29.騎士団長の言葉は重みが違います
夜の帳が幕を下ろし、家々から溢れる灯りが闇にほのかに浮かび上がる頃。レオガルドは数時間前にも訪れた白塗りの扉の前に立っていた。
厳かに煌めく金のプレート。それはローグウェル家の当主が受け継いできた書斎を指し示すと共に、屋敷の主である証。
逸る気持ちを抑え、努めてゆっくりとノックを2回。返答を待って入室する。
中央のテーブルには駒が配置についたチェス盤が用意されていた。
ルイズはすでに片方のソファに腰を下ろしている。シャツにスラックスという比較的ラフな格好の父親を見るのは久しぶりで、何故だか動揺してしまう。硬直していると視線で促され、慌ててレオガルドも真向かいに座る。
「先攻はお前に譲ろう」
「あ、ありがとうございます」
「では始めるか」
「よろしくお願いします」
こうしてつつがなくチェスは開始された。
しかし緊張でがちがちに固まったレオガルドの頭は真っ白だった。集中しようとすればするほど、取り繕うとすればするほど、現実は空回っていく。
結果、またたく間に勝敗は決してしまった。しかもシュゼットと指し始めたばかりの頃よりも酷い惨状で。
「も、申し訳ありません、せっかくお時間を作って頂いたというのにこのような無様な……」
「弱いな」
ぐさりと突き刺さる父の呟き。何も言えず、恥ずかしさに唇をきつく結ぶ。
頼まなければよかった、とレオガルドは俯く。
ルイズは強かった。それこそシュゼットよりもずっと。文武に優れた父にこんな醜態を晒せば失望されるに決まっていたのに。
この時間を待ち遠しく感じていた己が馬鹿みたいに思えて、一刻も早く此処を立ち去るための言葉を探す。
「……あの、今回は」
「先を焦りすぎだ。目先の利益に飛びつくよりも長期的な視点から駒を動かせ」
「え」
「まずは一手一手、考える癖をつけろ」
「は、い」
「次は今言ったことを踏まえるように」
駒を元の位置に並べ始めたルイズに倣い、レオガルドも自身の駒を直す。今言われたことを頭の中で何度も反芻しながら。
助言をもらえた。もう一回、指してもらえる。ようやく思い至って信じられない思いでルイズを盗み見る。厳しい父親がこんなに下手くそなチェスに付き合ってくれるなんて。
けれど“もう一度”があることが分かり、肩の力が少しだけ抜けた。
2ゲーム目が始まる。緊張が解けたこともあって、先ほどよりかは落ち着いて盤面を見られた。いつもより熟考しながら慎重にポーンを動かす。
向かいに座るルイズとの距離はいつもよりずっと近い。剣の稽古をつけてもらうことはたまにあるが、こうして顔を合わせて2人きりで娯楽に興じるなんて初めてだった。どこかそわそわしてしまうのはそのせいだろうか。
しかしその気持ちは決して息苦しさを感じるようなものでなく、どちらかと言えば初めて剣を握った日の高揚感に似ていた。
ルイズが動かしたナイトに既視感を覚え、手を止める。どこかで見たことがある気がして、すぐに専門書を思い出す。
(そうだ、あれに載ってた。確かこの戦術のねらいは……)
ぼやける記憶を懸命に掘り起こしつつ、全体を見渡して戦術を潰すための一手を指す。
以降も似たようなことが何度かあった。基本になぞらえた、まるで基本書のような盤面に展開。1回目とはまるで異なる父の指し方。ここまで来ればいくらレオガルドだって理解る。これは指導のためのゲームなのだと。
もしもシュゼットに同じことをされたら、「馬鹿にするな」とレオガルドは烈火の如く怒っていただろう。が、唯一絶対の存在であるルイズなら話は別だ。事実、レオガルドの胸に沸き上がるのは“『さすがは父上だ』という尊敬の念と、『わざわざ自分のために』という喜びだった。
