33.間章-ミア・ホイスラーの場合④-
その日の晩、殿下は久しぶりに上機嫌だった。
「すべては順調だよ、ミア。天は私の味方をしている。当然だろうね。創世の神の裔であるのはこの私だ。私こそが正しき王、世界を統べるにふさわしい者だ」
室内には二人きりだった。ローナも、彼女が雇い入れた男たちもいなかった。殿下は機嫌がよく、今なら不遜なことをいっても許してもらえるかもしれないと思った。
なにより、知らないうちにオルドーンの者たちと関わりを持っていたら、殿下がまずい立場に立たされるかもしれない。オルドーンは隣国だけれど友好国とはいいがたい。それくらいは自分も知っている。
勇気を振り絞って、アルフレート殿下の美しい瞳を見つめていった。
「殿下、あのっ、ローナの知り合いだという者たちなのですけど、彼らは、もしかしたら、オルドーンの者たちかもしれませんわ……っ」
震える息で、必死にそれだけをいう。
殿下は驚くか、眉をひそめるか、気を悪くするか。どれかだろうと思っていた。けれど殿下の翡翠色の瞳は、一瞬ひどく冷たい光を見せた。見間違いだったのかもしれない。わからない。殿下はすぐに優しい瞳になって言ったから。
「知っているよ、ミア。私がローナに頼んだからね」
「えっ……?」
「この国の人間では、誰がギリアスの息がかかっているかわからないだろう? 魔術師どもならまだ見た眼でわかるけれど、ギリアスは金で人を買う男だからね。私としてもやむを得ない判断だったんだよ」
わかるだろうといわれて、こくりと頷く。
けれど、不安は濃い染みのように胸の内に広がっていく。
(王太子殿下が、あの国の人間とこんな風に関わりを持って、本当に大丈夫なのですか……?)
わからない。
殿下のいう通り、ギリアス宰相が権力を持った人間だということは知っている。
殿下が手配してくれて出席した夜会でも、騎士団長と呼ばれる男性などは、どこか自分に素っ気なかった。あの男は宰相の犬だと殿下はいっていた。騎士団長なんて偉い人が宰相に従っているのだ。殿下がほかから力を借りようとするのは仕方のないことなのかもしれない。
だけど不安が消えない。きっと自分が馬鹿だからだ。こんなにも恐ろしく感じてしまうのは、自分が不出来な人間だから。
「私たちがこの屋敷に留まる羽目になったのも、もとを正せばギリアスのせいなんだよ。前にも話しただろう? あの男は今まで何度も私の暗殺を企んできたのだと」
ミアは頷く。
宰相ギリアスが悪人なのだという話は聞いていた。国王陛下に信頼されて今の地位についたくせに、王太子であるアルフレート殿下を敵視して何度も暗殺しようとしたのだと。だからこうして身を隠すしかなかったのだともいわれた。
……けれど、この屋敷は本当に、王宮よりも安全な場所なのだろうか?
「だけど、安心していい。そう遠くないうちに、すべての問題は解決するだろう。あの化け物女も身の程を知ることになるさ」
今度はミアは頷くこともできなかった。ただ俯いて、何もいわずにいる。
化け物女。それはきっと、ヴァルキリア・ギルガードのことだ。
ほかに隠せる場所もなく、服の内側に入れたブレスレットが、かすかに熱を帯びたような気がした。錯覚だと、わかっているけれど。
「今夜は特別だ。ミアにいいものを見せてあげよう」
そういってアルフレートが持ってきたのは、細長い奇妙な石造りのケースだった。
さほど大きくはない。杖が一つしまえる程度の大きさだろう。非常に頑丈な作りになっていることは素人目にもわかるけれど、それでいてところどころにまるで焼けたような跡がある。
アルフレートがケースを開く。
そこには真っ黒な剣が入っていた。
「───ッ!」
ミアは思わず立ち上がって、その剣から逃げていた。
鞘も柄も黒く染まった剣だった。だけど見かけが恐ろしいのではない。目をつぶったとしても全身が総毛立つ。おぞましさが胸を突く。理由はない。どうしてこれほど逃げ出したくなるのかなんて自分でもわからない。
いや、あえていうならこれはまるで───魔物が現れたときのような。
胸元に隠したブレスレットが、警告するように熱を発した気がした。わからない。これも錯覚なのだろうか?
