30.宣戦布告? ええ、受けて立ちましょう
ふわりとした触感とくどくない甘さが絶妙なハーモニーを奏でるショコラシフォンケーキ。添えられた生クリームを合間に挟むことで異なる味わいを堪能するのも楽しみ方の一つだ。
薄黄色のハーブティーからは林檎のような爽やかで優しい香りが立つ。癖もなくすっきりとした飲み味に加え、リラックスの効果もある。
セレナとのお茶会のために用意したおもてなし。きっと喜んでくれるに違いないと思っていたのだが――
「今日はいい天気ね」
「はい」
「ケーキの味はどう?」
「とても美味しいです」
「ハーブティーは口に合ったかしら」
「とても美味しいです」
「そう、よかったわ」
「……」
「……」
沈黙が周囲を包み、シュゼットは密かに首を傾げる。
なんだか今日のセレナは様子が変だ。上の空というか、心ここにあらずというか。そわそわしているような、切迫しているような。何か別の本題を隠し持っている、そんな雰囲気を感じる。
言い出しにくい内容ならこちらからきっかけを作った方がいいかとカップに口を付けながら思案していたシュゼットに、セレナは意を決したように顔を上げた。
「私の婚約者に会っていただけませんか」
予想もしていなかったお願いに思わず目を見張る。
真剣な眼差しはどこか思い詰めたような色に揺らいでいて。冗談という線はなさそうだと判断し、詳しい話を聞くためにシュゼットはカップをソーサーに戻す。
「セレナの婚約者って確かエシュリン家の……」
「アデルバード様です」
数か月前、セレンディーナは婚約した。お相手は同い年でエシュリン伯爵家の次男、アデルバード。
新興貴族ながら高い頭脳と統治手腕を買われ、王家の文官として近年名を馳せている一族だ。次男とはいえ上位貴族との縁談は下位貴族のヒルシャー家にとってまたとない好機。セレンディーナの両親を含めた親戚中の喜びようはそれはもう凄まじかったらしい。
周りの反応とは裏腹に困惑気なセレナにお祝いを贈ったのは記憶に新しい。
「会うのは構わないけれど、なにかあったの?」
「アデルバード様とは何度かお会いしているのですが、その際シュゼット様と仲良くさせて頂いていることをお話ししたら……その、距離を置くようにと仰られて……」
「――なんですって?」
思いがけない言葉につい口調が強まる。
びくっと肩を揺らして頭を下げたセレナに慌てて謝罪し、続きを促す。
「なにか気に障ることをしてしまったのかしら。直接話したことはない筈だけれど」
「シュゼット様に対して、という訳では決してないのです。ただ、あの……」
「?」
「アデルバード様はレオガルド様の噂を快く思っていないようで……」
レオガルド。その一言で全てが繋がった。手を額に当て、「なるほどね」と呟く。
自分勝手で横暴な令息を婚約者に持つシュゼットとは関わるな、どうせそいつだってろくでもないに決まっていると。セレンディーナの婚約者はそう言いたい訳だ。
(いつかはそういうこともあるだろうとは思っていたけど……)
レオガルドの悪評が自身に及ぶ可能性だって考えていたし、ある程度の覚悟はしていた。しかしまさか、セレナの婚約者が直接的な介入をしてくるとは思わなかった。
いくら王家に仕えているとはいえ、伯爵家と侯爵家では位が違う。しかもアウディガナ家とローグウェル家は王と密接な関わりを持つ名門貴族。下手な物言いをすれば立場が悪くなるのはアデルバードの方であるというのに。
黙り込んだシュゼットに、セレナは「申し訳ございません」とまた頭を下げる。
「私なりにシュゼット様の素晴らしさをアデルバード様にお伝えしたのですが、私の力不足で上手く伝わらず、納得して頂けませんでした。……私にはアデルバード様に逆らうことは出来ません。このままでは、シュゼット様とお会い出来なくなってしまいます」
スカートを握り締める両手も、か細くなっていく声も、震えている。
まるで懺悔するように祈るように、身勝手な己を恥じながらもセレナはシュゼットに助けを求める。
「どうかアデルバード様に会っていただけませんか。そうすればきっと、アデルバード様もシュゼット様への誤解が解けると思うのです。大変身勝手な願いだとは重々理解しています。けれど、私はこれからもシュゼット様の友人でありたいのです」
