返答はない。激戦の最中、彼女がどこまで飛ばされたのか──いや、それどころか、無事なのかすらもわからない。
(まずいな……このままじゃ、クミラが危ない!)
だが、アルバートの思考を遮るように、嘲笑混じりの声が響いた。
「おいおい、余所見して大丈夫なのか勇者さんよっ!」
刹那、アルボラスの巨大な拳が唸りを上げる。まるで獣の咆哮のような気圧が空間を揺らし、荒々しい衝撃波を伴ってアルバートに迫る。その速度は目で追うことすら困難だった。
しかし──ガキィンッ!
甲高い音が響き渡る。アルバートは咄嗟に剣を振り、寸前で拳を弾いた。だが、衝撃が腕を痺れさせる。威力もスピードも、尋常ではない。
(……このまま捌き続けるのは無理だな)
アルボラスの猛攻を剣さばきで凌ぎながら、アルバートは好機を窺う。そして、僅かに生まれた隙を見逃さなかった。刹那、剣に聖気法力を込め、一閃。
「はっ──ッ!!」
聖なる光を纏った刃が、空気を裂きながらアルボラスの胸を切り裂く。その衝撃でアルボラスの巨体が吹き飛び、背後の大木に激突した。
「ぐはっ……! クソ……これは効いたぞ、小僧……!」
血を吐きながらも、アルボラスはなおも立ち上がる。その目には怒りと警戒が混じっていた。
「なにが余所見だって?お前程度、片手間で十分だ」
アルバートは剣を構え、冷徹に告げる。
「御託はいい、さっさとかかってこい」
アルバートの威圧的な眼光に、一瞬、アルボラスの表情が歪む。アルバートの言葉が虚勢ではないことを悟ったのだ。
その間にも、アルバートの脳裏では別の問題が渦巻いていた。
(クミラの方が危ない……あの魔族──ユーソラスの力は、アルボラスの比じゃない)
この戦いに長く関わっている暇はない。彼女の元へ、一刻も早く駆けつける必要があった。
「……ふはは、いいだろう! 俺も本気で行くぞ、小僧!!」
次の瞬間、アルボラスの全身から漆黒の魔力が噴き上がる。その圧力だけで周囲の大気が震え、木々が軋む音を立てた。
「覚醒か……!」
アルバートは眉をひそめる。これは魔族にまつわる話の中で聞いたことのある、竜人族の覚醒。完全なる覚醒を遂げた者は、竜の姿へと変貌するというが──アルボラスはそこまで至ってはいないようだ。
しかし、十分すぎるほどの脅威だった。
「行くぞ……!!」
アルボラスの拳が光を帯びる。だが、それはただの拳ではなかった。周囲に竜の形をした魔力の塊が現れ、雷鳴のような音を響かせながら渦巻いていく。拳を振りかざした瞬間、それらは咆哮を上げながら一斉にアルバートへと襲いかかった。
「ふん、今さら本気を出したところでもう遅い」
アルバートは静かに剣を上段に構える。
刹那、彼を中心に純白の光柱が天へと立ち昇る。その輝きは聖気法力の極致。周囲の大地が震え、重力さえも歪めるほどの圧倒的な力が解き放たれた。
「終わらせる!」
アルバートが剣を振り下ろす。その瞬間、白銀の光が奔流となり、天地を引き裂かんばかりの衝撃が走る。
──激突。魔力の竜たちが咆哮しながら、光の波に飲み込まれていく。アルボラスの拳が光を打ち破ろうとするが無駄だった。
「竜王の血族であるこの俺が! たかが人間などに……敗れるとは……!!!」
最後の絶叫が響き、白銀の閃光がすべてを塗り潰し、光が収まった時、そこにアルボラスの姿はなかった。彼の存在そのものが、塵のように掻き消えていたのだ。
アルバートは剣を収め、低く呟く。
「口ほどにもない奴だったな……」
だが、安堵する暇などない。
「……クミラは無事か?」
