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0.1河口青-かわぐちあお-

 河口青は裸だった。

 出しっぱなしのシャワーヘッドを体にかけるでもなく下に向け、眉間に皺を寄せ見つめる先はすりガラスの様にざらついて奥の風景がぼんやりと色のみ把握できる樹脂パネルの扉であった。

(何かがいる気がするんだよな)

 河口は試しに、扉へ向かってシャワーをかけた。無造作の中にリズムがあるような水の打つ音がして、結露が落ちて鮮明に、しかし物体の角を捉えられない明瞭な色が浮き彫りになる。河口の見ようとしたモノは見えないようで、恐る恐るノブに手を伸ばして、人差し指を引っ掛けて腕を曲げた。

 そこには非日常などなく、風呂場と廊下を仕切るドアがあって、洗濯カゴには衣類が畳まれていて、右手にある洗面台の鏡を覗いても反射してタオルをかける手すりが見えるだけだった。

 気の所為か、と河口は湯船に浸かった。しかし腕をかけた浴槽の縁へ振動が伝わってくる。上階からだ。二階では河口青の入浴時、母がよくワークアウトダンスを踊っているのだ。河口の心にはすぐに治るであろう傷がついて、それを癒すように湯に体を預けた。

「いるわけないさ、いるわけないさ」

 束の間、どっどっと床を踏み鳴らす足音が耳に伝わる。これには河口は反応しなかった。恐らくは、というよりも確信めいた想像の中には、この家の風呂に入りに来る祖母と叔母だろうとやすやすと考えがついた。祖父母の家は古屋であり湯船がない。昔は泊まりに行けば銭湯によく連れていってもらったものだった。しかし時を経て銭湯は閉店し、自転車で通うほどの距離にはなくなってしまったが故、こうして河口宅に入りに来るのだ。河口は来年から働く身であり、それまでの辛抱だと言い聞かせていた。

 湯船からお湯を引き連れて出ると、かさはどれくらい減っただろうか。そんなことは気にとめず、河口はシャンプーを始めた。潔癖症を謳っている為、シャンプーのポンプを触った手はわざわざボディーソープを一割程度押して洗い流してから手を添える。徹底かつ無駄のない動きには、侍も見習うだろう。

「なんだ」

 目に泡が入らないよう、河口は振り向いた。細めた片目の先は扉を向いていて、僅かに黒いもやが見えていた。それの正体を河口走っていた。光だ。樹脂パネルにぶつかる光は浴室から、風呂場からの二種類ある。加えて脱衣側には小窓があり、裏の家はこの時間、夕方から夜にかけて影が行き来する。浴室には湯けむりが立ち込め光が撹乱されている。三者三様の光が、自分の不安定な瞳と、微動する直立により視線は角度を変えてまるで黒いもやが蠢いているように錯覚しているだけなのだと、知っていた。が、異様な動きように勘は冴えるまでもなかった。そこには何かがいるのだ。河口は戸を引いた、心臓が裏返るように脈打っていた。

「お前か」

 弟だ、鍵を外から開けて入ってきたのだろう、洗面台の縁に十円玉が転がっていた。それを認識した河口はすぐさま戸の隙間を小さく、裸体が見えないよう片目だけを覗かせた。彼は髪をセットする準備に河口の刺したヘアドライヤーのコードを抜いてヘアアイロンを温めながらコンタクト装着していた。河口に見向きもしなかった、自分のことに夢中だった。

 河口は戸を閉めて呆然と立ちつくし、これからを考えていた。まず、河口は風呂に入る前にバスマットを敷いてからはいるが、今、視界の隅に映ったのは黒ずんだ靴下に頭を踏まれるバスマットであった。こうなると河口はバスマットを使えなかった。なんせ、風呂の間と風呂の後は人間の生活の中で最も清潔であると思っているからであった。加えて手すりにかけておいたバスタオルも、他人の垢が蔓延した空間に満たされてしまっては、その繊維のどこかしらに『』が絡まってしまっている気がして使えなかった。

