26.5.後悔して、混乱して、愉快で、それから?
シュゼットは後悔していた。それはもう切に、心から悔いていた。
「聞いていますか、シュゼット様」
「はい、聞いています。ごめんなさい」
「私だって口煩くしたい訳ではないのです。誰が小言など好き好んで主に聞かせたいでしょう。しかし、私はシュゼット様付きの侍女です。シュゼット様に何かあってからでは遅いのです。この数時間がどれだけ私の心身に負荷をかけていたことか」
「ごめんなさい」
「あと30分遅かったら首を覚悟でローグウェル家に乗り込むところでした。正直なところ、何度か試みようとして護衛の方々に止められたのですけれども」
わずかな心配りを怠らなければ、一言でも状況を伝えておけば。一時間以上にも及ぶお説教を食らわずに済んだというのに。
ちらりと窓の外を見やると、偶然にも馬でやや後ろを走る護衛と目が合う。軽く頭を下げたその顔にくっきりと浮かぶ疲労にミーシェの言葉が真実だと窺い知れた。完全なるとばっちりある。あまりの申し訳なさに彼らの夕飯を少し豪華なものにしてもらえるよう料理長にお願いしてみようと心に決めた。
そもそも自分が悪いことはよく理解していた。ロザリナとのお茶会は一、二時間で済む予定で、だからこそミーシェや護衛にも馬車で待機してもらっていたのだ。それが予定時刻を過ぎても戻って来ず、且つ一言の連絡もなく時間だけが過ぎていくとしたら心配するに決まっている。しかも侯爵家を相手に使用人の立場では下手な動きも見せられなかっただろう。
せめて婦人と一度別れた際に言付けを頼むべきだった。ミーシェが怒るのも無理はない。シュゼットは姿勢を正してミーシェに向き直り、深々と頭を垂れた。
「! シュゼ……」
「今回の行い、令嬢として軽率なものでした。ミーシェにも護衛の方々にも迷惑と心配をかけたことを心からお詫びします。ごめんなさい」
「……反省していますか」
「うん、してる。ごめんねミーシェ」
ミーシェの隣に座り直し、頭を彼女の肩に預けた。昔からシュゼットがミーシェに甘えるときや許しを乞うときにする仕草。溜め込んだものを吐き出すように息を吐くと、ミーシェもまた、シュゼットに頭を寄せる。どちらともなく笑みが零れ、ぎすぎすとした空気はようやく霧散した。
「差し出がましいことは承知ですが、ローグウェル家の使用人は教育がなっていません」
「何かあったの?」
「シュゼット様もしくはロザリナ様へ言付けを何度か頼もうとしたのですが、急な来客があったとかで取り合って頂けませんでした」
「ああ……」
「急な来客で忙しかったことは理解できますが、先客はこちらですよ? ましてやご子息の婚約者の侍従だと知った上でのあの対応だなんて有り得ません!」
「……だからこそとも言えるのかもね」
怒りに震えるミーシェに届かないようにシュゼットは呟いた。
決して雑に扱われた訳ではなく、むしろ丁重に対応してもらっていたようには思う。婦人の招待客としては。
しかしレオガルドの婚約者という肩書きのシュゼットに向けられる視線はプラスに働くものの方が圧倒的に少なかった。つまりそれは、使用人からレオガルドへの評価そのままということだ。
(レオガルドが使用人にどう振る舞ってるかなんて火を見るよりも明らかよね……)
そこはおいおいどうにかしていくとして、今はローグウェル家の株を上げるために尽力をつくそう。
「ロザリナ様はとても素晴らしい方だったのよ。お会いできてよかった。そうだ、お土産にとても珍しい紅茶を戴いてしまったの。今夜一緒に飲みましょう」
「それは楽しみです」
「あとね、レオガルド様の一つ下のご兄弟のライガー様にも会ったわ。弓がとても得意なの。わたしも――」
「わたしも?」
「……ロザリナ様に邸内を案内していただいて、蔵書室には稀少本があってね」
――っとぉ、危ない。うっかり口を滑らすところだった。この後に及んで“弓術体験してきちゃいました☆”なんてバレたら雷が落ちるどころじゃ済まない。下手するとライガーにも飛び火しかねないので固く口を結び直した。
「それでシュゼット様は、こんな遅くまで本を読まれていたのですか?」
「まあ、あとは……お節介を」
「お節介?」
「大きな、ね」
そう、シュゼットはよく理解していた。
自分がライガーにしたことは、“大きなお節介”だったと。
レオガルドとライガーの仲が険悪なことも。
シュゼットと距離を取りたがっていたことも。
あのまま部屋を出て行くことを望んでいたことも。
全部理解っていた。
恐らくいつものシュゼットだったら相手の望み通り引いていただろう。触れられたくないものは誰しもあるし、単なる好奇心で藪を突いた蛇を出すほどシュゼットは愚かではない。
それでも今回は敢えて藪を突いた。強引ではた迷惑な方法を選んでまで、ライガーの触れられたくない領域に踏み込んだのは――