彼は一瞬だけ目を閉じ、呼吸を整えると──次の瞬間、迷うことなく駆け出した。クミラの元へ。一秒でも早く向かうために。
◆◇◆◇◆◇
烈風が荒れ狂い、砂塵が舞い上がる戦場。クミラは歯を食いしばりながら、目には見えぬ無数の刃を紙一重でかわしていた。だが、その軌跡は肌をかすめ、ローブは裂け、流れ出す血が乾く間もない。まるで弄ばれる獲物のように、彼女の身体は翻弄されていた。
「ほらほら~。ちゃんと避けないと、バラバラになっちゃうわよ?」
軽やかな声が戦場に響く。ユーソラスは余裕の笑みを浮かべながら、宙に舞い上がり、まるで風と同化するように消える。その瞬間、見えぬ刃が再び襲い掛かった。
「くっ……!」
ギリギリで回避するも、避けた軌道を見透かしたかのように次の一撃が降り注ぐ。クミラの足元が削られ、爆風が弾けるように舞い上がる。彼女は転がるように地を蹴り、間一髪で距離を取るが、その呼吸すら許されない。
「なぁに? もう逃げ腰なの? それでも勇者かしら?」
挑発的な言葉を投げかけながら、ユーソラスはゆっくりと距離を詰めてくる。クミラが即興で組み上げた術式を発動し、〈炎弾〉や〈雷撃〉で牽制するが──
「無駄よ」
クミラの魔法はことごとく弾かれ、掠りもしない。まるで蜃気楼のように、ユーソラスの姿は霞み、実体を捉えさせない。
「ほらほら~、どんどん服が破れて、恥ずかしい姿になってるわよ。もしかして、そういうのが好きなのかしら? 見た目のわりに淫乱なのね~?」
嘲笑交じりの言葉が浴びせられる。しかし、クミラは拳を固く握り、震える体を押し殺しながら目を据える。
「……そんな言葉に、負けたりしません……!」
だが、彼女の体はすでに限界に近かった。激闘の果てに、血は流れ、ローブはぼろ切れとなり、呼吸は荒い。けれども、その瞳の輝きは決して消えていない。
その時、轟音が響き渡った。遠く、アルバートたちが戦う戦場から爆炎が立ち昇る。
「……あらあら。どうやら、あっちは終わったみたいね?」
ユーソラスは嗤うように言いながら、クミラの顔を覗き込んだ。
「貴女の仲間の勇者、もう来ないんじゃない?」
だが──
「……っ! アルバートさんは負けません!」
クミラは声を張り上げた。その表情には、揺るぎない信念が宿っている。
「とても強く、優しい方ですから!」
ユーソラスは鼻で笑う。
「あらそう。でも、他人の心配する前に、自分の心配をしたらどう? そろそろ飽きてきたし……終わりにしましょうか?」
ユーソラスは両手を上げ、莫大な魔力を練り始める。
「これで終わりよ。さようなら、勇者のお嬢さん」
紫色の禍々しい魔力が、天へと昇るように集束していく。その凄まじい力は、周囲の空気を震わせ、風を巻き起こす。視界が揺らぎ、圧倒的な絶望がクミラを包む──はずだった。
「それを待っていたんです!」
クミラは両手で地を強く叩いた。
瞬間、ユーソラスの足元に魔法陣が浮かび上がる。そして、そこから放射状に広がるように、六つの小さな魔法陣が現れた。その全てが光を放ち、一つに結合していく。
「なっ……何これ……?」
その魔法陣は、ユーソラスが溜めた魔力を吸収し始めた。大地に刻まれた紋様が淡く光を放ち、次第にその輝きを増していく。そして、六つの小さな魔法陣から純白の鎖が伸び、まるで意志を持っているかのようにしなやかに舞い、ユーソラスの四肢を絡め取った。
「な、何をしたのよ……!? 動けない、動けないわ……っ!」
ユーソラスは激しくもがくが、鎖は微動だにしない。彼女の力を吸い取るように、鎖は次第に輝きを増しながらその拘束を強めていく。