不意に、あの未来の一場面が脳裏に浮かぶ。
嫉妬心に呑まれ、愚行を繰り返すシュゼットを諫め続けたセレンディーナ。最後の最後まで手を伸ばし続けてくれた心優しい親友。
そんな救いをいとも簡単に払いのけ、罵倒まで浴びせた。彼女の白い頬を伝う涙を忌々しいとすら思い、置き去りにして。そうしてシュゼットは自ら孤立し、孤独になった。
皴が寄るほどきつく握り締められた両手に自分の手を重ねる。
ようやく顔を上げた少女の瞳には大きな幕が張っており、今にも零れ落ちそうだ。
安心させるように、シュゼットは優しく微笑む。
「喜んでアデルバード様にお会いするわ」
「よろしい、のですか」
「もちろんよ。わたしもセレナとはずっと親友でいたいの。こうやって一緒にお茶を飲んだり刺繍を教えてもらえなくなるなんて冗談じゃないわ」
瞬きと同時に、ぽろりと零れた涙にハンカチを押し当てる。
セレナに教えてもらって初めて刺したハンカチだから、お世辞にもいい出来とは言えない代物だけれど。あの時拭えなかった涙を拭うには十分だろう。
「ありがとうございます」を繰り返す華奢な肩をそっと抱きしめて目を瞑る。それはこちらの台詞なのだ。
(ありがとう、未来のわたしを最後まで諦めないでいてくれて。……たくさん傷付けてしまって、ごめんなさい)
決めたのだ。今度は決して間違わない。
未来で切り捨ててしまった大切なものを、今度こそ絶対に手放さないと。
+++
一週間後、シュゼットはセレンディーナ宅でアデルバードに会う運びとなった。
出発前に、もう一度鏡を覗き込む。華美すぎないながらも要所のレースが目を引く空色のドレス。サイドで編み込んだ髪を後ろにゆったりと流すヘアスタイルはいつもと変わらないが前髪に分け目を作り、額を出したことで理知的で上品な雰囲気を演出した。
よし、と気合を入れ直して馬車へと乗り込む。気持ちはさながら戦場に向かう戦士のようだ。御者の声を合図に馬車はゆっくりと動き出す。
「シュゼット様、気合が入っていますね」
「セレナと末永く付き合っていくための重要な関門だもの。必ず突破してみせるわ」
しかし、とミーシェはわずかに眉をひそめる。
「非常に礼に欠いた方です。シュゼット様の、ひいてはアウディガナ家への侮辱と同義ですよ」
「まあまあ。アデルバード様の言い分も解らなくはないし、セレナを心配してのことなら納得できるの」
自分の近しい人間と付き合いがある友人に良くない噂があれば、誰だって不安にもなるし心配する。貴族間の噂は決して馬鹿にできない。噂が商いや立場に影響を及ぼすことだって大いにあり得るし、それが下位貴族となれば尚更だ。
もしもシュゼットがアデルバードの立場なら声をかけたり様子を探ることぐらいはしていただろう。セレナを想う故だというのなら、頭ごなしに怒る気にはなれなかった。
「だからちゃんと顔を合わせて、分かってもらえるように努力するわ」
「もしも駄目だったら?」
「手荒なことはしたくないとお願いしようかしら」
お願いという名の脅しに頬が引き攣ったミーシェに「冗談よ」と笑う。
そんなことをしたらセレナにまで迷惑をかけてしまう。出来るだけその手は使いたくない。誠意をもって話せば分かってくれると信じたいというが本音だ。
「それにしても……」
「どうかされましたか?」
「ううん、何でもないの」
何か、忘れている気がする。
例えば外出前にすべての支度が済んだ後に抱える一抹の不安のように、そんな気がしてならない。
大事なことだったような、そうでもなかったような。その部分すら全く思い出せないことに胸がもやもやするのだ。
悩んでいるうちに御者が目的地への到着を告げる。
本当に大切なことならその内思い出すだろうと気持ちを切り替え、馬車を下りたその数分後――応接間に足を踏み入れたシュゼットは驚愕した。
「初めまして、アデルバード・エシュリンと申します。お目にかかれて光栄です」
整えられた艶やかな黒髪。眼鏡の奥に覗く気難しそうな黒曜石色の瞳。一文字に結ばれた唇。
その端麗な容姿には見覚えがある。いや、あった。
『もうこれ以上何を言っても無駄だ、セレンディーナ。諦めろ』
泣き崩れるセレナの肩を掴み、宥めるように諭すように慰めるように、そう言った青年。
