Lance(香車)
ランス
「私ってそんなに恋人いなそうに見える?」
窪田さんといい高西といい、なぜ私がちょっとめかしこんでいてもデートという選択肢が一番に挙がってこないのだろう。
同窓会のときはいたんだけどなあ、とこぼすと、8月か、と高西は考える素振りを見せる。涼しい顔で人の恋愛の死亡推定時期を算出するのはやめてほしい。思い出話にもできないほどつらい終わりではなかったにしても。
「まあねえ、クリスマス前にこんな映画ひとりで見に来てるし」
しょうがないか、と溜息混じりにこぼすと、高西もしたり顔で付け足す。
「『男は病原体』らしいし」
いや、ちょっと待とうか。
確かに言った。先ほどそう口にした。それは認めよう。だが物事には流れというものがあり、会話には文脈というものがあるのだ。
つまりあれだ、そこだけ引用すると私が間違った方向に潔癖な人間のように聞こえるではないか。
「それは、忘れなさい」
「なんで」
「いいから忘れるの。いい?」
「さあ」
とぼけられて、ちょっと考えてから、まあいいかな、と思う。幸か不幸か、お互い付き合っている人はいないのだし。
「忘れないと、抱きつくよ?」
直近の記憶すら塗りつぶすほど鮮烈な抱擁などできそうにないが、どうせ脅し文句は実現しない。
毒を以て毒を制すというのは、有効な戦略のひとつだ。敵を知り己を知れば百戦危うからずとはいうものの、己を十分に知っている者などそうはいないのだから。
「どうぞ」
いやいや、どうぞじゃないだろう。
「来ないの?」
へいかもん、と低調に言って高西はこちらに体を向ける。その言い方呆れるほど似合わんな。
「いや、なんていうか……」
冗談だよ冗談、と言って済ませられない雰囲気になっているのはなぜだろう。
「やっぱりびょ——」
「違うから!」
それさっさと忘れてよ高西、と文句を言うと、忘れさせればいいのに、と無体な注文が入り、徒労感がたまっていく。
さて、「同じところをぐるぐる回り続ける鳥は何でしょう」という叔父上のなぞなぞがあった。
答えは、「ドードー」。堂々巡りというわけだ。
そういえば、スタートもゴールもない円周上を、ぐるぐると走り続けるコーカス競争なるものがあり、発案者であるドードーも参加していた。
そこは不思議の国。涙の湖で濡れそぼった体も、走りに走ればすっきり乾く。
ゴールラインのないコーカス競争は、ドードーが終了を宣言しないことには終わらない。
「というか、高西の弟はいいの?」
強引に話題を変えてみる。
「寝てたから置いてきた」
「だめじゃん! 起こしなよ」
起こすために付き添ってるんでしょうが、と指摘すれば、飽きた、とあっさり放り投げられた。
「それに、大事なのは映画を観ることじゃないから」
いまさらそこか。そういうのは早く言ってやれよ、お兄ちゃん。
「はい、戻った戻った。今度会ったらお茶でも飲もう。奢るよ」
「なんで上村が奢るの」
「私の方が年上だから」
「それはない」
笑えない冗談を聞いてしまったとばかり高西は渋い顔になる。
「なくはないんだよ、これが。私、4月の初めに生まれたの。だからハルナってわけじゃないんだけどね。ということで、同じ学年の人と比べたらたいていおねえさんってことになるんだけど、あのクラスなら私が一番上だってわかってるんだよね」
「確実に?」
「確実に。あ、先に言っとくとみんなの誕生日覚えてるわけじゃないから、歩く人物名鑑みたいなのは期待しないように」
しっかりと釘を刺しておく。
「誰のは覚えてるの?」
「え、っと、あれ、誰のも覚えてない。みんな私より遅いのは確実なんだけど」
「なんでわかるの?」
「なんでって……なんでだろう。あ、ほら、数学の授業で、40人のクラスに1組以上同じ誕生日の人がいる確率は結構高いっていう内容が出てきたとき、実際やってみたんじゃなかったっけ。同じクラスに同じ誕生日の人がいる確率は、1から同じクラスにひとりも同じ誕生日の人がいない確率を引くことで求めることができるってやつ。それで、ひとりずつ誕生日を言っていったんだよね」
「確率は1年で習う内容じゃなかった?」
「そう、だったっけね。あれ、じゃあどこで……」
教室の端から順々に自分の誕生日を告げていって、私が4月生まれの人のときだけ耳をそばだてていたのは、あのクラスではなかったのか。
「それだけが理由なら、こっちが奢る」
「いやほら、私社会人だし」
「お茶代くらい稼いでるけど」
「しかも実家暮らしだから余裕あるし」
「同じく実家暮らしだけど」
「じゃあ私が誘ったから私が払う」
「じゃあ俺から誘っていい?」
「だめ。早い者勝ち」
わかった、と退いたかに見えた高西は、諦めたように吐息をこぼしてから提案を口にする。
「次会ったとき、先に誘った方が払う。で、いい?」
「いいよ。私が先に見つけてみせる」
「たぶん無理」
「なんでよ」
「上村は、初対面の人間相手にリンパ球について語り倒すような人だから」
その喧嘩、買った。
そして今、映画館の出口で高西を待ち伏せしているわけである。勝機は目を離すとするりと手のひらからこぼれ落ちてしまう。さっさと捕まえなくては。
「たかにしっ!」
肩に手をかける。後ろ姿に覚えたほんの少しの違和感は、角度が刻まれるたびに大きくなり、こちらに向けられた顔を見たときピークに達する。人違い。
「あ、ごめんなさい。人違いで——」
「上村さん?」
完全に振り向いてから、その人は問うた。私が謝罪を口にし終える前に。
「はい、そうですけど」
どうして私を、上村さんと呼ぶのだろう。上村でいいよ、と伝えたはずなのに。
違う。そうじゃない。それとは別人だ。
どうして私の名前を知っているのだろう。初対面のはずなのに。
違う。いや違わない。でもそれでは、時間を遡ったみたいだ。
遡るって、いつまで? 今日? それとも同窓会? それとも——
「お手つき」
筋肉が固まる。動きが止まる。
高西ではないのに、高西のようなことを言う。高西ではないのに、高西に似ている。
まちがいさがしの対になる絵のように、その人はそこにいる。
それなら。
——私が会ったのは、誰だったの。
耳に甦るのは、誰のものでもなく、私の声だった。