 幸い頭しか洗っていなかった河口は、弟が出ていくのを確認するとびしょ濡れた足でフローリングに水で跡をつけながら鍵を閉め、バスマットを畳み、バスタオルを洗濯機に投げ入れ、スリッパを扉の前に用意して即座に体を洗おうとしたが、ヘアドライヤーのコンセントを刺し直し、持ち手をティッシュペーパーで拭い、誰も入ってこない事ばかりを祈って念入りに裏返しては返して体を洗った。、

 やがて河口はスリッパを水に浸すように足を踏み入れると、ヘアドライヤーで全身が乾かした。寒い冬のことだった、彼の心と体は熱風の連れてくる後の冷気に怯えるように震え、終わった頃にはまるで風呂に入る前のような風貌となって出来上がった。もちろんのこと、床の水は拭いている、手を洗えばリセットなのだ。して、河口はその場にあり続けるものに目を向け始め、まずは、手垢のすり込まれたであろう手すりが使えなくなった。


 それからというもの、河口はどうにか誰も入って来ないであろう楽園を風呂場に作ろうと思案した。その日々は怯えるばかりで、黒いもやは見えているが、今では何かではなく誰かである可能性に二重に囚われていた。

「誰もいないし何もいないだろ」

 呟いて、河口はドアノブが回らなければドアが開かないことを基に、どうにかして服を畳んで入れる棚を取っての部分に持ってきたが、高さが合わなかった。なにか引っかかるものを、引っかかるもの、と河口は浴室に入るドアに隣接した収納戸をひっかけてみた。しかしドアを引けば押し出されて空いてしまう。そこで洗濯カゴを収納戸に挟み入れ突っかえるようにした。すると河口はニヤリと笑みをこぼした。ドアノブこそ捻り回せど、洗濯カゴが邪魔をしてドアが開ききらないのだ。まるで引き戸に箒がつっかえて始まる密室ラブストーリーのような高揚感に似たものを感じていた。

「これで心置き無く」

 しかし河口は誰かが通る足音に、本当にこれが通用するのかを確認してしまっていた。それは不安に変わり、扉を引く回数が増えてしまった。おまけに収納戸の内側の色が黒かったことから、黒いもやが大きくなって見えるようになった。すると今までとは違い、遠近感を感じるようになり、本当に黒いもやが生きているように感じてしまうようになる。河口は悪化していく焦燥と不安に、入浴時間は早まるばかりだった。母親に体を本当に洗ったのかを聞かれたのは小学三年生の時に大晦日番組の笑ってはいけないやつを見るために本当に洗ったかどうか分からないほど早く風呂から上がった以来の事だった。

「なにさ、幻聴なんていつもの事だ」

 日を重ねて幻が体現、または自分の中で作り上げていくような非現実的空間を風呂場に作り出してしまっていた。

 また日をいくばくか連ねて、扉が叩かれる音がした。河口はもう、そこにいるもんだと思っていた。そして扉を開けた時、見事に弟が扉を強気に開けて入れないでいた。しかしそこへ向かった感情はなかった。

「やっぱり、いたんだな」

 そっと微笑んだ。そこには幻影があった。それらを総じて『ファントム』と呼ぶことを、河口はなんとなく理解した。そしてそれは、見ようとしなければ見えないものだと悟る。それ故に恐怖や驚嘆、感嘆もなかった。

 外では急いている人間の音がしていたが、河口は戸を閉めて湯船に浸かった、風呂蓋を外して。

「いるもんだと思うようになったのは、最近だよ。居ないとおかしいって思い始めて……これは、俺が整合性を求めるがゆえの幻覚なのかもしれないが、そうじゃないんだろうな」

「ああ、俺は確かにここにいる」

 黒いもやは河口の中で輪郭を帯び始めた。天井の雫が瞼にかかって、手の甲で擦ると目の前には人の形をしているものがいた。

「俺はお前をずっと呼んでいたぞ。そしてお前が俺を視認できているということは、求めたからだ」

 それは人間といえる、幽霊のような存在であろうかと河口は考えていた。腕があって指がある、顔も、水面の奥には足を組んでいるのが見える。しかし彼は足を伸ばしているはずにもかかわらず、触れていなかった。