「……貴女は強い。でも、慢心しましたね」
クミラは静かに立ち上がった。痛む体を押さえながらも、その瞳には『確かな勝機の光』が宿っている。
「貴女が魔族であるなら、その聖気法力で編まれた鎖は簡単には断ち切れません!」
ユーソラスの顔に動揺の色が浮かぶ。彼女は必死に魔力を練り上げ、鎖を破ろうと足掻くが、動けば動くほど白い鎖は食い込み、まるで蛇が獲物を締め上げるように彼女の自由を奪っていった。
「お前がちょこちょこ動き回っていたのは……この魔法陣を仕掛けるためだったのね!油断した!くそおぉぉ!こんな鎖なんてえぇぇ!!」
先程までの余裕は消え失せ、上品だった彼女の姿は見る影もない。ユーソラスは全身から迸る魔力を最大限に引き出し、拘束を解こうと暴れ回る。しかし、クミラの術式は既に完成していた。
「私の勝ちです。術式解放!〈七聖滅天〉!!」
クミラの手が掲げられた瞬間、天が震えた。轟音と共に魔法陣が輝きを増し、瞬く間に純白の光が天へと放たれる。そして、次の瞬間──『天より降り注ぐ、神罰のごとき閃光』。
まるで無数の流星が落ちるかのように、巨大な光柱が幾重にも重なり、ユーソラスの身体を呑み込んだ。
「ぎゃっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
断末魔の叫びも、聖なる光の奔流に掻き消される。
ユーソラスの姿が徐々に霧散し、蒸発するかのように消えていく。その存在すら許されぬかのように、光は全てを覆い尽くした。
やがて光が消え去ると、そこには何も残っていなかった。
直径十メートルにわたり地面は焼き焦がされ、黒曜石のように輝くガラス質の地表が広がっている。その中央に、かつてユーソラスが立っていた痕跡すら見当たらなかった。
クミラの勝利だった。
緊張の糸が切れ、クミラは膝から崩れ落ちた。呼吸は荒く、全身の痛みが一気に押し寄せる。
「はぁ、はぁ……今行きます、アルバートさん……」
彼女は意識を保つのがやっとだった。それでも立ち上がり、よろめきながらも歩を進める。しかし、疲労と魔力の枯渇が彼女の足を鈍らせ、ついに地面へ倒れこみそうになった。
「わっ!」
その時、強くもしなやかな腕が彼女の身体を支えた。驚きに目を開いたクミラが顔を上げると、そこにいたのは──アルバートだった。
「あ、アルバートさん!無事だったんですね!はぁ、よかった……」
彼の姿を目にした途端、クミラの身体から力が抜ける。全ての緊張が解け、安堵が彼女を包み込んだ。
「クミラもよく無事だったな。やはり、強くなったな」
アルバートは優しく微笑み、彼女に手を差し出した。しかし──
「あ、あの……アルバートさん。私、今服がボロボロで、その……恥ずかしいので、あ、あまり見ないでくださいっ……!」
戦闘の激しさ故に、彼女の衣服はすでに見る影もなかった。焦ったクミラは身を縮こませ、必死に手で隠そうとする。
「気が利かなくてすまなかった。とりあえずこれを羽織ってくれ」
「すみません、ありがとうございます……」
アルバートは迷いなく自らの上着を彼女にかけ、肩を貸して歩き出す。海風が心地よく吹き抜け、波の音が静かに響く無人島の海沿いに、二人の足音が重なる。
「クミラ、飛行の魔法は使えるか?疲れているところ悪いが、遺跡が気になる。中に捕らえられていた者たちがいたようだから、できるだけ早く救出したいんだ」
アルバートの言葉に、クミラは力強く頷いた。
「はい!飛行の魔法なら使用可能です。でも、しばらく戦闘はできそうにありません、すみません……」
