服部総業3
路上に出た白川は滲み出した汗をハンカチで拭いながら、少し離れた場所にできた日陰に立つ久慈に合流しようとした時、「白川さんでしょう?」と背後から声が掛かった。振り返った白川のすぐ近くに男が立っていた。
「おお、鯉川さんか」
八〇歳に近い年齢のはずだが背筋はピンと伸び、総白髪の頭髪を短く刈り込んでいる。
こちらに近づいて来ようとした久慈に向けてチラと掌を向け、日陰に留まるよう制する。
「まだその上着着てんの?」
鯉川と向き合った白川は懐かしい友人に出会った時の様な笑みを浮かべて、声を掛けた。
「取り立ててくれた先代への恩を忘れない様にね」低く短く笑うと、「その辺に置いとくと捨てられそうになるんで、誰の物か分かる様に」と、色褪せて古びた作業上衣の左胸に鮮やかな金糸で刺繍された苗字を軽く叩いた。
「鯉川の前に専務と入れようか迷ったけど、嫌らしいから止めときました」
自らケラケラ笑った後、緩めていた表情を引き締め、
「喜楽の件と社長が関係しているんですか?」真っ直ぐ目を見つめて、白川に問い掛ける。老いても目力は暴れていた若い頃と大差ない力を放っていた。
「いや。確認しておきたい事があったから、訊きに来ただけだよ」
柔らかい口調を心掛け、何も心配することは無いと安心させるように応える。
「席に妹さんも同席していたから、確認したらいいよ」
「そうですか。白川さんが言うなら、安心できます」。目から力が消えて、柔和な表情に変わった。
「井出の件で何回も中署の連中が来ましてね。しつこさに坊もお嬢も疲れているんですよ」
心を許せる相手の前でだけ使う呼び方で、鯉川は二人を案じた。白川には分厚く作った柔和な表情の裏に苦悩が隠れているのが透けて見えた。
「分かっていると思うけど、井出の件は厄介で過剰でも足りないくらいだから。悪いけど協力してくれ。こっちの方は気にしない様にしてな」
ハンカチを左手に持ち替えると、空いた手を鯉川の左肩に置き何回も軽く頷き合った。
鯉川と別れた白川は久慈が選んだ喫茶店の窓辺で、久慈と向き合っていた。駅前から南へと真っ直ぐ伸びる国道沿いに建つビルの二階にある店内には絞った音量でクラシック音楽が流れており、数人の客が静かに思い思いに時を過ごしている。
昼食を摂ろうとなった時「食事のメニューが多いから」と久慈が選んだ店で、白川が一人なら決して選ぶことは無かっただろう落ち着いた雰囲気に満たされた空間だった。
無言で昼食を摂りアイスコーヒーが運ばれてきたあと、徐に「コインパーキングから出てきた、あの男は誰なんですか?」と押し殺した声で久慈慶子が問いを発した。
「ビルの陰に隠れて、私達が出てくるのを待っていたんだと思います。彼はどんな人物で、服部とどういう関係があるんですか?」
グラスに唇をつけブラックのままのコーヒーを一口飲み下すと、白川は鯉川との出会いから今までの出来事を掻い摘んで話した。
「服部康介は妹に心配され、鯉川は服部兄妹を見守り続けているわけか」
相槌を打つことも質問を発する事も無く話に耳を傾けていた久慈が、小さく頷いて言う。
「拾って育てて取り立ててくれた先代と奥さんへの恩義を胸に刻んで、必要ないと言われるか自身が倒れるかまでは傍に仕えるんだと、昔から一貫して言い続けているんですわ」
残ったアイスコーヒーを一息に飲み切ると氷を一つ口に含んで、ボリボリと嚙み砕く。
「夫を失った妻、若くして父親を失った兄妹。社長を失った会社を懸命に支えた先輩社員達の思いを受け継いでもいるんでしょう」
言い終えた白川は再びグラスを手に取ると、もう一つ氷を含み噛み砕きだした。
顔を僅かに顰めて氷を噛み砕く白川は、砕いた氷で吐いた言葉の苦さを飲み込もうとしているかのように久慈の目に映った。