「利害が一致したんだ。俺の願いとお前の望みが」

「……俺は何を望んだんだろう」

「わからないか?」

 その胸に聞いてみろ、といわんように自分を指さして口角を上げているように見えた河口は、思い起こした。潔癖症であるが故に窮屈な生き方を強いてきた。それは他人に触れられることを拒み、また他人が触れたものを身につけることが出来ずに洗濯物は自分の物だけを回して自室に乾かした。そのため、服は常に生乾きのようなにおいがして毎度、陽の香りが恋しくなっていた。それもこれも、原因があったのだ。それが何か、河口は思い出そうとしていた。

「そうか」

 河口のため息は水面に弧を描いた。どれにもこれにも理由があるのだ。自分が潔癖症、否、強迫性障害を患うに至った経緯が。

「虐めてくる奴らを、懲らしめたいのか、俺は」

 その胸部には傷があった、まるで裸にならなければ見えないような箇所につけられた意図を感じさせた。自室のクローゼットへ見えないよう袋に入れられた河口の下着は赤みがかっていたことがある。それは彼が受けた、彼の中の理不尽の証。しかし今現在そのような色味はなく、体の傷も新しいものはない。だが彼の中から習慣は抜けないでいた。

 何度も何度も洗って、確認して、確認して、何度も何度も安心して、不安になって、新品の下着は着る前によれているのだ。

「お前の願いは復讐、違うか?」

「どうだろう、自分を取り戻すには、それしかないのかもしれないけれど。なあ、アンタは俺に何を願うんだ」

「俺は加害者をこの手で血に染めたい」

 なにか恨みでもあるのだろうか、と息を飲んだ河口は湯船から上がった。体には深く根付いた痕が散見された。そして頭を流し始める。

「俺たちに必要なのは利害の一致のみだ。それでこそ『共生』が成り立ち、俺は野望を叶えるファントムとして、お前は果たす人間として『霊威』を使うのだ」

 河口の手が止まった。まるで幻想のような物語を頭に描いて、それが絵空事ではないことを悟ったのだろう。まるで風呂場の鏡に文字を書くような儚い羅列ではなく、消せない切り刻まれる文字であると理解したのだ。引き返せない、それが彼の背筋を凍らせた。

「なあ、アンタのことはなんて呼べばいい」

 シャワーヘッドから流れる律動にかき消される性善は、いとも容易く流されてしまったのだろうか。それとも性悪説が人間の根本で、それを群れとして成す事で無理やり押えているのだろうか。

「俺か、そうだな――黒獄こくごくとでも呼べばいい」

 やがて黒いもやは風呂の湯気にとけて消えてった。河口が瞬きをする度に光の反射を失っていく淡い形を見届けて、それが自分の体に馴染んでいくようにして重なり合い、融合していくのを、虚空に焦点をあてて見つめていた。見つめていたのは実態だけではなく、今後をも見据えていたが、彼は拒まなかった。意図して始めて内側に存在を感じることが出来た。そして納得するのだ、これが『共生』であると。


「学校に来るのもあと、数日になるのか」

 教師がいった。それをまともに聞く生徒はせいぜい半分ほどで、他は小声で談笑をするや、書物を読み耽るや部活道具を管理するやにおさまっている。

 河口は柄にもなく頬杖をついて、手のひらをグーパーと開けては閉じて感触を嗜んでいた。それを見た、彼をまるで、道端で砂穴から現れては脈動の閉じられた餌を大勢で運ぶ蟻のように見ている複数の生徒は角の立った目つきをしていた。

「以上」

 ホームルームが終わると四方八方に足音が向かった。そのいくつかはひとつに向かった。

「なあ河口、この後、暇だろ?」

 一人が彼の脇腹に肘を押し付けるように体重をかけると、残る二人の口角が上がった。河口は古傷が疼くのか俯いて背を猫のように丸めて見せた。彼らにつけられた痕は熟した果実の繊維がしなれ決して吹き返すことのない新鮮さを失った、それでいて甘味は奥へと凝縮され隠されてしまった、外側から見るに捨てられる事でまるで美しくなることの出来るような柔らかさを孕んでいた。

