魔法士官学校上級生編 5
「なにも……なにもありません」
すぐに答えたが、自分でもわかるほど不自然な声だ。エセルバートはいぶかしみながら、アンジェリカの右肩に手を置いてきた。
「痛っ」
不意を突かれ、反射的に声が漏れる。昨日、床へ倒されたときに強く打った場所だった。
「え……?」
エセルバートは目を見開いた。当然だ……。強く掴んだわけでも、乱暴に触れたわけでもない。ただ手を置いただけなのに、アンジェリカがひどく痛がったのだから。
「どう……いうことだ?」
「なんでもありません。ただびっくりして……」
「なんでもないわけないだろう!」
問い詰められても、アンジェリカは顔を背けたまま答えようとしなかった。それを見て、もう言葉では聞き出せないと判断したのかもしれない。エセルバートは突然歩きだすと、アンジェリカが止める間もなく机の上のランプへ火を灯した。
「エセル!」
暖かな明かりが部屋いっぱいに広がる。それまで闇に隠れていた互いの表情が、はっきりと見えるようになった。
エセルバートはアンジェリカの顔を見た瞬間、表情を変えた。
(……怒ってる?)
青い瞳が険しく細められている。アンジェリカはなにも悪いことをしていないはずなのに、そんな顔を向けられただけで胸が痛んだ。
今までエセルバートは、アンジェリカがなにか失敗すれば、笑って助けてくれて、どんなことに対しても、本気で怒った顔など見せてこなかったから。
「……腕、見せて」
「嫌です。触らないで」
エセルバートが袖へ手を伸ばしてきたため、アンジェリカは慌てて腕を引いた。最悪なことに、今日は一日中寝ているつもりだったため、寝間着姿だった。
ゆったりとした形のワンピースで、袖も簡単に肩までめくれてしまう。
「ダメだ。ちゃんと見せて」
「嫌!」
繰り返し拒絶すると、エセルバートの眉間に皺が寄った。
「本当に聞き分けがないな」
その言葉と同時に、アンジェリカの身体が寝台へ押し戻された。
「えっ――」
驚く間もなく背中が柔らかな寝具へ沈み、逃げようと身体を起こしかけたところで、エセルバートが上から覆いかぶさるように身を寄せてきた。アンジェリカの両脇を足で挟み、逃げ道を塞ぐ。……力の差は歴然だった。
エセルバートは訓練を積んだ青年だ。本気で抵抗したところで振りほどけるとは思えないうえ、無理に暴れれば腹の痛みまで知られてしまうかもしれない。
身動きが取れなくなったアンジェリカは、それでも言葉だけは強く返した。
「エセルバートさん!」
わざと、以前の呼び方に戻す。こんなことをする人を、親しい友人の愛称で呼びたくなかった。その意図はすぐに伝わったらしく、エセルバートの顔に、はっきりとした苛立ちが浮かぶ。
それでもアンジェリカは構わず続けた。
「叫んで人を呼びます。女子寮に忍び込んで、こんなことをするあなたは悪い人です」
「引き入れたのは君だと思われるかもしれないね」
エセルバートも引かなかった。
「そうなったら、仲よく一緒に謹慎処分でもくらおうか?」
「そんな……」
譲る気がまるでない態度に、アンジェリカはますます追い詰められた。このままでは、隠していることをエセルバートに知られてしまう。けれど騒ぎを起こして処分でも受ければ、またバシュロを怒らせることになる。どちらを選んでも、いい結果にはならない。
逃げ道がないと気づいた瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れた。視界がぼやけ、たまった涙が眦から次々に零れていく。こんなことで泣けば、余計に心配されるとわかっているのに、一度溢れ出した涙は止めることができなかった。
アンジェリカは唇を噛み、声だけでも押し殺そうとする。すると、目の前のエセルバートまで苦しそうな顔をした。
「別に悪さをするつもりじゃない。怪我をしてるなら、それを確認したいだけだ」
先ほどまでの強い口調が、急に弱まる。
「だから……頼むから、そんなふうに泣かないでくれ」
泣かせている本人が、なにを言っているのだろう。早く退いてほしいのに、それでも彼はやめなかった。アンジェリカの抵抗を押さえながら、袖をゆっくりと肩近くまで持ち上げる。
日焼けとは無縁な肌の上には、昨日床に強く打ちつけたせいでできた青黒い痣が、はっきりと残っている。
「これは……」
見逃されるはずもなく、エセルバートの表情が凍りついた。
「どういうことなんだ、アンジェリカ」
「熱の……せいで、うっかり倒れてぶつけて……」
苦しい言い訳だったが、それでもほかに言えることはない。
「なら、その頬は?」
「……これも倒れたときにぶつけました」
「左の頬と右腕を? どうやって?」
エセルバートの責めるような声に圧を感じたが、アンジェリカは答えられなかった。そんな事故が起こるわけがないことくらい、自分でもわかっている。もう、彼から逃れたい一心だった。
「関係ない……です」
口から出たのは、突き放す言葉だ。
「あなたには、関係ないじゃないですか」
言い切ったところで、エセルバートの表情がはっきりと揺れた。そしてようやく、彼はアンジェリカの上から退いた。
「そんなこと言わないでくれ」
低く、傷ついたような声だった。エセルバートは寝台の端へ腰を下ろすと、アンジェリカの身体を起こした。痛めている右肩には触れないよう気をつけながら、そっと自分のほうへ引き寄せる。
先ほどまで無理やり押さえつけていた人とは思えないほど、今度の手つきは優しい。なだめるように、ゆっくりと背中を撫でてくる。そうして彼は静かな声を響かせてきた。
「大丈夫、大丈夫だ……。僕が解決するから。誰にやられたのか、言ってごらん」
そんなふうに優しくされると、余計に涙が止まらなくなった。どうしてこの人は、こんなときまで自分を助けようとするのだろう。
エセルバートが悪いわけではないことはわかっている。……わかっているのに。
「……全部、あなたのせいです」
気づけばそんな言葉が口から零れ、エセルバートの手が止まる。
「今……なにを言って……?」
「嘘です。違う……」
アンジェリカはすぐに首を振った。本当は違う。でも自分でもどう伝えればいいのかもうわからない。胸の中には、どうしようもなく苦しい感情が渦巻いて、その原因を作っているのは確かに彼だから。
「でも……後悔してます。あなたになんて、関わらなければよかった。……できることなら、最初からやり直したい」
エセルバートがなにか言いかけたが、アンジェリカはそれを遮る。
「私は、エセルバートさんのことが嫌いです。大っ嫌い……」
言葉にした瞬間、自分の胸まで深く傷ついた。人を傷つけるときは、こんな気持ちになるのだとはじめて知った。
なにも悪くないエセルバートに、こんなことを言って……きっといつか、自分はどこかでその罰を受けるような気がした。
それでも、彼と親しくなってしまったことを激しく後悔しているのは、本当だ。
エセルバートと出会わなければよかった。友人にならなければ……こんなにも大切な人なのに、負けることが、苦しい。だから今は、ただ離れてほしかった。
これ以上の優しさは、受け入れられない。自分がなにを守ればいいのか、わからなくなってしまいそうだから。