ああ、今この瞬間になって思い出すだなんて。
「……こちらこそ初めまして、アデルバード様。シュゼット・アウディガナと申します」
心臓がばくばくと五月蠅くて、周囲の声が聞き取れない。
上手く笑えているか声が震えていないか、気が気じゃなかった。
目の前の少年、アデルバードはあの夢で視た未来でもセレンディーナの婚約者だった。
周囲も憚らず嫌がらせを続けるシュゼットや傍若無人なレオガルドを毛嫌いし、セレンディーナにもシュゼットから離れるよう勧告し続けていた。
フラッシュバックのように脳内を一気に駆け巡る映像。忌まわしいとしか言いようのない記憶の断片を半ば強制的に見せつけられている感覚に、気分が悪くなりそうだった。ここ数年は視なくなっていた夢だったからこそ、尚更きつい。
「アデルバード様、シュゼット様、まずはお茶でも召し上がりませんか」
「ああ」
「ありがとう、いただくわ」
セレナの薦めに内心安堵し、ソファに腰を落ち着けた。斜め前に座ったアデルバードとセレナにはバレないよう口元を隠して小さく深呼吸をしているうちにワゴンが運ばれてくる。出された紅茶を見てシュゼットは声を上げた。
「これは……」
「花?」
それはロザリナに貰った花が咲く紅茶。この間会った折、セレナにもお裾分けしていたものだ。
紅茶を注がれ花開いていく様子にアデルバードも目を見張った。セレナはどこか誇らしげに口を開く。
「実はシュゼット様に頂いた紅茶なんです」
「これは見事ですね……大変珍しいものなのでは?」
「どうやら東欧の一品らしいですわ」
「有難く頂きます」
軽く頭を下げ、カップに口を付けた少年は「美味しい」と感嘆の息を漏らす。
正直シュゼットは拍子抜けしてしまった。侯爵家に盾突くような発言をするくらいだから、てっきりもっと敵視してくるのかと思っていたが、今のところ言動に悪意は見えない。やや無愛想ではあるものの、至って折り目正しい少年だ。
話も通じそうだし、これならすんなり理解してもらえるかもしれない。胸を撫で下ろせば気分も落ち着いてきて、いつも通りの微笑みを浮かべる余裕も出てきた。
「アデルバード様は紅茶はお好きですか」
「はい。銘柄などはあまり詳しくありませんが、紅茶も好きです」
「紅茶も、と言いますと他にも?」
「家では珈琲をよく飲みます。勉学の間に飲むと頭がはっきりするので」
「まあ」
珈琲ももちろん広く流通しているが、社会的には紅茶が主流だ。しかもこの年齢で嗜好しているとは稀と言えるだろう。
「この間、父が良い珈琲豆を入荷したと言っていたんです。よければ分けてもらえるよう伝えますわ」
「いえ、そんなこと申し訳ないです」
「エシュリン家に下ろしたと噂になれば他の方々への宣伝効果にもなります。お互いにとって損はありません」
「……なるほど。ではお言葉に甘えてもいいでしょうか」
アウディガナ家から直接商品を購入すれば、家同士の繋がりを周りにアピールできる。それはエシュリン家にとって大きな強みとなるだろう。
そういったシュゼットの意図を察したアデルバードは素直に承諾した。やはり頭の回転はいいようだ。成り行きを見守っていたセレナも和やかな雰囲気にホッとしている。
「しかし紅茶も奥深いですね。花が咲く紅茶など初めて見ました。これもアウディガナ家で流通しているものなのですか」
「いいえ、ロザリナ様に頂いたんです」
「――侯爵夫人の?」
一瞬にして場の空気が冷えつく。
先ほどまでの穏やかさは消え失せ、アデルバードの瞳には敵意がありありと浮かぶ。
まさかたった一言で。シュゼットはこくりと唾を飲み込み、敢えて気付かないふりで会話を続けた。
「ええ。お茶会に招かれたときご馳走になって、手土産に持たせて頂いたんです」
「そうですか」
「社会情勢にも精通されていて機知にも富んでいらっしゃるとても素晴らしい方でしたわ」
「へえ」
「さすがは史上最年少で騎士団団長に任命されたルイズ様の奥方様であられると感心ばかりでした」
「そうですね」
会話を続ける気のない返答からも相手の出方は明白だ。隠す気もないように思える。
今の反応からしてレオガルドのことだけを敵視しているのかと思っていたが、どうやらローグウェル家全体に及んでいるようだ。一体なぜ?
