Lapse2(横道)
思いがけない再会を幽霊に行き遇ったようだと表現することがある。
どんなに懐かしく慕わしい相手であっても、意識の外からいきなり現れる存在には尋常ならざるものを感じてしまうからかもしれない。その人に引きずられるように甦る過去に、現在が押し流されそうになるからかもしれない。
人間、幽霊に行き遇うことは、ままある。
『マナー遵守、お天道様が見ています』
そのときたまたま犬が吠えかかっていなかったら、それに気に留めずに通りすぎてしまっただろう。背丈と同じくらいなのに、雨風にさらされて背景と文字がともに曇り空のような色になっている、幽霊のような看板だった。
おてんとさま、と半ば無意識のうちにそっと呟く。
おてんとさまねえ、と桜の花を掃き集めながら柔らかに繰り返す窪田さんは、雛段の左大臣が笑い上戸の竹箒を持たされたようである。
「ねえこの子ったらここでいつも吠えるんですよ。マナーがなってないったら」
引き綱をぐいぐい操る飼い主は、毛がわさわさした大型犬が花びらの小山に飛び込もうと機を窺うのを巧みに阻止する。
「犬がなんでもないところで吠えるのは幽霊がいるからって言うけど、どうなんだか。ま、幽霊の方もおてんとさまが照ってるうちはばからしくてひゅーどろどろなんてやってるられないでしょ」
犬と飼い主は市民公園へとざくざく進み、幽霊、ひゅーどろねえ、と私と窪田さんは顔を見合わせる。
「これ、夜はどうなるんでしょうかね。『地球の裏から見ています』?」
お月様にもお星様にもそれほどの抑止力があるとは思えない。
「夜は電信柱があるから、おてんとさまもお役御免でいいんじゃないかねえ」
「電信柱、ですか?」
窪田さんは、そうそう、と楽しそうに頷く。
「なにしろ幽霊は使い勝手がいいからねえ。鼻が利かない人間なら、暮れれば電信柱を警察官と見間違えるかもしれないよ」
白に近い桃色の花びらが、ざっと風に煽られた。
幽霊でなくても、怖いものというのはもちろんある。
真理は往々にして人を沈黙させる。
真理の鋭い刃は切り裂くものを選ばないため、その鋭い刃が自分に向くのか人に向くのかわからない状況では迂闊に口を開けなくなるのである。
高校2年の修学旅行の一夜、「少女はいつ大人になるのか」というよくある命題はやっぱり恋だよね恋、という方向に傾ききゃらきゃらとした雰囲気を醸し出したのだが、「ムダ毛の処理を始めたときじゃない?」というワラビーからの一石が投じられたことにより、皆一斉に我が身を省みて押し黙る椿事に陥った。
ちなみに真理の切り裂き魔・和良比さんは、私のお気に入りだったカンガルーのぬいぐるみが実は犬であることを看破して、私の幼少時の人格形成に波紋を投げかけた罪深き少女である。多少の恨みを込めて私がワラビーと呼ぶのも致し方ないであろう。
しかしこの年頃の女子というのは、枝毛のあるなしで盛り上がっても、ムダ毛で盛り上がれるほど開き直ってはいない。ごく親しい数人ならともかくも、十人強の大部屋である。
「晴名、いるんでしょ」
重苦しい沈黙を破り、絵里がいきなり水を向けてきた。
なんでも創立記念日に年上の男とふたりで歩いているのが目撃されたそうだ。
創立記念日って先月じゃないか。なんでわざわざそんな話題を今まで大事に取っておくんだ。まあこういうときのためなんだろうが。
「それ、うちの兄だよ。9歳離れてるからだいぶ上に見えるでしょ」
軽く告げると、なんだ、つまらない、と気の抜けた声が異口同音に上がる。
へえあんな人なんだ、と感心したように頷く絵里とは、中学時代から付かず離れずの付き合いだ。家に遊びに来たことはなかったはずなので、兄さんを知らないのも不思議ではない。
「え、待って、創立記念日でしょ? 私も晴名のお兄さん見かけたよ」