 一行は人気のない場所へ移った。そして毎度行われる憂さ晴らしの為にシャツの裾に手が掛けられた。

「なんだ、今日は大人しいな?」

「いつもは嫌がる癖によ、なんだ、これじゃあ俺たちが虐めてるみたいじゃねえか」

「じゃれあおうぜ、俺たちはいつだって楽しいことしてるだけなんだからさ。それとも今日は自分から脱ぐか?」

 なあ、なんかいえよ、と詰められても河口の顔の陰りは晴れなかった。

「俺たちがなんで服脱がすか知ってるよな? 綺麗なお洋服がしわくちゃになったり、下手したらあかーく滲んじゃうからだよな。ならどうするかわかるだろ、脱ぐんだよ?」

「まあでも」

 と腹部を殴りつけた青年は恍惚した様子をしていた。

「もうこんなとこ来ねえし、最後だよ、多分」

 して拳が握られた。興奮で脳が萎縮するように、手の甲も同じように血管が浮き出て収縮するに値して赤みを帯び始めた。行為が周囲に晒されないよう両脇に壁を作ると、河口の丸まった体を覆うようにして、壁に腰がぶつかった。

「なんだか今日は反抗的だな。見てたぞ、肘なんか着いちゃってさ、ボクシングでもやるのかってくらい拳作っちゃってさ」

「俺も見た見た! ぐっぱぐっぱして、強くなったの?」

「そういうとこが癪に障るんだよな、お前の事見てると。なんもしてねえのにムカつくのって、強くねえのに強いフリしてるの見ると殻を剥がしたくなるんだッ」

 壁越しに振動がはね返ってくるのを感じていた河口は、言葉を出せないでいた。

「なんかいえよッ! グズグズしやがって、反応が悪いおもちゃは! 壊すしか後がねえのかな!」

 それでも傷を負い続けた。新たにできた傷は早くも修復を始めていたが、それは追いつかないでいる。増えて、さらに増えた傷の赤みは表へと侵食を始め、猛獣の本能を刺激しようとしていた。くぐもった音が止んだ。

「俺が、反抗しないのは……何も変わらないからだ。俺がお前らに喧嘩で勝っても恨みを買うし、負けたら今みたいなのが続いてた。俺が反抗しても、目をつけられた時点で何も変わらないんだ。変えるならお前らに出会う前の俺なんだと」

「ごちゃごちゃうるせえ!」

 河口は胸ぐらを掴まれると振り倒された。

「気分悪いわ。なあ、お前が喧嘩して俺に勝てるのか? ずっとさ、俺らが悪者で、お前が正義のヒーローみたいな構図で話してんのなんなんだよ。元はといえばさ、お前の態度が悪かったからだろ!」

 それは彼らが出会った時、高校入学時に遡る。席の近かった二人、河口は落ちていた消しゴムを持ち主に返したのだ。その持ち主こそが河口を虐めている張本人であり、彼から見て河口の態度は目に障るものを見るような距離をとった焦点のあっていない目であった。触るは祟り、それがなんだというのだ、と知った河口は思うのだろうが、知る由もなく。

「結局この有様じゃ同じなんだよ。お前がどれだけ根が良い奴でも、誰かに傷をつけた時点で生まれ持った性悪が剥き出しになったんだ」

 河口は蹴られ、拳をあてられ、踏まれた。うずくまるしかしなかったのは、河口の中に染み付いた負け根性故なのだろうか、それとも。

『お前、不幸でいる自分が楽なのか?』と声が聞こえた時には痛みがひいていた。外部から受ける理不尽が無に還るかのように体は溌剌としてゆく。

「ああ……ダメだ、黒獄!」

 頬は地面にずりつけられ、死体を運ぶ蟻が見えた。黒いもやが視界を覆って、上体を起こそうとした頃には虐めていた彼らは一歩引いて慄いていた。河口が膝に手を着いて立ち上がると、黒いもやは彼の手中に収まるように形作っていった。それは黒い縄となり重力に従順に垂れ下がっている。