いつになくふわふわとした心地に包まれたレオガルドは、それに後押しされるように話しかけた。訓練のことでも騎士団についてでもなく、他愛ないことを。
「父様も昔からチェスをされていたんですか」
「嗜み程度にはな」
「やはりお祖父様と……」
「いや、友人が多かった。訓練の合間に気分転換にと流行っていたこともあった」
気分転換にチェス。レオガルドには全く理解できない流行だが、口は挟まずにおく。
「ご友人と言いますと、ウィリアム様ですか」
「ああ。あいつとはよく指したな。唯一勝ち越せなかった」
「父様が?」
「変則的な手を好む男だ。私には思いつかないような戦術を毎回ふっかけられて、少々手こずらされた」
ウィリアムとはルイズの古くからの知人であり、近衛騎士団の参謀長官でもある。この屋敷にも何度か訪れたことがあってレオガルドも顔見知りだった。
飄々とした掴み所のない笑みが特徴的で一見すると優男のような雰囲気があるが、その実、銃の腕前は団でも3本指に入る実力者。ルイズと同じくして史上最年少で参謀長官の役職に就いた天才軍師と謳われ、王にすら一目置かれている。
そんな相手をあいつと呼び捨てるルイズの口調がいつもよりわずかに柔らかいことに気付く。
昔を語るルイズの表情はよく見知っている“騎士”としてのものでも、“父親”としてのものでもなく、“ルイズ”としてのもので。どこか父を神聖視していたレオガルドにとって不思議な気持ちだった。ああ、父も血の通った人間なのだと、当たり前なことを今更になって実感した。
「そういえば、以前はロザリナとも指していたな」
「母様と?」
「今は忙しくて中々機会がないが、結婚したばかりの頃は就寝前に1ゲーム指すのが日課だった」
ポーンを前へ進めながらルイズは付け足す。
「チェスの上達を望むならロザリナに頼むといい」
「しかし……」
「一度負けたこともある」
「え!?」
予想だにしない言葉に思わず大声を上げ、慌てて口を押さえる。
ルイズは気にした風もなく言葉を続けた。
「いつだったか、私が原因でロザリナをひどく怒らせたことがあった。理由はもう思い出せないが些細なことだった。目も合わせず口も利かない日が続き、日課だったチェスもしなかった」
騎士となる前から己を律し、元々飛び抜けていた才覚を厳格なまでに磨いてきたルイズ。常に夫を敬い、決して出しゃばらず家を守り支える姿は正に侯爵婦人の鑑だと周囲から称賛されていたロザリナ。2人の間には些細な口喧嘩すら起こらなかった。
そんなとき起こった小さな諍い。ほんのわずかな火種はあっという間に燃え上がり、喧嘩と呼べる代物にまで発展した。いつもは従順な妻が露骨な態度で怒りを露わにしている状況に、若かりしルイズは困り果てていた。なにせ初めての喧嘩だ。どう仲直りすればいいのか、そもそも何にそこまで腹を立てているのかルイズには分からなかった。
そんなこんなで時間だけが経っていったある晩。
唐突にロザリナがルイズの書斎を訪れた。チェス盤を携えた彼女の要求はこうだった。
『1ゲーム指して、負けた方が勝った方の望みを聞く』
ルイズはあっさりと提案を受け入れた。今までのチェスでルイズが負けたことは一度もなかったため、ロザリナなりの仲直りなのだと解釈したのだ。
ところが事態は思いがけない方向へ転げ落ちる。完全なるワンサイドゲームで負けたのはルイズの方だった。
『私の勝ちですね』
『……普段は手を抜いていたといことか』
『いいえ、まさか。ただこの何週間か、ウィリアム様にご指導いただいていただけですわ』
『あいつ……』
『ルイズ様。お約束は覚えていらっしゃいますわよね』
此処にはいない旧友に悪態をつく間もなく、それはそれは麗しい微笑を浮かべた妻にぞわりと冷たいものが背筋を走った。