「ははっ、大丈夫だよ、ミア。そんなに怯えなくていい。これは私の支配下にあるからね。あぁ、でも、そんなに恐ろしいのかい? くくっ、君のような弱い人間では、そう感じてしまうのも無理はないだろうね」
「殿下……っ、それは、その剣は、何なのですか……!?」
何か悪いものだとしか思えない。とてつもない災いが込められているようにしか。
しかしアルフレートは微笑んでいった。
「これは王家の宝だよ。私にしか使うことのできない至宝だ。───そう、これこそかつて光の大神が冥竜オルガヘイムを打ち倒したときに用いたといわれる伝説の武器、神剣グラードさ」
ミアは耳を疑った。
冗談だといってほしかった。悪い冗談だと。
けれどアルフレートは、陶酔にも似た眼差しでその漆黒の剣をうっとりと見つめて続けた。
「考えたことはあるかい、ミア? もしも今、冥竜オルガヘイムが復活したらどうなるかを? あぁ、私は無論戦うとも。この剣を持って勇敢に挑み、かつて光の大神がそうされたように悪しき竜を打ち倒すことだろう。そして民衆は歓喜の声を上げて私を迎えることだろう。真の王がこのアンディルア王国に帰還したことに、誰もが涙するだろう。───それこそが本来あるべき姿だったとは思わないかい? あの卑しい魔術師どもは、私が手にするはずだった栄光をかすめ取ったのだと!」
最後にはアルフレートは怒りを込めて憤然と吐き出した。ここに正義があるのだと確信している面差しだった。何も知らない者が見たら信じるだろう程に揺るぎなく断言した。
けれど、めまいがした。
(……なにを、おっしゃっているの……?)
魔物の恐ろしさは知っている。自分の故郷を襲った魔物だって、絶望的に強かった。おぞましかった。あのとき魔術師たちが現れなかったら、自分も領民たちも間違いなく皆殺しにされていただろう。
それでもあの魔物は、魔術師たちにとって苦戦するような敵ではなかったのだという。
けれど、冥竜オルガヘイムは、大公家の魔術師たちでさえ全滅しかけたといわれる、最強の魔物ではないか。神話の中の怪物だ。ほかの魔物とは格が違う。
(もしも、復活したら───……?)
どれほどの犠牲が出ることになるか。想像するだけで身体が震えてしまう。幼い日の恐怖が甦る。あの魔物ですら死を覚悟したのに、冥竜オルガヘイムが現れたら? このおぞましい漆黒の剣が倒してくれると? 本当に?
ミアは喘ぐように息をして、必死に声を上げた。
「殿下……っ、なにをお考えなのですか……? 計画というのは、いったい……!?」
「ははっ、そんな怯えた顔をしないでくれ、ミア。可愛い顔が台無しだろう? 心配いらないよ。私はただ間違いを正そうとしているだけだ」
「間違い……?」
「ああ。───知っているかい、ミア? 魔術師どもの城には、冥竜の心臓が隠されているんだよ」
わからない。
わからない。
殿下のいっていることが理解できない。自分が馬鹿だから。愚かだから。みっともない出来損ないだから。───本当に? 本当にそれだけ? わからない振りをしたいのではなくて? 気づきたくないのではなくて?
アルフレートが微笑んで囁く。
「私たちの駆け落ちに魔術師どもは怒り狂っているだろうね。数日中には戦争が始まるだろう。───そのときが絶好の機会だ。私たちはただここで待っていればいい。わかるね、ミア?」
ミアはただ頷いた。糸が切れた操り人形のように、こくりと。
わからない。
わからない。
だって自分は馬鹿な女だから。不出来な娘だから。何一つ取り柄のないみっともない人間だから。自分のような女が考えたところで無駄なのだ。何もわかっていないのだから従っていればいいのだ。殿下のほうが正しいのだから。殿下のほうが賢いのだから。殿下の仰ることに、ただ従っていれば───。
(本当に?)
このまま目を閉じて殿下の後ろを歩いていけば、すべてがうまくいくはずで───。
(本当に?)
胸元のブレスレットが熱を帯びる。
かつて自分を救ってくれた黒髪の魔術師の姿が脳裏によみがえる。
一度も自分を蔑まなかったヴァルキリア・ギルガードの笑顔が。
(……いいえ、いいえっ、殿下の仰ることが正しいのよ。殿下が間違えるはずがないわ。わたくしはただ殿下に従えば───)
───本当に?
本当にこのままでいいの? 本当に? 本当に? 大勢の人が死んでも? 戦争になっても? その罪に耐えられるの?
(わたくし、は───……)
今、この恐ろしい企みをヴァルキリア・ギルガードに知らせることができる人間がいるとしたら、それは。
(わたくし、だけ……)
今回の話にて第一部完です。
ここまでお付き合いくださってありがとうございました。
感想や評価ブクマもとても嬉しかったです!
全三部予定で、第二部は11/16(日)から開始予定です。




