0序幕
『それ』が怖くて布団にくるまった。暗闇の先にいる気がして止まない動悸を丸まることで沈めたつもりだが、自分がどこにいるのかを見落としていて、暗闇に自分が入ったことに気が付かなかったのだ。今更恐怖に脅えても、見えるはずもなくて、はなから『それ』なんてものはいるはずがないと、思い過ごしに決めつけてしまうのだ。
しかしファントムは存在していて、見える人にだけ認識できるのだと、研究者は語る。
ある男の話。男はとても臆病で、それでいて潔癖症を家族に公言していた。風呂に入る時の出来事。男は誰かが入った後の湯船に浸かることが出来ない。まず高温のお湯をシャワーヘッドから流し、浴槽の壁の全面に流しかけていく、ものを置いている所には重点的に掛け流し、取っ手は手をかける所まで斜めからかけるほど徹底していた。それ故に冬場は湯煙が立ち光が乱射している。すると樹脂パネルの折戸の奥に黒い影がよく、何度も見えていたのだ。男は毎度、背筋を凍らせて恐る恐る扉を開くも、何もない。単に、すりガラスの様に見えるあやふやな物の配置が、収納に畳んだ黒いシャツや、洗濯機を開けて中が見えるや、そもそも外が暗く窓がぼやけていたなど、様々な要因から何かがいるように見えていたのだ。男は安堵して風呂を再開する。そして数日経って、また同じようなことが起こる。扉の奥にゆらゆらりと黒い影が蠢いているのだ。今度こそ、定常通りでなく何かがいるとおぞましく身の毛をよだたせ、折戸を引いた。すると本当にいたのだ。が、いたのは奇怪な妖怪や幽霊ではなく、弟だった。黒い服を着た弟が入ってきていたのだ。それも鍵を開けて。男は今度は潔癖症が背中を痒くさせて、手すりにかけていたタオルや敷いていた足マットをずけずけと踏んで目当てのコンタクトを入れようと鏡に向かって目をガン開いているのが、不快でならなかった。男は足マットを使わないでスリッパをビシャ濡れにして、タオルを使わないでヘアドライヤーで水気を吹き飛ばした。寒い冬の出来事で、熱風さえも冷風に変えてしまう気温を恨み、また異物をことごとく怨んだ。男は鍵を外側から開けられても困らないよう、ドアに隣接した収納扉を開き、そこへ洗濯物入れをひっかけて物理的に突っかかるようにした。これで開けられないと演習も終えて、男は悠々自適に風呂を堪能するのだと、意気込んだが、まだ見えるのだ、黒い影が。男はまず、収納の扉の内側の素材が暗い色だと思い出し、扉越しにじっと見つめた。動いていない、これは黒い影が揺らめいているのではなく、湯気が立ち込めると光の加減で蠢いているように見えていたのだと胸をなで下ろした。そんな生活を続けて、でも黒い影が見えている気がして、何度も開けては、いないことを確認した。男は今でも黒い影の恐怖に怯えながら風呂に入っているのだという。
研究者はこの投稿をSNSで発見すると写真や動画から特定して男の家の浴室を観察した。
夜になり男が風呂に入ると、扉の開閉の度に、いるものがいなくなり、現れる姿を確認した。また、男の浴室に隠しカメラを設置し観察していると、いつもの様に怯えることもさながら、怯える回数が増えていった。次第に男の症状は悪化し、風呂の扉を開けながら入浴するようになる。やがて空いた扉を向いて背中を流すようになり、風呂場を濡らす日々が続いたが、一変して落ち着きを取り戻すと口元を動かしながら入浴するようになり、扉を閉め、怯えることもなく湯船に浸かるようになった。が、まるで二人でその場にいるような映像が淡々と続いた。
ファントムは存在する、しかし、認識するためには見える必要があり、見えるためには――ければならないのだ。