「黒獄、俺は黒縄こくじょうを使わないぞ……お前は俺の中で生きているじゃないか、それで満たされているはずだ」

「何をいう、共生だぞ。お前の求めるものをやったのだ、それを使わなかったに過ぎないが、俺は与えたぞ。今度は俺の番だ、血を見せろ、手始めにそのガキを殺せ」

 河口は脳液が垂れないよう必死に抑えたが、頭に響く声に揺さぶられていた。その光景を見た第三者は何が何だか把握できずにいて、いつの間にか黒い縄を握っている頭の痛い男が独り言を吐いているようにしか見えなかった。

「やれ、やらないのなら仕向けるまでだぞ」

「それでも俺は傷つけたくない」

「何を綺麗事を守っているのだ、護るべきは自身であろうに。いいか、共生は契約者の任意で情報を共有できるのだと理解しているはずだ。そのうえで、お前は随分と被虐性の高い哀れな人間だと認識したが、自認しているのは強迫症だけではないな?」

「何をいうんだ……」

「不安症に加えて摂食障害も患っている、この情報はお前が開示したものだ、お前は――不幸な生き方に自分を見出しているのだ。潔癖も虐めも、自分が世の中から隔絶された気でいる弱い心にさも真っ当であるかのような理由を与えているな」

 河口が首を横に振ったと同時、ふらついた体から黒縄がしなった。伸び、狙いを定め、的確に標的に的中させた。なおうねる黒縄を見た河口は目を点にした。黒い縄が赤みがかっていたのだ。目線の先、そこでうずくまる一人に駆け寄った二人の手は血に塗れていた。そして熱い、熱い、と空の青さに媚びるのであった。

「どうだ、気分は晴れたか?」

「俺はやってないぞ」

「お前がやったんだ」

「俺じゃない、俺じゃあ」

 河口は駆け寄りその赤を確かめた。黒縄は傷口を熱し炎炎と焼き尽くす霊威である。故に苦しみの奥に熱がこもり、肺から空気が盛れるように微かな酸素を求め、血は固まり肉が解けてゆくのだ。

「消化器と包帯持ってこい!」

 河口は指示を出した。それに呼応して、忠誠心の赴くままに涙の眼をぶら下げて走ってゆくのを傍目に見送った。灯火が弱まってゆくのを手のひらで感じ取った。河口は罪悪感と焦り、僅かな高揚感に心臓が掻き回されていた。

「お前の縋るべきものか、よく考えろ」

 河口は思考した。母も父も皆、彼の見える部分だけを見て何事もなく平常だと安堵している。本当は傷だらけなのに、見ようとすれば見えるものをまるで見ようとしなかった。むしろ虐めてくる奴らの方が自分だけを見ていると、そんな気さえしていた。本当に見て欲しい人達に、自分は見向きもされないのだと。

「見捨ててもいいんだな」

 止血しようとした手が止まった。

「こいつは俺の中で何でもない人間、しかも加害者だ。そんなやつを助けてなんになる」

 目の前の人間が死ぬかもしれない、そう考えるならば助けるのは人間のもっともであるはずで、しかし彼の目の前にいるのは受け入れ難い、度し難い行為を身に降りかけた厄災そのもの、義理などない。

「生きるか見守ろうか、仲間が助けてくれるといいな」

 静かな声でいった。河口は、これくらいの報いがあってもいいだろうと己に言い聞かせた。視界が歪むほどの高温の傷を抱えた人間の行く末を見守ることを選んだのだ。

「どうせ何もできないし」

 目の前の苦しむ人間を見ている自分に思いを馳せた。何度か目が合った気がしたが、焦点が定まっていなかった。怒りはなかった、悲哀も、憂いも、気分も晴れなかった。しかしひとつ、目の前で命が消えなくてよかったと後日、振り返った。

「満足するまで共生は続くさ、そのためにも、お前には一皮むけてもらわねばならんかったが、及第点といったところか、これからが楽しみだな」

「はは、地獄め……治る気さえしてきたな」

 卒業後の一人暮らしにより河口の精神障害は落ち着きを見せ始めていた。手を洗う回数、仕事への不安感、消毒液の使用頻度は減っていき、食事を楽しむ余裕が生まれ始めていた。

 河口青の動向は世俗の記録には残らなかった。全ては対ファントム特装機構、通称アントムによって掻き消され、また、河口青もその一員となるのであった。

もう少し精神障害について描写を増やすべきか

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