「あまり怒らせない方がいいとあの時身をもって知った」
「母様が……」
にわかには信じられない。母が父に盾突くような真似をしただなんて。
レオガルドは疑問に思う。ルイズの眼差しには懐かしむような色が滲むだけでそこに負の感情は一切含まれていない。悔しくはないのだろうか。油断もあったとはいえルイズほどの男が女であり、妻であるロザリナに負けたことが。
「その、母様に負けたことは悔しくはなかったのですか」
「優劣に生まれも性別も関係ない。ロザリナの方が優れていた、それだけだ。反省すべきは彼女の力を見誤った自分だな」
てらいなく言い切るルイズに息を飲む。まさかそんなことを言うだなんて考えもしなかった。“力こそすべて”の家訓を掲げる、ローグウェル家の当主たる父が。
ロザリナの力を認め、負けを受け入れ、自身の驕りを改めた。潔く堂々たる姿勢にレオガルドは狼狽し、手が止まる。
息子の動揺を静かに見て取った父親はクイーンを手に取った。
「浅はかな思い込みは戦場で命とりになる」
「、っ」
「力を見誤るな。思い込みは目を曇らせ、思考を停滞させる。相手を知り、己を知らなければ見極めるべき真理は見えてこない」
こつり。はっとして、盤面に目を落とす。王が生きる道を全て断たれたことを悟り、小さな声で投了を告げる。掛け時計に目をやったルイズはソファから腰を上げた。
「悪いがそろそろ仕事に戻る」
「あ……お忙しいところ時間を取っていただき、ありがとうございました」
立ち上がって頭を下げ、少しだけ迷ってからおそるおそる願いを口に乗せる。
「あの、また……チェスのご教授を、お願いしてもいいですか」
「時間があれば善処しよう」
「ありがとうございます! 今回教えていただいたことを元に、より励みます」
再度礼をし、書斎を後にする。廊下のひんやりとした空気が微かに火照った頬を冷やす。レオガルドは息を吐きだして歩き始めた。頭の中を整理するように、殊更ゆっくりとした足取りで。
『優劣に生まれも性別も関係ない』
そんなこと考えたこともなかった。力を持つ者が勝者で、持たないものは弱者。それが正しいと疑いすらしなかった。
正直、赤の他人が吐いた台詞ならば失笑で終わっていただろう。けれど他ならぬルイズの言葉であることが、レオガルドの根底を揺さぶり、凝り固まった概念に亀裂を走らせていく。
女は弱い。着飾って噂話をするくらいしか能がなく、剣もまともに握れない。男に守ってもらわねば生きていくことすらできない脆弱で矮小な存在。だからそんな女に負けることは恥以外の何物でもないと、そう思い続けてきた。
『断言してもいいわ。このままならわたしには一生勝てないって』
したり顔の婚約者が浮かび、頭から追い払おうとして思い留まる。
彼女と3年間チェスを指してきて、勝てたことは一度もない。その事実をどう扱ってきた? 自分はきちんと受け止めてきたのか。
――いいや、目を逸らしてきた。まぐれだ、調子が悪かった、次こそはと言い訳ばかりして、シュゼットの力を認めようとしなかった。負けて尚、女だからと侮っていた。
「相手を知り、己を知らなければ見極めるべき真理は見えてこない……」
父の言葉を噛み締めるように呟く。
まずは認めなくてはいけないのだ。彼女が強いということを。自分は弱く、シュゼットよりも劣っているのだということを。
途端に広がる不快感に奥歯を噛み締める。自尊心ばかりが増長したレオガルドにとって、『弱い』という単語が与える痛みは想像以上に重く圧し掛かる。初めて剣で負けたときに味わった苦々しさに似たそれを懐かしめるほどの余裕もなく、棄ててしまえと本能が喚き立てる。
