氾濫
圧倒的な恐怖を孕んだ女の叫び声。
同時に幾重にも重なった獣声と怒号。
体全体にのしかかるような濃密なプレッシャーが降り注ぐ。
ゾワリと、今までないほどに肌が栗立つのを感じた。
自分に向けてのものではない。
しかし、体は自然と臨戦態勢をとっていた。
いつも、ダンジョンで感じている鋭い殺意。
それと同質のものを、今、この東京の街中にて知覚したのだ。
それも、一匹、二匹のどころの話じゃない。
大量だ。
それこそ、数十という魔物の軍勢。
それらが、ダンジョンを抜け出し、ここまで出現したということはつまり――異常。
深刻な事態である、ということを即座に理解させられた僕たちは、すぐさま声の方へと首を向け、反応を露わにする。
さっきまでの甘い空気は何処へやら。
僕たちの間には張り詰めたような緊迫感が漂い始める。
互いに視線を合わせ、小さくうなずいた。
バサっと、派手に風を切りながらコートを脱ぎ捨て、身を軽くする。
ピョンピョンとその場で軽く跳ね、体の調子を確認しておく。
「うん、異常なし」
体は軽い。
武器は……流石に持っていないが、それでも戦えないわけじゃない。
横目で見ると、冬華も軽くストレッチを始めている。
僕の体は既に熱を持ち始めていた。
準備運動はもう十分。
「先、行ってるよ」
返事が返ってくる前に、僕の足はコンクリートの地面を蹴った。
冬華は主な攻撃手段が魔術ということもあって武器の必要はない。
ならば、護衛の必要はないだろう。
進む足に、迷いはなかった。
体が、前へ前へと押し出される。
風を切る音が耳を撫で、冬色の景色が移ろい行く。
また、悲鳴が広がった。
伝播するように、声は時間が経つとともにあちらこちらから聞こえ始める。
もうすでに、僕一人では解決できないレベルまで被害は拡大している、ということだ。
僕は、己の未熟さに下唇を噛む。
しかし、疾駆する脚の動きだけは止めず、走り続ける。
魔物との邂逅は突然だった。
前方から四足歩行の動物が、血走った目をギョロめかせ、口周りを涎で汚しながら迫り来る。
ソイツの相貌には見覚えがあった。
確か、二階層に生息する狼型の魔物――バトルウルフ。
僅かに土色に汚れた焦げ茶色の剛直な毛並みが魔物としての荒々しさを物語っている。
しかし、今の僕にとって、この程度であれば敵ではない。
僕は走る勢いを一切殺さないままに、拳を握りしめた。
槍がなくても、この拳さえあれば十分すぎる。
大きく弓を引くようなフォームを描き、力を溜める。
彼我の距離が徐々に縮まっていく。
もう少し、もう少し。
僕は限界まで力を溜め続け、タイミングを見計らう。
そして、その距離が完璧に僕の間合いに入った時。溜めに溜められた力の奔流を有らん限りに、手加減など一片たりとも考えず――解き放つ。
グシャリ、とバトルウルフの長鼻がひしゃげる音がした。
骨が折れ砕ける感触がダイレクトに伝わり、しかし、今更抵抗感も芽生えない。
無感情に、情けもなく、僕はさらなる攻撃を加える。
地に伏した狼の頭頂へと、踵を振り下ろした。
ドロリとした赤黒い血が地面いっぱいに広がり、生臭さと鉄臭さが充満する。
潰れた頭部からは歪な脳みそが露わになり、猛烈な吐き気を促す。
幸いにも、バトルウルフとの戦闘で拳一つでも敵を討つことは可能であると証明は出来た。
この程度の相手に遅れをとるとは最初から思っていなかったが、それでもほんの少しの懸念は払拭された。
もうここで足踏みしている必要はない。
次だ。
僕の鍛えられた直感が告げている。
この近くだけでも、相当数の魔物が徘徊している、と。
今、僕がいるこの場所は東京にしては比較的人通りも少なく、現状見えるところに人影はない。
しかし、少し離れたところまで進めば、人はゴミのように溢れかえっている。
もし、一般人しかいないような場所へ魔物が現れたならば、抵抗を許すこともなく惨殺されることだろう。
そうなれば、東京の街は血の赤に染まる。
聖なる夜は、魔なる夜へ。
それは、それだけはさせない。
させたくない。
僕は彼女へ、冬華へ告白しようとして……その途中でのこんな出来事だ。
これでは、彼女の中での今日という日の記憶は、血と魔物と戦いに染まった、灰色の思い出として刻まれてしまう。
しかも、クリスマスなんて絶好のシチュエーション、そうそうあるわけでもないんだ。
告白するなら、今日が良い。
魔物狩りで一日を費やして全部パァ、なんてことにはさせやしない。
これは全部、僕のエゴだ。
でも、このくらいのエゴを叶えられないで、冬華に告白しようなんてことは自分が許せない。
――今日中に……いや、今すぐにでも、この戦いは終わらせる。
それが出来なかったのなら、彼女への告白は延期としよう。
それを己へのペナルティとして設け、逃げ場をなくした。
しかし、僕の中では俄然ヤル気が湧き出てきやがる。
ギラリと、これまでにないほどに燃え上がるような熱が込み上げてきた。
カチリと、頭の中で何かスイッチの入ったような音がした。