「いや、クミラは十分によくやってくれた。後は任せてくれて構わないさ」
クミラは微笑みながら魔力を練り上げる。
淡い光が彼女の足元を包み込み、次の瞬間、二人は海を越え、遺跡へと向かう。
青空の下、苔むした石畳が続く古びた遺跡の入り口に、アルバートとクミラは降り立った。ひんやりとした空気が肌を刺し、辺りには人気ひとつない。その静寂を破るように、アルバートの白い騎士服がかすかに揺れ、足音を響かせた。彼は手に持つ聖剣を握り締め、覚悟を決めて遺跡の中へと足を踏み入れた。
「クミラは入り口で待機していてくれ」
「はい、わかりました。お気をつけて」
慎重に遺跡の中を進んでいくアルバートだったが、彼を待ち受けていたのは、無人島に向かう前に確認していた二十体の魔族の姿ではなかった。そこに広がっていたのは、無残にも命を奪われた魔族たちの屍のみ。彼らは既に全員が冷たくなっており、生きて動く者は一人もいない。
遺跡の奥で捕らえられていた者たちも解放されたようで、あたりには血生臭い匂いと、静まり返った死の空気だけが漂っていた。
さらに奥へと進むと、固く閉ざされた扉と、血で赤黒く染まった祭壇が目に飛び込んできた。おびただしい量の血液が飛び散り、まるで地獄絵図さながらの光景が広がっている。
(誰かと激しく争ったようだな。これほどの数の魔族を一掃するとは……。いったい何者だ?)
アルバートは、この場にいない強大な力の存在を感じ、警戒心を強めた。謎の人物への興味と、この惨状への困惑が、彼の心を複雑に揺さぶる。
遺跡の外へ出ると、クミラが数人の亜人族の子供たちに囲まれ、何かを話していた。亜人たちは不安げな表情を浮かべながらも、どこか安堵した様子も見せている。特に不穏な空気は感じないので、警戒せずにアルバートは声をかけた。
「クミラ!彼らは?」
アルバートの声に、亜人たちは一斉に彼の方を向き、安堵の表情を浮かべた。
「あ!アルバートさん!彼らは遺跡の中で魔族に捕らえられていたそうですが、先ほど亜人族の少女を連れた黒髪の少年に助けられたそうです」
亜人たちは口々に、自分たちが受けた救いの物語を語り始めた。彼らは魔族に捕らえられ、絶望の淵に立たされていた。そこに現れたのが、黒髪の少年だった。少年は圧倒的な力で魔族たちを打ち倒し、彼らを解放したという。
亜人たちは、お礼を言おうと少年を探しに戻ってきたというが、黒髪の少年の姿はすでに見当たらなかったという。代わりにクミラがいたため、少年の行き先を知らないかと尋ねていたらしい。クミラが彼らに、少年のことは何も知らないと答えると、亜人たちは残念そうな表情を浮かべながら、それぞれの家路へと散っていった。
アルバートは、亜人たちから聞いた話を反芻しながら、深い思索に耽る。
「黒髪の少年か……」
「黒髪の少年がどうかしましたか?でも、あの数の魔族を倒してしまうなんて、本当にすごい人なんでしょうね」
クミラが不思議そうに首を傾げ、アルバートに問いかけた。
「ああ、そうだな。私も一度会ってみたいよ」
アルバートは、少年の強さに感嘆の息を漏らした。今回の黒髪の少年は、アールクトスで捜索していた少年と何か関係があるかもしれない。しかし、今は魔族討伐完了の報告の方が優先順位が高い。彼は心の中に湧き上がる様々な思いを押し込め、クミラと共に町へと戻ることを決意した。
兵舎に戻り、そこへ用意されていた馬車に乗り込むと、二人は王都へと向けて出発した。夕闇が迫る中、馬車の車輪が石畳をカラカラと音を立てて転がり、二人の旅路を静かに見守っていた。
 