けれどそれ以上にルイズの言葉はレオガルドにとって絶対だ。放り出してしまいたくなる衝動を力づくで飲み下す。
「……ぜってぇ、勝つ」
方向転換し、とある部屋を目指す。
こんな思いまでしたんだ、ボコボコにしてやらなきゃ気が済まない。見てろよ。必ず見返してやる。
決意を新たにレオガルドは母親の部屋の戸を叩いた。
***
シュゼットは驚きを隠せなかった。盤上を見つめ、目の前のレオガルドを見つめる。
敗北し、机に突っ伏す傲岸不遜な婚約者を。
「すごいじゃないレオガルド、びっくりしたわ!」
「……嫌みかよ」
「違うわよ! だってこの間より全然強くなってる!」
「でも勝てなきゃ意味ねえ」
確かに軍配はシュゼットに上がった。しかし今までで一番手こずったのも事実だった。
明らかに以前の彼とは指し方も戦術の使い方も違う。たった一か月足らずでここまで上達するとは予想を上回る成長度合いだ。
「貸した本は役に立ったみたいね」
「立ってねぇ!! 分かりづらい上にややこしいんだよあの本!!」
「あら、入門書としては最適だと思ったんだけど」
「何度破いてやろうと思っ、…………やってねえぞ実際には」
「レオガルドがそんな真似するなんて思うわけないじゃない」
笑顔の裏に隠された牽制にレオガルドは身を引く。触らぬ神に祟りなし。
「誰かとチェスは指した?」
「お前、視えてただろ」
「どうかしら」
実のところ、シュゼットはレオガルドとルイズがチェスを指す光景を夢で視ていた。
ぎこちないながらも親子として時を共にする2人は微笑ましく、なによりレオガルドが嬉しそうだった。でもそれを告げてしまったらきっと彼は予知夢に甘えてしまう。だから全ては告げず、助言という形で選択肢を増やしたのだ。
けれど、おそらく指したのは父親だけではない。この上達ぶりは反復練習の賜物。多忙なルイズが頻繁にチェスに付き合えるとは考えにくい。となれば――
「ロザリナ様はお強いでしょう」
「そこまで視えてたのかよ!?」
「やっぱり練習のお相手はロザリナ様なのね」
「っっっっ、この……!」
震わせた拳が机に叩きつけられることはなく、代わりに荒々しく駒を並べ直す。
盤面が元通りになるとレオガルドはぎろりと睨み据えた。
その意図を察し、シュゼットは笑みと駒を手に取ることで応えた。
会話もなくゲームは進む。天秤はぐらぐらと揺れながらもまだ水平を保っている。どちらに傾くかまだ分からず、幾通りもの策を頭に巡らせるこのひと時がシュゼットは好きだった。
「ねえ、レオガルド。楽しいわね」
「どこがだよ」
いつもより深い思考に潜っているレオガルドの表情は難しく、厳し気だ。けれどその瞳に灯す熱量はあの日、仕合で宿していたものによく似ている。
まさかここまで効果が出るとは思わなかった。ルイズとロザリナに感謝しつつ達成感をこっそりと味わう。
勉学において必要なのは、得た知識を身に付けること。自分の糧として吸収することだ。
文章だけ暗記しても意味を理解していなければあっという間に脳から消えていく。それこそ時間の無駄というもの。
得た知識をチェスを通して身に付けたことでレオガルドは勉学の意義を少なからず知った。
学びが自身に帰ってきた実感は何よりも得難い喜びになる。これで勉学への苦手意識が無くなるとはいかないまでも、軽減されるはず。
それにハマるととことんまで追求するレオガルドのことだ、チェスの勉強は欠かさないようになるだろう。手応えを感じているからこそ余計に。もしかするとあっという間に追い抜かされてしまうかもしれない。
(わたしももっと勉強しなくちゃね)
――まだ負けてあげる気はないけど。
天秤を大きく揺らすべく、クイーンを前へと進ませた。




