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Lecture1(講義)

レクチャー

「で、なんだっけ。そうそう、その出汁が取れるのも骨髄からで、骨髄にはその血球を作る部分と脂肪の部分に分かれてて、年を取るにつれて脂肪の割合が増えていくんだって。

 それでね、リンパ球が骨髄でつくられた後なんだけど、B細胞は置いとくとして、T細胞の方はまだ完璧じゃないから胸腺に選抜されに行くんだよね。胸腺の頭文字はTで、これがT細胞の由来。ちなみに胸腺も年を取るとどんどん脂肪と置き換わって、40歳には完全に脂肪だけになっちゃうんだって」

 胸腺とは何かと言われたら、まあ胸のあたりにある腺であろう。漢字は便利である。


「この選抜試験に合格するのは、自分を適切に見極められるT細胞だけ。胸腺を生きて出られるのは、T細胞全体のわずか2%なんだよ。

 敵を知り己を知れば百戦危うからず、って言うでしょ? それが選抜の目的。免疫って要するに異物の排除だから、『自分』がわからなければそもそも何が『異物』なのかもわからないよねって話。敵と間違って味方を攻撃しちゃったり、逆に敵を認識できなくて誰も攻撃できなかったりしないように、実際働き始める前にふるいにかけておくわけ。もちろんB細胞もこういう選抜を済ませたのだけしか外に出されないんだよ」


 一段落ついて、先ほどからちらちらと目を落としていたノートを視線で浚って、次の項目を拾う。

聴いて半日も経っていない講義の内容は、流れをなぞるだけなら記憶だけに身を任せる方が忠実に再現できるが、正確な数字や語句となるとそうはいかない。


「リンパ球は、血液とかリンパ液の流れにのってぐるぐる廻ってもいるんだけど、主にリンパ節とか脾臓とかにいるの。あ、脾臓っていうのは、左脾臓の右肝臓、だから左の脇腹あたりね」

 これは「左ヒラメの右カレイ」という目の位置によって平べったい魚を見分ける語呂合わせの応用で、ヒダリのヒで頭韻を踏むのがミソである。これは同じく市民講座の、救急救命士による心肺蘇生法講座で豆知識として教わった。

 ヒラメはともかく脾臓については、この語呂合わせを使う機会などまずないだろうと思っていたのに、覚えていると意外な場面で役に立つものだ。

「それは知ってる」

 まさか知っていたとは。

 脾臓がそこまでポピュラーな臓器だとは思わなかった。

 私と脾臓とのご縁は、何やら犯罪が描かれた小説の「ナイフには脾臓を仕留めた手応えがあった」なる描写くらいであるのに。今日の講師の先生は脾臓なんか手術で取っても特に困らないとすら言っていたほどだ。


「リンパ節はリンパ管の関所で、リンパ液を濾すフィルターみたいなところ。ちなみに脾臓は血液のフィルターね」

「リンパ液って何の液?」

 ロミオよロミオ、あなたはなぜロミオなの。

 こういう質問が一番答えにくいのだ。

「何って……うーん、何だろう。えーと、血管を流れてるのが血液で、あれ逆か。血液が流れてるから血管? とにかく、リンパ管を流れてるのがリンパ液」

 言い切って胸を張る。もっとましな説明はないのかとノートを見返すとあった。さすが先生である。

「脚がむくむのは、血管の外に水が漏れてるってことなんだよね。そういう水を回収するのがリンパ管で、だからリンパ管は血管と違って端は行き止まりでループになってないんだって。『リンパ管は動脈・静脈とともに走行し、リンパ液は最終的に静脈に流れ込む』と。へえ、そうなんだ。ということで血液もリンパ液も元は一緒みたい」

「なるほど」

 あながち私の説明も間違ってはいなかったようだ。それで納得できるかはともかくとして。


「で、リンパ球は、そのリンパ節とか脾臓とかの場所で、ひたすら病原体とかの異物を待ち伏せしてるわけ。体に入ってきた病原体とかその欠片とかは、リンパ液や血液に入って体をめぐって、リンパ球のところにたどりつく。それからまあ免疫反応というか病原体との戦いがあるんだけど、ここからはリンパ球ってひとくくりにできないから難しいんだよね。