新装開店のラーメン屋さんで並んでたよ、晴名も一緒かと思ったけどいなかった、と困ったように語るのは由希子だ。だからなんで今日までその話題を温めておくんだ。まあこっちはただ忘れていただけだな。
由希子は高校に入ってからの友人だが、私と同じく帰宅部で帰る時間が重なる。兄さんには雨の日に車に乗せて帰ってもらったことがあるから、これまた不思議ではない。
「晴名さあ、お兄さんふたりいたんだっけ?」
「ひとりだけど」
「日付とか時間が違うんじゃないの?」
「絶対創立記念日のお昼くらいだって」
「ラーメン屋の方は見間違いじゃないの?」
「ううん、だって『ウエムラ様、一名様ですね』って確認されてたの聞こえたし」
それなら、と由希子はぽつりと中空に向けて問いを発する。
「——私が会ったのは、誰だったの?」
その声は、ほかの誰もが無言の中で震えるように尾を引いて、軌跡が見えるようだった。
次の瞬間には、ドッペルゲンゲルだ、との意見がどこからともなく湧いて出て、恋愛話は急転直下怪談へと移行した。修学旅行の夜長というのは恋かおばけか両極端である。少なくとも私の経験上はそうだ。
正確には「もうひとりの自分に会う」というのが狭義の自己幻視ことドッペルゲンガー現象らしいので、第三者の目撃情報のみという今回の場合は厳密にいうと当てはまらないが、それは大した問題ではない。
自分のドッペルゲンゲルに会うのは死期が迫っている証拠だ、ほら雪下ろしの最中に自分の葬列を目撃して屋根から落ちて死んだ男の話があったでしょ、という不吉な事例が飛び出して兄さんに余命宣告が下されたかと思えば、ドッペルゲンゲルに鉢合わせした後もぴんぴんしている人もいるらしいから気を確かに保てと励まされ、やだこわいやめてよと耳を塞がれた。
「そうだ、片方は怪人二十面相だっていうのはどうかな?」
「余計怖いよ!」
阿鼻叫喚の中由希子と絵里に詳しい事実関係を質して、しばらく混迷を極めてからやっと兄さん2号というのは叔父上だと判明した。
あのままでは危うく「ドッペルゲンゲルの妹」という二つ名を戴き残りの高校生活を送る羽目になるばかりか、兄さん1号と兄さん2号の遭遇を阻止するという要らぬ気苦労まで背負い込むところであった。
そしてなぜか私が叱られた。「怪人二十面相はない」「心当たりがあるなら早く言え」「そもそも晴名に恋人がいないのが悪い」とのことらしい。今考えてもあれは理不尽だ。
兄さんとは9歳とかなり年が離れているから兄と見られないこともしばしばあり、それについて耐性はあった。しかしまさか叔父上が自分の兄として収まるのはまったく予想外だったのだ。なんたって叔父である。21歳差だ。そりゃないだろう。
余談だが「ドッペルゲンガー」でなく「ドッペルゲンゲル」というドイツ色の濃い発音は、当時現代文で扱っていた芥川龍之介の影響だ。なんでも芥川は書斎でもうひとりの自分に遇ったらしい。
あの状況下で全員がドッペルゲンゲルという結論に飛びつき納得したのも、芥川龍之介という存在の説得力からだろう。さすがは芥川である。
付け加えるならば、修学旅行の後だったか、「自分もしくは知人によく似た人物を目撃する」という意味で用いられる動詞「げんげる」がプチ流行語として校内新聞のコラムで取り上げられたのも、芥川龍之介の影響に違いない。やはり、芥川はさすがである。
土産話を叔父上にしてみると、怖い話のお返しをくれる。
「前さ、晴名と商店街ぶらぶらしてただろ。それを仕事で付き合いのある奴に見られてたらしくてな、言われたんだよ。『愛は年齢を超えられるが、法律も条例も超えられない』」
その勘違いはどうかと思うけど良い人だね、と相槌を打ったら続きがある。
「『超えられないときは、すり抜ければいい』らしいよ。幸運を祈られた」
勘違いって怖い、と素直に思った。
俺たちって高校生の女の子には同じ年に見えるらしいんだよ、と叔父上が兄さんに自慢げに語ったときが、なにより一番怖かった。