真意を探ろうとするシュゼットに、アデルバードは直球を投げつける。
「シュゼット嬢、貴女は予想以上に賢い人だ。だから助言を進呈しよう。レオガルド・ローグウェルとの婚約は早々に破棄した方がいい」
まさかのどストレートな切り込みに言葉を失う。
セレナも顔を真っ青にして2人を交互に見やっている。
「無礼を承知で言うが、レオガルド・ローグウェルは自己中心的で横暴な男だ。常に高圧的な言動な上、周囲を見下している。驕り高ぶった性根はとうに捻じ曲がり、修復は不可能だ。将来的に何かしらの問題を起こす可能性が高い。関わるべきじゃない」
仮にもレオガルドの婚約者を前にしてこの暴言。怒って当然の場面ではあるが、まるであの未来を見通したかのような予言に感心してしまう。全くの第三者だったら「分かる分かる~」と頷いていただろう。
だがしかし、シュゼットとレオガルドの婚約は同盟のようなもの。目先の利益を度外視した未来に標準を置いているため、誰に何を言われようと破棄するつもりはない。
さあどう論破しようかと笑みを作り直したときだった、アデルバードがそれを口にしたのは。
「そもそも彼をそこまで放置したロザリナ夫人とルイズ卿にも疑問が残る。子供を教え諭すのは両親の役目だろう」
「……アデルバード様、お二方は」
「彼がそこまで捻じ曲がってしまったのは他ならぬ親の責任だ。侯爵家ともなれば社会に与える影響も大きい。貴族としてその責任は持つことは当然の義務だろう」
アデルバードの言い分は正しい。いつの日かシュゼットだって同じようなことを考えた。レオガルドを咎めもせず、どうして放っておいたのかと。
――けれど。
『ありがとう。我が儘なあの子に付き合ってくれて。貴女がレオの側にいてくれる幸運を感謝するわ』
感謝と慈愛の微笑みを浮かべたロザリナも。
レオガルドとチェスを指すルイズも。
ちゃんと、親だった。レオガルドへの愛が存在していた。
アデルバードの言い分は正論だ。けれど正論が正解とは限らない。
上っ面だけを見てそれを本質と決めつけるのなら、ただの浅慮であって正しいふりをした愚者だ。
(それにね、お陰で思い出したわ)
あの未来でアデルバードはセレンディーナを説得しようとしていた。シュゼットの前で、シュゼットを批難することによって。
目の前で糾弾され、シュゼットはより頑なに心を閉ざしていった。慕うふりをしてセレナも本当はそう思っているのだと、彼女を意固地にさせた。
セレナが離れていった原因はシュゼットが拒絶したことだが、それを加速させたのは他ならぬアデルバードの介入のせいだった。もちろん逆恨みであることは重々承知だし、アデルバードの行いは正当だ。
けれど、そうだ。あの時も今と同じ瞳をしていた。
自身の信じる道理から外れた者をゴミのように見下し、自分の正義を疑わない冷たい瞳。
(それなら叩き潰してあげる、そんなちゃちな正論)
ロザリナとルイズを侮辱したことと、セレンディーナを引き離したこと。
百万倍にして返してあげよう。