(ちょっとだけ似ていたのよね、あの頃わたしに)
初めはほんの少しの違和感だった。小さな違和感。しかしどうしても気になって、シュゼットは一人で鍛錬場に訪れた。そうして訓練に没頭するライガーを観察し続けてようやく気が付いたのだ。彼の瞳の深い淀みに。
最低最悪な最期に怯え、僅かな希望にかけて悪夢を筆記帳に書き付けていた頃の自分が、ただひたすらに弓を放ち続けるライガーの姿と重なって。唐突に理解できた。
ああ、怖いんだ、と。
未来に希望を持てず怯えている。明日が来るのを怖がっている。どうにもならない運命を嘆いている。
訓練に打ち込んでいる間は余計なことを考えなくていい。ただ目の前のことに集中していればいい。だから余計にのめり込んでいく。分かるよ。――でも楽しくないよね。
弓術に逃げているだけなら放っておいたかもしれない。他人を言い訳にして逃げるだけの卑怯者になど関わるだけ時間の無駄だ。
けれど、ライガーは抗っていた。本人は気付いてなかったかもしれないが、最後の最後で夢を棄てきれていなかった。未来に絶望しながらも希望を求めていた。弓というか細い光をすでに手にしていることにも気付かずに。
だったら、少しだけ背を押してあげよう。
一生懸命頑張ってきた自分を誇れるように。
その努力が決して無駄ではないと実感できるように。
未来は変えられるんだって、示せるように。
――その結果が、大きなお節介になった訳である。
(にしたって、初対面でしかも仲の悪い兄の婚約者がここまでずけずけと触れられたくない弱みに踏み込むなんて厚顔無恥にも程があるわ……)
罪悪感と申し訳なさに頭を痛ませながらも、最後に見せたライガーのはにかむような笑みを思い出す。垣間見えた本来の素顔にふっと肩の力が抜けた。
「でもね」
「?」
「反省しているけど、後悔はしてないの」
***
レオガルドは混乱していた。そして切に、心から何かに八つ当たりしたかった。
「それでね、たくさん本の話をしたのですよ。古い本だけど『エリアナの花弁』も読んだことがあるって聞いて、私も好きな本だからつい盛り上がってしまいましたわ」
「そうか」
「そういえばチェスも嗜まれると言っていたわ。昔はよくルイズ様もやられていましたね。ふふ、懐かしい。あのチェス盤はまだあったかしら」
「確か倉庫に仕舞ったままだ。明日までには探させておこう」
「まあ、有り難うございます」
まず第一に。ロザリナがこんなにも饒舌なんて初めてだった。侯爵夫人として弁える彼女は聞き手に回ることが多く、自身の無駄口を良しとしない嫌いがあった。それが今夜はどうだ。ルイズが席に着き、食事が始まるや否や自ら今日の出来事を語り出したではないか。止まらないどころか盛り上がっていくばかりの様子にレオガルドだけでなく三男のリベルタも一連の流れに唖然としていた。
第二に。ロザリナの話によるとシュゼットが日中、この邸に訪れたという。どういうことだオイ。初耳な上にすでに終わった出来事だということがレオガルドを苛つかせた。自分に断りもなくローグウェル家に足を踏み入れるなんてふざけんじゃねえという怒りが全身を焦がす。が、母親からの招待であること、母自身がレオガルドに内緒にしていたことが当初に判明したため怒りのぶつけどころが消失。しかもルイズの前で喚き散らせる筈もなく、奥歯を噛み締めて拳を振るわせながらひたすら堪えねばならなかった。
第三に。そんなロザリナの変貌にもルイズは平常となんら変わらない。それは想定の範囲内とも言えるが、不可解なのはライガーも至って普通であることだ。驚く様子も見せず、淡々と一人食事を進めていく姿が却って不気味にすら映る。それだけじゃない。いつもはもっと辛気くさい雰囲気を背負っているくせに、今日はまるで憑き物が落ちたみたいに顔つきがすっきりしている。
(一体どうなってやがるんだ!?)
さっぱり分からない。たった一日で何が起こったというのか。レオガルドが混乱の境地に達しているとも知らないロザリナは更に特大の爆弾を投下する。
「でも引き留めたせいで帰りが遅くなってしまって……申し訳ないことをしてしまったわ。ねえ、ライガー」
「!?」
「そうですね。ですが、シュゼット嬢も稀少な本を読めて有り難かったとおっしゃっていましたよ」
ライガーとシュゼットが顔を合わせた事実が飛び出し、レオガルドは頭を一発殴られたような衝撃を受けた。その間にリベルタが話題に食いつく。
「えっ、兄上、レオガルド兄様の婚約者に会ったの?」
「ちょうど鍛錬中に母上が紹介して下さってな」
「へ~、どんな子だった?」
「とても美しくて利発的な令嬢だったよ。兄様には勿体ないくらい、ね」
ぱちりと視線が噛み合って思わず目を見開く。レオガルドのみならず、ルイズを除く家族も驚きに息を飲んだ。ライガーは気にする素振りもなく「冗談ですよ」と笑って見せた。
(ライガーが俺に……自分から話しかけた?)
