「それ」 田島
◆異世界コード『NGY1180』
*「それ」世界
*田島・亜実がいる側の平行世界
◆異世界コード『NGY1150』
*「これ」世界
*矢崎・望美がいる側の平行世界
複合体オリジンの中間報告時点では、田島が矢崎と最後に交信を行なったのは回収実行日、安藤が問題を起こした日の三日前。つまり、七月十五日の日時になっていた。場所はコメダ兼おかげ庵のいつもの席。田島も矢崎もソロだった。
しかし、実際に最後となったのはあの実行日である。それぞれの異世界の八王子駅南口交番で行なわれた。わずかゼロコンマゼロ数秒間の交信だったため、オリジンは中間報告の時点では把握できていなかった。正真正銘の偶然の出来事だ。
それは交番のカウンター前で起きた。あの当時、少年田島はそこにいて、少年矢崎もその場にいた次第だ。平行世界ながら居合わせた形だ。矢崎の方は、前日に起きた件の都合で、たまたま交番に来ていた。その旨は、最終報告で追加されるだろう。
さて、最後から二番目の交信であの二人が伝えた話題は二つだ。「少年矢崎が自分や家族を守るため、家宝の軍刀で戦うと誓う話」と、「少年田島が恋人柏崎について、個人情報や愚痴を呟く話」ときた……。田島はできるだけ日常を意識したかったようだが、三日後に起きた一幕を考えればさもありなん。
矢崎はあらためて田島に「高い危機感を持て」と指摘した。なかなか意識が高い。しかしながら、彼の努力も二日後に実を結ばなかった次第。努力しようとしなくても、どうしようもない結果は世につきもの。世界は努力より偶然に左右されやすい。
「また今度、バイバイ」
「気を緩めるなよ。じゃあな」
先に席を離れたのは矢崎だ。田島は塾の宿題の残りを済ませるため残る。
最後から二番目、実質最後の交信はあっさり終わる。どのみち身体的接触できないが、別れ際の握手はなかった。
翌週の途中から小学生最後の夏休みが始まるものの、二人とも中学の受験勉強があるせいで気持ちは高ぶっていない。また、田島には亜実たちの脅威が、矢崎には望美たちの脅威がある。程度に差はあれど、田島も気を抜いているわけじゃなかった。
「現地メディアによりますと、ウクライナの首都キーウのマンションにロシア軍の巡行ミサイルが直撃し、多数の死傷者が出ているとの事です」
帰宅後、夕食中に観たテレビニュースに関しても、彼は他人事として受け取っていない。画面に映されたのは、マンションにできた大きな穴やほぼ一面割れた窓ガラス。できたてのガレキのそばで涙を流す住民。保険が効かないのかもしれない。
同席の母親はテレビ画面を一瞥しただけで、夕食を取り続けている。間違いなく彼女自身は、三日後に爆発やらの不幸事に見舞われるとは思いもしまい。海の遥か向こう側で起きた事は、社会科目の頻出問題扱いだった。まあ教育ママをやっていただけあり、世界地図上でウクライナの位置を指し示す程度はできるだろう。
その海外ニュースが終わった途端、アナウンサーは態度を改めてスポーツコーナーを始める。大相撲名古屋場所の取り組みを熱く語っていた。次の気象情報コーナーへ移った頃には、つい先ほど流れた海外ニュースはもう忘れていそう。
「備えなきゃ危ないよね?」
田島は母親に話を振るも、彼女は彼が受験でなく他事へ興味を向けてしまったと捉えた。同じ「備え」の意味でも、いつか起きる災いではなく、期日が決まったお受験の方が大事というわけだ。こういう手合いが、災害やオイルショックの際に慌てふためく。勉強や学歴を否定するわけじゃないが、学位記だけでメシは食えない。
「そういう事は大人に任せておけばいいの。あなたは勉強に集中しなきゃダメよ」
田島母はそう諭し、息子の田島へ一分一秒でも夕食を済ませるよう、手振りで伝えた。パート労働の疲労や時間的都合というよりは、単に勉強時間を増やさせたいからだ。いわゆる「努力厨」の思考回路だ。「頑張れば頑張る分だけ報われる」理論をクソ真面目に信じている。もし事実なら、とっくに我々は哀しみのない世界で、幸福な生活を謳歌できている……。
「ウン、わかった」
田島は母親に言い返さなかった。ただそれは無抵抗でいたいからでなく、余計な波風を立てないようにするためだ。田島母のような高いプライド持ちの教育ママは、自分の子供が実際にバカだとしても、頑なに認めない。自らの遺伝子もバカにされているように感じるのだろう。半分正解なのだが。
田島が意味のない勉強をした点は変えられないにしても、ある程度抵抗してみせた経緯は変わらない。
彼は勉強と勉強の間のスキマ時間を活かし、揃えた材料で火炎瓶を一本作った。作った時点で犯罪になるだろうが、「正しい」は時や場合に法を上回る。アメリカ大統領が国際法違反で罰せられた事が一度でもあるだろうか。現実と正義が彼を突き動かした。
一人当たり何本備えれば適切かは知らないが、彼はその一本だけで安心できず、二本目を作ると決めた。「備えあれば患いなし」というわけだが、マンションの駐輪場へまた赴かなければならない。ただ、以前原付バイクからガソリンを頂戴した後、持ち主がガソリンの抜き取りに気づいたかもしれない。費用的に本末転倒な気はするが、盗難防止アラームをつけたかもしれない想定は、小学生の田島にも予想できた。
……賢明な判断とは言えないが、原付バイクの持ち主は金がかかる解決策を先送りにしていた。バイクカバーも決して安くないから。火炎瓶が作られ、自宅マンションの不動産査定に悪影響を与えられるとは思いもしなかったようだ。
――三日後の七月十八日。終業式および帰りの会を済ませ、昼前に帰宅した田島。彼は母親が作り置きした昼食をさっさと食べ終え、足早に駐輪場へ向かう。彼以外の子供も夏休みに入ったわけで、自転車で外出しようとした者と駐輪場で鉢合わせるかもしれない。
彼の計画は、駐輪場で灯油用のポリタンクへガソリンを詰め換えるまでは上手く運ぶ。しかし前に述べた通り、帰路のエレベーター前で柏崎と遭遇してしまう。彼女の視線は真っ先に恋人田島の顔へ向けられたが、次の瞬間にはガソリン入りの灯油タンクへ。あの当日も真夏日で、ストーブ用の灯油を買いに行かされたとは思うまい。そのため彼は彼女に非常にしつこく詮索され、自宅へ逃げこむことも諦めた。石油ストーブが家のどこにあるかを彼は知らないし、もう片方の手には手動灯油ポンプが握られている。ガソリンスタンドへ灯油を引き取ってもらいに行く途中だという理由付けも厳しい。
「手伝うよ。ワタシ、急ぎじゃないし」
柏崎の余計な申し出に対し、田島は「ありがと」と簡潔に返すしかなかった。彼は柏崎が自身より賢いクラスメイトじゃない点を知っていたが、悟られないよう気をつけていた。自身の諸問題を彼女に話すとすれば、それは自分の方からだと。
田島はどういう切り口で話すべきかを考えつつ、柏崎と無難な会話を続けていた。そのマルチタスクで手元への注意が疎かになり、ガソリンが灯油タンクの口から少しずつ漏れてゆく……。




