Lapse1(つまづき)
ラプス
寒さに縮こまった関節を感覚の戻らない中で曲げ伸ばしするように、そっと会話の枝を伸ばす。
「同じ市民講座聴いてた人なら、ぴんとくるものがあると思うんだよね。お、この台詞、リンパ球だな、って」
「市民講座?」
「そうそう。ついさっき行ってきたところ。市民プラザでやってるんだけどね」
「仕事だったの?」
「え、いや、休みだよ。なんで?」
「市民プラザの職員なら、そういうのも仕事かと思った」
なぜそれを。
「この格好、どう思う?」
おそるおそる、尋ねる。
うまく化けたつもりなのに、尻尾が出ていたのだろうか、それとも耳か、いや前足か、ときょときょとする狐のように。
「似合ってる」
褒められた。予想外だ。
「ありがとう。でも、んーっと」
「かわいい」
「ありがとう。でも、あーっと」
「アクセサリーも合ってる」
「ありがとう。でも、えーっと」
「髪を下ろしてるのもかわいい」
「……ありがとう。でも、その」
まずい。意味がわからない。かわいいって2回言われた。いや、問題はそこじゃない。
継母の女王も白雪姫への憎しみが萎えそうな褒め殺しだが、きっと彼女も本当にほしい言葉を手に入れるまで満足はしないだろう。
強がりと怯えを自信に塗り込めて、瞳を逸らすことなく、微笑すら浮かべて。
あらあら鏡さん、こんなにあからさまに導いてやらなくてはだめなんて、女心に疎いのね、とからかうように唇に乗せ、問いを、射る。
世界で一番美しいのはだあれ。
望む答えは、たったひとつ。
まさか白雪姫ではなくて、目の前にいるこの私でしょう、と。
「つまり、市民プラザの職員っぽくないよね?」
まさか私は化け損ねたのかしら、そんなことないでしょう、と。
「ああ、そっちか」
「うん、そっちね」
「それはわからないけど、普通にかわいい」
「…………ありがとう」
だからなぜそうなる。
市民プラザ職員に制服はない。
細かい制約は特にないが、「簡潔かつ清潔」、すなわち動きやすく利用者の方に不快感を与えない服装を旨としている。私の今の服装は、膝上までのブーツはもちろん、胸元にシュレッダーに巻き込まれそうなリボンがついたニットワンピースも電話応対の際に邪魔になるイヤリングも、すべてアウト、だ。
「じゃあなんで、私が市民プラザに勤めてるってわかったの?」
プライベートな時間に自分の職場を利用するというのは結構気まずいものである。
私の場合どの程度かといえば、自分の勤める病院を受診する医者ほどではないが、自分の働くスーパーで夕食の買い物をする主婦よりはずっと気まずい。
「上村さんが自分で言ってた」
なぜに名前まで、と驚きつつ今までの会話を振り返る。職場の話を出した覚えはない。
それなら、この人が言うのは、一体。
望まないものが現れる予感に、息を詰める。
この先は危うい。
この世で一番美しいのは、白雪姫ではなく、この私でしょう?
いいえ、女王様。この世で一番美しいのは、白雪姫でございます。
ねえ鏡さん、云わないでほしかったわ。私の自尊心があの子を殺し、私の愚かさが私を滅ぼす。
女王様、私めは鏡。あなたさまの姿を写し出すのに、何を偽ることができましょうや。
危険立入禁止。
けれど、すでに足を踏み入れてしまったなら、全力で駆け抜けるしかないのだ。立ち止まることも振り返ることも、叶わない。
問いを重ねる。
積み木の塔のてっぺんに最後のひとつを置くように、まばたきを止めて、慎重に。
「それって、いつ?」
「同窓会で」
同窓会? あーそうかい、と口に出したい衝動をこらえる。この場面で駄洒落に逃げるのはどうもまずい。
高校時代の記憶をたぐりよせて、目の前の人物との相似点をさらう。その気で観察すれば、どうも見たことがあるような気がしてきた。そもそも最初からそんな気はしていたではないか。
「……高西?」
「そうだけど」
怪訝そうに肯定されて、それは事実となる。
今まで積み上げてきた会話は重力に従って落下し、残骸が突き当たってあざを作る。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。
転んだけど、痛いけど、血は出てない。だからまだ歩ける。ほらね、大丈夫。
小さな子供めいた無理矢理の大丈夫は、意外とよく効く。本当に大丈夫な場合に限り。
この人は、高西だ。高校3年のときのクラスメイトで、……そう、ほかのことはともかく、確かに高西だ。
大丈夫、と胸の中で繰り返す。
タシカニタカニシ。あ、舌噛んだ。