今まで一度だってそんなことなかった。少なくともライガーが剣を始めてからは、起こり得ないくらい冷え切った関係だった。ライガーがレオガルドに重い劣等感を持っていたことは知っていたし、興味も無いからどうでもよかった。それが何だ? この変わり様は一体何なんだ。
「兄上がそう言うならとびっきりの可愛い子なんだろうなぁ。いいな、僕も会ってみたい。またお茶会開いてよ、母様」
「ええ、また招待したいと思っているわ。そのときはリベルタも紹介するわね」
「やった、約束ね!」
「ライガーも仲良くなったみたいだし、また会いたいわよね」
「またお話できたら嬉しいです。そうだ、紅茶がお好きなようなら次はラディアムをお出しするのはどうでしょう。ヘーゼリア公国で最近話題と聞きましたが」
話の中心にシュゼットがいる。レオガルドの婚約者である彼女が。
けれど家族の口から語られるシュゼットが自分の知るシュゼットとどうしても合致せず、まるで他人の話を聞いているようで。それが余計にレオガルドを混乱させるのだ。
***
ライガーは愉快だった。それはもう心から、笑い出したくなるほど。
まさか自分がレオガルドから呼び止められることなど想像すらしていなかったからだ。
「どうしました、兄上。珍しいですね。声をかけて下さるなんて」
「それはお前も同じだろうが」
食事中の一幕を指していることはすぐ分かった。今までの態度を思えば当然の反応だ。ライガーすら内心、自分自身に驚いていたのだから。
廊下は重々しい静寂に包まれ、等間隔に置かれた照明だけが仄かに2人を照らしている。レオガルドと同じ空間にいるのはいつだって気分が重くて苦しかった。会話どころか顔を合わせるのも嫌で、ひたすらに接触を避けてきた。たった数時間前までは。
「そのことを言及しに?」
「違う」
断言され、瞠目する。てっきりそうだとばかり思っていた。じゃあ、何のために。
レオガルドは忌々しげに舌打ちした後、じろりとライガーを睨み据える。
「……アイツと何を話した」
「あいつ?」
「っ、シュゼットだよ」
予想だにしなかった言葉に目を丸くしていると、レオガルドは更に言い募る。
「母上とお前の様子がどう考えてもいつもと違う。何があったか正直に吐け」
「……」
「まさか余計なこと聞いたんじゃないだろうな」
「……………」
「おい、聞いてんのか!」
「…………っ、あははははは!」
「!?」
堪えきれなくて吹き出してしまう。これが笑わずにいられるだろうか。レオガルドが、強者にしか興味のない兄がたった一人の少女の言動を気にして探りを入れてくるなんて!
ひとしきり笑い、滲んだ涙を指先で拭う。こんなに笑ったのは何歳以来だろう。今日は何回の“久しぶり”を更新したことか。涙が出るほど笑って、大笑いして、ようやく思い出した。
「はー、笑いすぎた」
「覚悟はできてんだろうな、てめぇ……!」
「懐かしいですね」
「あ?」
「お互いに剣を始める前はこんな風に笑い合えた時期もありましたよね」
一瞬、レオガルドの脳裏をある光景がよぎった。芝生に寝転ぶ2人の少年。無邪気に笑い合うお互いの間にはなんの確執も隔たりもない。あるのは柔らかな陽射しと繋いだ温かい手だけ。
古くて遠い記憶。確かに存在していた過去。レオガルドはぐしゃぐしゃと頭を掻き、ライガーを見据える。
「――で?」
「……」
「今さら仲良くしましょうとでも? くっだらねえ」
「まさか」
ふっと笑ったライガーの表情に影が差す。そこに過去を懐かしむ温かさはもうない。
「僕がどれほどの絶望を味わっていたか。こんな思い出ごときでチャラになるほど温くない」
「はっ、知ったことかよ。弱いお前が悪いんじゃねえか」
「……そうですね。でももういいんです」
「僕は僕の騎士を目指すことにしましたから」
真正面からレオガルドを見据えるライガー。揺るがない意志と確かな決意を秘めた瞳は見たことがないほど強い光を灯していて、目の前の少年が本当にライガーなのか疑いすら覚えてしまう。
「ライガー、お前……」
「夜も深くなってきましたし、そろそろ失礼します」
「っおい、質問に答えてねえぞ!」
兄の婚約者で、かなりの変わり者で、光を与えてくれた少女。弓の楽しさを思い出させてくれた女の子。
「勿体ないですよ、レオガルド兄様には」
呆気に取られる兄を残してその場を後にするライガーの足取りと心は、踊り出しそうなほど軽かった。