 軽くまとめると、T細胞は大きく分けて2種類あって、どこかで聞いたことあると思うけど、キラーT細胞とヘルパーT細胞。細胞の中に入り込んで増殖する病原体だったら、もうその細胞自体を殺すしかなくて、それが殺し屋(キラー)T細胞。細胞の外の病原体と戦うのに、自然免疫とかB細胞の反応を手助けするのが、お助け(ヘルパー)T細胞。

 B細胞はヘルパーT細胞と反応して抗体を作ってるの。抗体の仕事は病原体の毒を中和したり病原体にくっついて分解しやすくしたりすることね」


「思い出してほしいんだけど、獲得免疫っていうのは『ある特定の異物』に対する免疫なわけ。問題は『特定の異物』に対応するのは、『特定のリンパ球』だってこと」

「1対1の対応なの?」

「うーん、そこまで厳密かはわかんないけど、簡単に言うとそうなんだよ。リンパ節で、あるリンパ球が自分の担当じゃない異物に出会っても、なんか合わないからってスルーされちゃうんだって。

 つまり、ひとつのリンパ球は、特定の病原体と出会うために生み出されて、その病原体にしか反応しない」

 歌うように、夢見るように諳んじる。


 ——あなたに会うために生まれてきたの。

 ——こんなふうになるのは、あなたにだけ。ほかの誰かじゃだめなの。


「それ、映画の台詞?」

「あ、もしかしてこれは覚えてた? どう、ちょっと似てる?」

「感情は込めないでいいと思う」

「でも、こういうのって普段話す調子でやると逆に照れない?」

「さあ。やったことないから」

 それはまあ、そうであろう。

「ここからがすごいんだけど、リンパ球って運命の相手に出会いました、はい終わり、じゃないんだよね」

 基本的な事項はカバーしたので、あとは特筆すべき点を抜粋するだけである。


「まず、そのままじゃ満足しない。リンパ球は、出会った病原体に合わせて変わるんだよ」


 ——あなたと出会って私は変わったの。少しでも多く、好きになってもらいたいから。


 より病原体を捕らえやすいよう、リンパ球はその表面の受容体の構造を変化させ、適したものだけが生き残り、数を増やす。



「それに、待ち伏せだけじゃなくて、相手を追いかけることもできるようになる」


 ——会いたくて、我慢できなかったの。おとなしく待っているだけなんて、もう無理。


 たとえばキラーT細胞は、病原体に入りこまれた細胞を直接攻撃する。しかし、そもそも攻撃したい細胞のところまで辿りつかないことには攻撃できない。血流に乗って運ばれてきた病原体と出会うまではともかく、基本的にリンパ節や脾臓に留まっているリンパ球に不可能かと思えば、病原体との反応後は自ら感染部位に乗り出す能力も手に入れるのである。



「そして、一度会った相手なら、忘れない」


 ——ばかなひと。間違えるはずないじゃない。あなたを忘れたことなんてないのに。


 これは免疫記憶と呼ばれ、病原体に出会ったリンパ球は長く生き残り、次の感染の際には速やかに反応する。予防接種は疑似感染を通して発病なしにリンパ球の病原体特異的な免疫反応を獲得する、この免疫記憶を利用したものである。


「ということで、ロマンス映画の台詞はまるでリンパ球のようだというお話でした。どう? ちょっとすごくない?」

「感心したけど」

「けど、なに?」

「この映画のテーマは?」

「……テーマ?」

 思いもかけぬところを突かれて、つい鸚鵡返しにする。

 テーマか。テーマときたか。

 そういう質問は、とりあえず主人公の名前でも覚えてからお願いしたいものである。

 というかロマンス映画に「恋愛って大変だけど素敵だよね」か「恋愛って素敵だけど大変だよね」以外のテーマなんてあるのか。……あるんだろうな。リンパ球とか言っちゃったしな。


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